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慶応3年七尾開港問題

(1999年8月27日作成)

※最初に、このページは七尾市から1999年市制60周年、七尾港開港100周年を記念して発刊した「(図説)七尾の歴史文化」の中の上記と同タイトルのページを、ほぼ書き写したことを、記しておく。七尾市以外の方には、知っていただくことの方が大事だと考えたからだ。


慶応3年(1867)7月8日、七尾港に三艘の英国船が入港した。名はバジリスク号・サラミス号・サーペント号で、バジリスク号には英国公使ハリー・パークスと2名の若い外交官、ミッドフォードとアーネスト・サトウが乗船していた。パークスは、幕府崩壊の混乱期に就任した駐日公使で、攘夷から通商貿易へ政策転換した薩長両藩に接近し、幕府を支援するフランス公使ロッシュと対立したことでも有名である。パークスが七尾にやってきた目的は、七尾開港のための交渉であった。(参考: サーペント号がこの時測量した図面を見たい人はココをクリックしてください
安政5年(1858)幕府は米国はじめ5ヶ国と条約を調印し、箱館・横浜など5港の開港、江戸・大坂の開市、領事の駐在などが取り決められた。日本海唯一の条約港となった新潟は大型船の通航に不向きで、パークスは新潟にかわる開港場を探していた。当時七尾は良港としての評価が高かった。
7月10日、加賀藩外国方の役人里見亥三郎・佐野鼎(さのかなえ)がバジリスク号に乗船し、艦上で5時間に及ぶ外交交渉が行なわれた。たくみな誘導で開港を求めるパークスに対し、加賀藩側は貿易による物価の上昇、領民の反対などを理由にこれに応じようとはしなかった。藩は、開港によって七尾が長崎や新潟のように幕府に取り上げられることを恐れていたのである。目的を達せられなかったパークスを乗せた軍艦は、翌11日七尾港を去ったが、同行していたミッドフォードとサトウは陸路大坂へ向かい、金沢城下へも立ち寄った。藩の歓待を受けたサトウらは重ねて七尾での内々の貿易の提案をするが、ここでもその了解を得ることはできなかった。
以後、七尾港での外国貿易は明治32年を待たねばならない。この時加賀藩が決断し、開港していたら、現在どのような七尾になっていたこtだろうか?私は少なくとも、新潟と同様位の港町になっていたように思うのだが。

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