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能登の城・砦・館
〜小丸山城跡〜
市街地南西方にある独立丘上に位置する平山城である。小丸山・愛宕山・西光寺山・御貸屋山に区画され、所口城・七尾城ともいわれた。
南側から西に迂回して御祓(みそぎ)川の分流桜川が流れる。実測・発掘など考古学的調査は行われておらず詳細は不明であるが、年紀を欠く江戸時代の山崎文書に、本丸東西50間・南北45間・高さ16間、「はなれ山大念仏山」東西30間・南北7間、「はなれ山天性丸」東西30間・南北7間・高さ10間、「はなれ山宮丸」東西30間・南北410、「宮丸の内に所口気多本宮跡地有り」と記され、故墟考(三州誌)に「本・二・三丸」と記される。
本丸は現在の第一公園、二の丸は第二公園と考えられ、他はまだ史料と対応する地点が明らかでない。本丸には櫓台と見られる高台があり、曲輪の東縁に土塁の跡が認められる。二の丸とは深い空堀で画され、御貸屋山との間にJR七尾線が走るが、もとは空堀であったとの伝承がある。二の丸と谷を隔てた愛宕山の曲輪北西隅に虎口が見られる。
天正9年(1581)8月17日前田利家は、織田信長から能登一国を与えられ(信長公記)、小丸山の新城築城に着手した。同10年1月20日利家は「七尾府中において城を築候条」と鳳至郡中居(現穴水町)の鋳物師に鋳物の差出しを命じており(前田利家印判状写「能登中居鋳物師伝書」加越能文庫)、築城の地は「七尾府中」と総称する地域に含まれていたと思われる。
同11年4月利家は羽柴秀吉より石川・河北の両郡を加増されて金沢の城に移ったが(「前田貞親手記」同文庫)、築城工事は続けられ、同年7月8日穴水南北(現穴水町)の百姓に対し、飯田・正院・上戸・直郷(ただごう)(現珠洲市)の4ヶ村より堂を取り壊して府中まで届けるよう命じている(能登国文書)。また同年12月5日には三輪藤兵衛に命じて「のぼりさほ三十本」を七尾まで取り寄せている(金峰寺文書)。同17年小島・所口の百姓を明神野(めじの)の荒地に移して居屋敷が造成され(同年9月22日「前田利家印判状写」能登生国玉比古神社文書)、またこの頃から所口総構の堀普請が実施された(年欠1月11日前田利家印物「三輪家伝書写」加越能文庫ほか)。
文禄2年(1593)、一説には慶長2年(1597)前田利家の子・利政は21万5000石(「前田氏系譜」加越能文庫など)、小丸山城を居城とした。同4年3月21日利家の遺言によって養老封のうち能登口郡1万5000石をさらに分与された。同5年利政は封を解かれて能登一円は前田利長領となり、小丸山城は金沢城の支城として前田安勝の子・利好が城代に任ぜられた(前田氏系譜)。
同15年利好が没し、同年前田知好が城代となるが(前田氏系譜)、元和元年(1615)の一国一城令により廃城となった。知好は翌2年7月京都へ出奔した(前田氏系譜)。同年の所之口町絵図によると城郭の南東、御祓川の対岸に前田知好の屋敷、城下町の経営などに当たった三輪藤兵衛・大井久兵衛の屋敷が堀をめぐらして配置され、城郭の守将の一人富田与六郎の一族とみられる富田与五郎の屋敷もある。
「能登志徴」に寛永元年(1624)の一覧記に浄土宗西光寺の上の山に前田播磨殿(利好)屋敷跡があると記され、太田道兼の「能登誌」では利政公城跡は小丸山に、能登生国玉比古神社の社地跡は愛宕山とする。寛文6年(1666)の巡見上使案内心得覚(鹿島郡誌)によれば、利政の屋敷は蔵屋敷に、総堀は埋め立て田地に、郭跡は畑になっている。天保14年(1843)8月異国船渡来に備えて能登海岸警備の強化が図られ、所口在住職が発足し、弘化3年(1846)役屋敷の建設が小丸山に計画された(「所口支配向留記」加越能文庫)。
明治4年(1871)11月七尾県が設置されると、同5年2月25日所口村に県庁が開設された。同年9月27日七尾県は廃止され、11月から石川県支庁が置かれた(石川県史料)。同6年の七尾町見取絵図(金沢市立図書館蔵)によれば、支庁は小丸山に置かれており、同7年2月10日まで存続した(石川県史料)。
支庁廃止後、城跡一帯は亀山町居住の士族に払下げられたため亀山町に所属したと思われ、同20年金沢始審裁判所七尾支庁移転新築の土地買収に関する文書では亀山町字小丸山とある。大正7年(1918)12月東側に移転。
同9年4月1日跡地が七尾町の公園となった。愛宕山には明治42年鹿島郡公会堂が再建された。大正14年12月七尾鉄道が小丸山と御貸屋山の間を通過して和倉まで延長された。
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