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中国地方旅行
(その4・萩編−2)

  家老益田弾正の屋敷跡を出てから、東へ歩き、途中、旧毛利邸別邸表門、旧福原家萩屋敷表門などみる。そしてそこを出てからさらに東へ歩き天樹院墓所へ行った。(左の写真)墓所の周りは、石垣の上に屋根瓦付きの白漆喰の壁、門も墓所にしてはなかなか立派なものだった。中を入ると、燈篭が門からまっすぐに伸びる道の両側に並び、また屋根付きの白漆喰の壁と鳥居があって、その鳥居をくぐると、やっと墓が見えた。
↑天樹院の門↑天樹院の中の参道↑天樹院奥の墓地
 天樹院墓所を出てから、さらに東に向かい、橋を渡る。萩城址が近かったが城址へ入る前に、萩史料館斜め前の旧厚狭毛利家萩屋敷長屋(右の写真)へ入った。厚狭毛利氏を語る前に萩藩において藩初にできた制度を少し述べます。萩毛利家を中心とする萩藩には「一門六家」があり、藩士中の最上階層で世々家老職についていました。首席は三丘宍戸氏で、以下二席右田毛利氏、三席厚狭毛利氏、四席吉敷毛利氏、五席阿川毛利氏、六席大野毛利氏でありました。本家は勿論、元就、隆元、輝元、秀就と続く本家萩藩毛利家であります。ちなみに元就の子、吉川元春の家は、岩国藩吉川家となり、阿川毛利家は、元長の子が分家した家です。また同じ元就の子の小早川隆景の家は、皆さんご存知のように秀秋で断絶しています。また支藩には、長府藩毛利家などもあり、そこから清末毛利家などもできています。
 前置きが長くなりましたが、厚狭毛利氏は、総石高8千371石6斗9升7合であった。主として厚狭(山陽町)に知行地をもっていたので、このように呼ばれました。文久3年馬関における攘夷戦の時、総督を勤めたのが毛利能登は厚狭毛利氏9代目の当主でした。この建物は、昭和41年6月11日国指定重要文化財となっています。
 厚狭毛利家を出て、萩城に入る。一番左は、入口の写真。石垣の向うの山は、指月山である。その横の写真は、天守閣址の石垣の写真である。今は天守閣は残っていませんが、幕末動乱の時頃は五層の天守閣が威容を誇っていました。明治初年に、他の全国各地の城と同様に解体されました。
 左の写真は、菊ヶ浜から見た萩城方面の写真です。菊ヶ浜の名の由来は、萩編1でも書きましたが、毛利家の御用商人の菊屋家が、阿古ヶ浜に、藩士や足軽衆のための惣固屋を建てて住まわせたので、阿古ヶ浜を菊ヶ浜と称するようになったといいます。
 第一次長州征伐の後、藩の大勢が保守派(俗論党)に傾くのをみて、危機を感じた高杉晋作は、元治元年(1864)12月15日、奇兵隊の協力も得られないながらも、数十人の力士隊で功山寺で挙兵し、無謀とも思えたクーデターを起こしました。しかし、天才的戦術家であった彼は、下関の新地の藩の会所を襲い金と食糧を奪ったのをはじめに、その後、三田尻の藩の軍艦を奪うなど疾風迅雷の活躍を見せ、瞬く間に勢力を挽回し、萩に迫りました。彼は、奪った軍艦を萩の菊ヶ浜沖に派遣し、萩城に向けて空砲を撃たせたといいます。萩城を守る保守派は、空砲ながら、その威嚇に大いに脅えたといいます。
 菊ヶ浜を西に向かって少し散策した後、再び町中に入り、野山獄(左の写真)に向かった。吉田松陰が、ここに投獄されたことで有名である。真正面というか通りの向かい側には、岩倉獄がある。岩倉獄の方には、松陰と一緒にアメリカへ密航しようとした金子重輔が投獄された。金子は岩倉獄の獄中で病死している。野山獄は士分の者が入るのに対して、岩倉獄は士分以下の者が入るしきたりだった。金子は、下卒のため岩倉獄に入れられたのである。今ではどのような差があったかは、現場をみただけではよくわからないが、扱いには差があったようだ。
 野山獄をみた後、出発地点あたりまで戻り、旧明倫館の明倫小学校に向かう。ここは、岡山の閑谷黌、水戸の弘道館とともに幕末の代表的な藩校として有名であった。見学のために入ろうかと、思ったら、入口の看板に断り書きがあった。現在も実際に普通通りに使っている学校であり、見学の場合は、先に連絡して予約をとってください、と書かれてあったので、入るのを諦めた。玄関から学校の写真だけ撮影して去る。
