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  能登の民話伝説

 ここに取上げた伝説は、主に「石川縣鹿島郡誌」(昭和3年発刊)など古い書籍に書かれていたものを、私(畝)が、解りやすく書き改めたものです。現在、伝説の対象となっている建物、人物、物などが残っているかどうか、また同様の現象や行事があるか否かは定かではありません。あしからず。
能登の民話伝説(中能登地区-No.1)

<説明神話的伝説>
黒岩 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 白浜(旧田鶴浜町白浜・現七尾市白浜)は金ヶ崎地区にあります。白比古神が新羅を征した後、石船に乗って上陸なされた土地と言われています。その石船の艫(とも)にあたるところが、即ち黒岩です。ここから白比古神社に至る間は、一帯が岩石にして、岩船(石船)の跡であるといわれています。そういうわけで白比古神社のお祭りの日には、必ず東北の風が強いといわれています。
晴れと雨 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 4月と9月の18日は、良川(旧:鳥屋町・現:中能登町良川)でお祭があり、20日は小竹(旧:鹿島町・現中能都町小竹)があるが、昔より一方の祭で雨が降れば、一方は必ずお天気となるという言い伝えがあります。これは良川の神様と小竹の神様が仲が悪いのが原因と言われています。
天神礁 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 天神礁は、新保町(七尾市)の海の中、岸から十間(約18m)の所にある奇礁です。昔、ここの氏神(土地神である天神)が、この礁に乗ってここへ来られたといわれています。
<巨人伝説>
丸山とおき塚 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 (旧:鳥屋町・現:中能登町)川田の田んぼの中に、丸山と、おき塚という向かい合った小丘があります。これは弁慶が運んでいた畚(もっこ)の縄が切れて、落としてしまった土が、丘になったものといわれています。
弁慶の足跡・手跡 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 七尾の霊泉として有名な岩屋の傍らの、石の逕(道)の急峻な所に、岩に大きな足跡があるといいます。これは義経が、奥州落ちする際、ココを通り、弁慶がつけたものと言われています。
 また鹿島町の井田不動瀧にも弁慶の手の跡と称する大きな石があります。
<九十九(ひづめ)伝説>
そうはちぼん(ちゅうはちぼん) 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 秋の日暮れていつのまにか夜となる時期に、西山(眉丈山)の中腹を東より徐々に西に移り行く怪火を「そうはちぼん」、あるいは「ちゅうはちぼん」といいます。そうはちぼんは、(旧:鳥屋町・現:中能登町)羽坂の六所の宮より現れて、一の宮(羽咋市)の六万坊へと目指す怪火であります。
 かつて、そうはちぼんが、一の宮権現(気多大社)に、人を食いたいと願ったところ、鶏の鳴かぬうちに此処まで来れば、人を食わせてやろうとの一の宮権現から言われたのでした。そこで、そうはちぼんは、毎夜日暮れ頃となると、一の宮へ行き人を食おうと、羽坂から現れるのですが、良川を過ぎる頃には、八ッ時(午前2時)頃で、金丸あたりまでくるとまごつきだし、柳田あたりまで来たときには、鶏の鳴き声を聞くこととなり、仕方なく夜のうちに六所の宮に引き返すといわれています。よってこの鶏の鳴き声は、一の宮権現が鳴かせているのだと言われています。
 昔(大正の頃)、(能登部の眉丈山を挟んで裏側にある)後山の西照寺の住職が、夜中寺に帰ろうとして、眉丈山の中腹にかかったところ、あたりがポッと明るくなったので、不思議に思ってあたりを見回すと、大きい高張提灯とおぼしきものが現れ、山の背より谷に真一文字に緩々(ゆるゆる)と進んでいった、という話も残っています。
 ちなみに石動山続きの山にも、七尾の古府の城山の首塚あたりから現れる怪火もあるといわれています。
<樹木伝説>
化椿 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 (旧:鹿島町・現:中能登町)在江(あるえ)の藤井家は、十村(加賀藩独特の役職で、幾つかの村の大庄屋で代官を兼ねた者)を勤めた旧家で、その庭園には、周囲ニ尺あまりの老椿があり、花は紅の一重ですが、蕋(しべ)が丸くで、毬(まり)のようで、形が非常に奇異で、俗に化椿と呼ばれています。古府の城山より根分けした拝領の椿といわれ、城主の畠山大納言が、藤井家へお立ち寄りになった際、この庭の椿が喜びのあまり、踊り出てきたのでこの名がつけられたと伝えられています。
明星館の松 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 (七尾市)矢田町の矢田神社の境内に一株の老松があります。樹齢は、1300年余りといわれ、周囲が3丈6尺(約10m80cm)、高さが27間(約49m)あります。その傍らに、小さな祠があり、明星館と称します。古くより、丑満時にあわせてこの明星館に願をかければ何事も叶わぬことはないと言われ、老松に打たれた何十かの釘は、女の切り髪とともに、丑の時詣での姿を偲ぶものとなっている。
諏訪神社のタブ 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 (旧:鹿島町・現:中能登町)芹川の諏訪神社の傍らに大きなタブの木があり、ある年の五月晴れの風も無い穏やかな日に音も立てずに倒れました。その倒れたタブの大樹はその後、人知れず、起き上がり、何事もなかったかのように元の通りに立っていたといいます。
火防(ひぶせ)の榎 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 (旧:田鶴浜町・現:七尾市の)大津に、榎の老樹があり、昔から火防の神が宿った神木と言われてきました。(昭和3年から数えて)およそ100年前の3月、久右衛門の家より出火し、17戸の家が灰燼に帰したが、この際、この神木から水が噴出し火を消し止めたと伝えられています。そのため今(昭和3年)も、3月10日大津神社において、鎮火祭を執行しています。
船塚の松と水白の松 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 (旧:鹿島町・現:中能登町)井田の山麓に船塚という旧家があります。邸内に瓢(ふくべ)型の塚があり、俗に仙人塚と呼ばれています。塚の下に松の老樹があり、周囲が約3mもあり、ここが鹿西平野内の邑知潟の入り江であった時代に、船を繋ぎとめた松であったと言われています。仙人塚は同家の祖先が入定した塚とも称され、洗濯物を干したまま家人が留守の際など、俄かに雨が降ってくると、雨に濡れないように、竿のまま軒下に入れられていることがあるが、塚の仙人がした仕業と伝えられています。
飯川の大欅(けやき) 参考:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 (七尾市)飯川の大欅は、元、頓聽寺境内の神木です。
 昔から、この木には天狗が棲んでいて、その向かい隣の堀岡家の酒倉に酒を呑みに来ることがあるといわれていました。
 また村内の凶事を告げることもあると言われています。
 この大欅の木の高さは十数間(20m前後)、周囲4丈(約12m)ある。高さ一丈余り(約3m)のところで、幹が2つに分かれているが、分かれた二株がいつしかまた抱き合うように合わさって一株となってしまった。またその株が分かれたところに石を抱くように挟んでいるが、昔、弁慶がここを通った時に、載せ置いた石と言われています。現在もある飯川神社の大欅

