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中国地方旅行
(その5・山陰編−2)

<月山富田城址>
 松江を出た私は、八雲村を通り、所々崖崩れで工事中の険しい山道を十分気をつけて運転して登った。峠を越えて広瀬町に入り、月山富田城にたどり着いた。

 左の上から2枚の写真は、月山富田城の麓の入り口近くあった鳥居と門である。3枚目も比較的下の方にあった案内板だったと思う。 

 この城は、今更言うまでもないが、出雲を治めていた尼子(あまご、正式にはあまご)一族の居城址である。この城は、NHK大河ドラマ「毛利元就」にも登場したし、その他の戦国物の大河ドラマでも、山中鹿之助が登場したりして、それらの関連でかなり以前から知られた城である。また、この城は、私が住む七尾にある七尾城などとともに日本の5大山岳城のうちに数えられているはずである。
 こんな知られた話しばかりでは面白くないので、今度はちょっと皆さんがそれほどなじみでない尼子氏の出自の話しもしましょう。

 尼子氏は、もともとは近江の方にいた京極氏の一族である。京極氏とは、私が好きな太平記でおなじみの佐々木高氏道誉(京極家5代目)の家系の家である。つまりは、近江源氏の出である。太平記の時代から佐々木道誉は、近江の他にも、出雲、上総、飛騨を持っていた。
 その道誉の子・高秀の三男高久が尼子郷に住んで尼子と呼ぶはじまりのその氏の名の由来のようである。また高久の子持久が、明徳3年(1392)に出雲の守護代として京極家を代表して任国に赴いたのが、出雲尼子のはじまりのようである。
 尼子氏の全盛期を現出した高久から3代後の経久の時代である。彼は、本家京極家からその独立化の動きを警戒され、京都に呼び出されたりもした。しかし尼子氏はこの時には、すでに守護代とし在地掌握に成功したり、美保関の代官職を持って、多大な利益を上げていた。文明10年(1484)下克上の動きを見てとった京極政高は、出雲を攻め一旦尼子経久を月山富田城から追うが、在地を十分に掌握していた経久は、わずか2年で城を奪還した。こうしてこの後、経久による尼子の全盛期を築き上げ、隠岐、伯耆、石見を治め、その勢力下には安芸、備後、備中、備前、美作、但馬、播磨まで及んだのである。
 経久の子政久は、若くして死に、晴久(詮久)の時、毛利攻めに失敗し、晴久の子義久の時、永禄9年(1566)、月山富田城はついに毛利元成にを奪われることになった。
 左写真の広い場所は、は山中御殿と案内の看板に書いてあった。記述は覚えていないが、名前からして山中鹿之助の一族の館があった所であろう。山中鹿之助は太閤記などにも出てきて有名だが、経久から別れでた尼子氏の中で一大勢力を持っていた新宮(初代は経久の子国久)の誠久の子勝久を擁して、尼子家の再興を図った人物である。播州上月城を得たが、またもや毛利氏に攻められて滅亡している。
 この左3枚の写真は、はっきりと覚えていないが、本丸に近い場所の写真ではなかったか。
 月山富田城からの眺めはほんとにすばらしい。真下に見える飯梨川の河原だけでも見下ろすと気持ちがいいが、3枚目の写真のように遠く安来や米子方面まで見渡せるのである。
 山城に居城を構えながら日本海側の要衝の港をおさめえたというのも、見晴らしのいいこの地の利が大いに影響したのであろう。
 この写真は、城の上の方から見た麓の方の郭の写真である。
 この月山富田城であるが、その城の特徴というか構造を考えてみると、それぞれの郭や出丸は、下の門(大手門?)から順々に登っていき連なっているという造りなのだが、私の感想では、近江の浅井氏の小谷城に似ているような気がした。
 まあ山城の研究家によれば、山城なんてみんなこういうものであるらしいが。
<米子城址>
 左3枚の写真は、米子城のものである。
 月山富田城を下山し、安来を通って米子に向かった。米子の町中に入る手前、山らしきものがあると思ったら、それが米子城址であった。天守閣など建物は残っていなかったが、石垣は整然と残っていた。この城は、地図で見ると3つに別れている。山の北西の丘の内膳丸城、西の丘の本の丸、国道を挟んで東側の飯山城である。私が登ったのは本の丸である。
 それで、ちょっと興味が湧いて調べてみた。最初に城を築いたのは、毛利元成の子で吉川家を継いだ吉川元春である。元春は飯山の地に天正年間に飯山城を築いた。
 元春の子広家は、月山富田城を居城としていたが、本城を米子に移すために、天正16年、飯山と峰続きの湊山に新城を築いた。これが現在の米子城である。
 関ヶ原の戦いの後、城主を吉川家から中村家、そして加藤家→池田家→荒尾家(池田家筆頭家老)を変えたようである。領国が最高だったのは、中村家の時で、17万5千石あったようだ。
 またこの城は全国でも珍しく天守閣が二つあったようである。一つは吉川広家が建てた天守閣と、もう一つは中村家が建てた天守閣である。明治になってから西南戦争のような反乱を地方が起こさぬよう全国の城が廃城となったが、その時まで2つの城は並立して立っていたそうである。
<境港>
 米子城を出てから境港に向かった。ここは全国有数の漁港である。また隠岐と結ぶフェリーも出ている。下の写真の長く伸びたタラップがフェリー用のものである。中海美保湾を結ぶ海峡だが、対岸は写真でみるような近さで運河のような感じである。
 上の方の写真では釣りをしているが、カレイを釣っていた。このような運河のような海でもいるようだ。釣り人の向こうに見えるのは境水道大橋で、美保関町の半島へと繋がっている。
 この町でもう一つ云っておくことは、ここは「ゲゲゲの鬼太郎」の作家として有名な水木しげる氏の故郷であるということだ。そんな有名人は1人くらいいるだろうと思うが、境港はこれで町興しをしているらしく、町中の各所で鬼太郎の中に出てくるキャラクターの像と出くわした。こういうのも結構面白い町興しかもしれない。
 境水道大橋を渡り、境港から美保関町へと移動し、日本海側に面したリアス式の海岸に沿った道路をちょっとドライブしてみた。三保神社で何事か参拝してから、ゆっくりと周った。神社仏閣や、奇麗な松原や灯台などもあり、なかなかいい景色だった。その後、また境水道大橋を渡り、弓ヶ浜を南下した。能登の千里ヶ浜とよく似てゆったりと奇麗な曲線を描いた非常に長い砂浜で、夕暮れに染まった弓ヶ浜の景色は格別のものであった。

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