 自転車を貸し自転車屋に返した後、自動車で村田清風別宅跡(左の写真)に向かった。村田清風は、藩主毛利敬親に抜擢され、長州藩の天保の改革を行なったことで有名です。読書家で、先見性に富み、財政に明るく、質実剛健な気風に一新し、海防などに深い関心を寄せ、軍事力を強化したりした。5人の藩主に仕え、その薫陶を受けた者には、後に長州藩の安政の改革を行なった周布政之助(すふまさのすけ)などがいます。長州藩は、石高30数万石に過ぎない藩であったが、彼の藩政改革は、実質、百万石といわれる藩に変え、幕末明治維新で長州藩が大きく活躍することとなった原動力となりました。ここを出て、次は久坂玄瑞の旧宅跡に向かった。
 左の写真は、久坂玄瑞旧宅跡である。松下村塾では高杉晋作と双璧といわれた人物である。松陰自身は、久坂の方をかっていた節もあるし、高杉晋作を塾に誘ったのも彼であり、そういう意味では塾の先輩にあたる。尊王攘夷の急進論者で、禁門の変で、流弾にあたり負傷し、自刃している。
 学問では、高杉より優れた俊才といわれ、若くして散ったせいか、人気が高いようで、その上NHKの大河ドラマ「花神」では、美男の志垣太郎が久坂玄瑞を演じたせいもあって、ミーハーファンがかなりできたようだ。肖像画などみると、別に美男でもナインないのだが・・・・・
 私はしかし、高杉の方が人物は上と思っている。
久坂玄瑞は、秀才のイデオロギストに多い、パターン化した思考しかできない、頭の固くて面白味のない人間の傾向が強い感じがする。それに比べ高杉は、彼も急進的な尊王攘夷論者だが、頭の思考は柔軟だし、いざ行動を起こした時の活躍は天才的革命家のようなものを感じさせる。
 久坂玄瑞の旧宅跡を見てから、また自動車に乗り、国道191号線を東に向かい、長井雅楽の旧宅前の交差点で北(左)に曲がり、明経中学校の角を右(東)に曲がり、松本橋を通って、品川弥二郎の誕生地の前を過ぎ、更に真っ直ぐ進んで、松陰神社に着く
左の写真は松陰神社の鳥居である。左下の写真は、松下村塾の外観、右下の写真は、松下村塾の内部の写真である。
 吉田松陰については、敢えて書かない。松下村塾は緒方洪庵の適塾とならぶ幕末に多くの偉材を輩出した私塾であったとだけ書いておこう。語り出すと、色々語ることがありすぎて、とてもこんな小さなスペースでは、私自身満足できない気がするからである。吉田松陰については、司馬遼太郎氏の「世に棲む日日」など色々本が出ていますから、詳しく知りたい人は、そういった本を、1、2冊読んでみることをオススメします。
 写真が、かなり暗いが、ここをまわる頃には、夕方近くになってきた上にフラッシュの電池がなくなってしまったせいもある。
 松陰神社の内部(松下村塾など)を見てから、自動車はそのまま駐車場に停めて、鳥居を出て左に曲がり、鳥居の横の道を道なりにいくと、伊藤博文の旧宅(左の写真)があった。また近くに吉田稔丸の旧宅跡・生誕地(右下の写真)。それから松陰を子供の頃、厳しく教育した玉木文之進の旧宅があった。
 玉木文之進の教育の仕方については、先程あげた司馬遼太郎氏の「世に棲む日日」や、「花神」などの作品に出ているから読むといい。例えば、松陰が、虫に刺されて痒くなり、ちょっと皮膚を掻くと、私心に気を取られている、といわれて、ぶん殴られたり、・・また寝る時、枕の周りに刀をたてて、寝返りを打たないで行儀良く眠る為の訓練・・・・などと、読むとまー物凄い武士道教育である。
 左の写真は、確か毛利家の廟所があった東光寺である。5人の藩主や、一族、それに重臣などの墓が多くある。写真で撮影はしていないが、約500基の石灯籠が境内に整然として並び、伽藍も、一番左の総門他、鐘楼や宝殿、書院などとあって、なかなかの寺であった。宗派は、黄檗宗とのことであった。東光寺を見てから、歩いて、松陰神社まで戻り、自動車で今度は、大照院へ向かった。
 左の写真は、萩市の南部、橋本川を渡った向うの山麓にある大照院である。ここも東光寺と同様、藩主や毛利一族、殉死した家臣などの墓があり、これまた東光寺と同様、多数の石灯籠があった。時間も遅いのでざーーっと見て、寺を出る。
 大照院を出てから、最後の目的地、笠山に向かった。ここは貸自転車屋さんに、萩市を一望に見渡せるようないいところないですか?と聞いたら、ここを進められた。しかし、ここについた頃は、もう日没した跡であり、近くに明神池など綺麗な庭園などもあったが、もう暗くなる一方なので、眺めのいいところから、菊ヶ浜方向を向いて写真を一枚撮影して、もう萩を後にした。

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