 では少し詳しく飯川の大欅の天狗の話をしましょう。先ほども言いましたが、この天狗は大の酒好きでした。たえず飲む機会を窺がっていましたが、隠れ蓑をどこかに置き忘れ失くしてしまったので、こっそり忍びこむ訳にもいかず、困っていました。それでも将来を占うことができる自慢の高い鼻を持っていましたから、天狗はそれに目をつけて、ある夜更け堀岡の酒屋を訪ねました。

 「爺さぁ、おるかい。」
 「こんな夜更けに誰やぃ。」
 酒屋の主人は、答えたあと、天狗を見て最初は吃驚しました。でも案外大人しそうな天狗なので安心して
 「何か御用ですか?」
とあらたまって聞くと、
 「実は・・・・一杯飲ませてもらえんかの」という。

 「カネは、持っとるかいの?」と酒屋の主人が聞くと、天狗は
 「そんなもんないが、おら、銭よりかよっぽどいいもん持っとるぞい。」
と言いました。
 主人は興味深そうに、
 「ほほぅ、で、それぁ・・・・・なんじゃい?」
 「千里鼻ちゅうてな、五年先のことでも、臭いで証せるんや。」

 主人は、話を聞いていると、どうも間抜けそうな天狗である上に、あまり信用できそうになかったので、
 「ふぅん、おら千里眼ちゅこたぁ聞いたことあっけど、千里鼻ちゅうがはじめて聞いたわ。んまいこと言いくさって、どっこい騙されんぞ。そもそもお前、天狗というけど隠れ蓑持っとらんがい。」
と思っていることを正直にいいました。

 「爺さ、そりゃおまいさんの言う通りやがの。たとい、そいつを持っとらんでも、おらの鼻ぁ、伊達に高いのと違うげんぞ(違うのだぞ)。なんなら、おまえさんとこの事言うてやるがいの。そうだな・・・どうせ、この樽ぁ、そうだな明日の朝までに三つ失くなっとるぞい。じゃまた後で・・・・。」
 天狗は、そんな事を言って帰りました。

 翌朝、酒屋の主人が、酒蔵へ行ってみると、確かに酒樽が三つ足りず、驚きました。
 その晩酒屋の主人は、向かい側の欅の下まで行って天狗を恭しく迎えた。たっぷりと上等な酒を飲ませてから、さらにお礼として酒樽1つ差し上げた。そして今後も、当店(堀岡家)、さらには村に何か置きそうな場合は、前もって知らせて欲しいと天狗に頼みました。

 それから天狗は樽の酒がなくなると、再び酒屋を訪ねました。
 「爺さ、おるかい。」
 「これは、これは天狗様、こんどは何が起きるがで・・・・・」
 「たいしたこともないが、分吉のおとご(末っ子)が危なての・・・・」
 「えっ分吉っつぁの。あそこぁ、おら家の大事なお得意やさかい、教えてやらにぁ・・・で、どうして危ないのかいの」
 「なあに、明日になりゃ分かるわいね。」
 ここで、天狗はわざと威厳をつけて、説明しませんでした。

 あくる朝、酒屋の主人は、分吉の家へ行って、おとご(末っ子)に注意するように話しましたが、分吉はそれを真に受けませんでした。そのため分吉の末の倅が、山へ入って道に迷い、やっとのことで助け出されるという騒動がありました。
 翌朝天狗が堀岡の酒屋へ行くと、その話が出て、天狗はそれこそ鼻高々にして、
 「爺さ、そやから、わしを大事にせんと今にばちぁ当るぞい」
と言いました。主人は、
 「ええ、ええ、ご尤(もっと)もで。今回の一軒でおら、村のもんの信用を得させてもろいまして・・・・さ、さ、天狗様、いやというほど飲んでくだされ。」
 天狗は、またも存分にご馳走になり、その上、大きな酒樽まで土産にもらって帰りました。

 それからこの隠れ蓑のない天狗は、すっかり自信を取り戻し、欅の上にも目に付く位置に堂々と腰掛けるようになりました。
 天狗は、ある年、今年は洪水で凶作になる危険性があると、村人に警告しました。そこで村人は、村の東側を流れている川の土堤を、しっかり固めました。また小さな用水や溝にいたるまで、充分に修繕し、流れをよくしました。
 やがて梅雨がやってくると、天狗の占いが的中しました。そして飯川は無事水害から免れることができました。
 天狗は、村人から敬われ、毎晩、好物の酒にこと欠くことがなかったとさ。
五老峰の松と水 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 石動山五社権現が厚く瑩山禅師に帰依し、戒法を稟受しその恩に酬(むく)いるために石動山の松を永光寺(羽咋市酒井町)に寄進なさった。石動山に松が生えないのは、このことによるものと言われています。また(永光寺のある)洞谷山中の水が豊富なのもこの為ということです。
お蔵屋敷の山楠 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 (旧:中島町・現:七尾市)中島町の昔御収納蔵があったと言われる山の古い楠の木に、天狗が棲んでいるという話がありました。この木は、日露戦争となるや、その葉を悉く散らせてしまったが、戦争が終結して平和が戻るや再びもとのように葉を繁茂させてしまいました。これはすなわち神様の仕業に違いないと人々は言い合ったと伝えられています。
長刀椎 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 (旧:鹿島町・現:中能登町)久江の久テ比古神社(「テ」は「低」という字からニンベンをとった字)の境内に椎の大木があります。その様が長刀の形をしていたので、長刀椎と呼ばれています。ある年の平国祭に、気多神社宮司監物が、神輿に供奉(ぐぶ)していたが、遅れてしまい、(当社には立ち寄らず)桃川の橋の上から当社を遥拝して(省略して)神輿を追ったが、たまたま空中から宮司に神社に戻れと喚(わめ)く声が聞こえ、監物はこれを大いに恐れ、切腹してその罪を謝ったといいます。後世の人が、その記念としてこの椎の木を植えたと伝えられています。
諏訪明神の杉 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 (旧:鹿島町・現:中能登町)武部の田んぼの中に諏訪の森と呼ぶ森があります。これはもと諏訪明神の祠がこのあたりにあったことからそう呼ばれているのです。祠の移転後、社地にあった杉の大木を伐ったところ、切り株から、一夜のうちに長さ一丈(約3m)ばかりの杉が生じて大木となってしまった。現在でもこの森に入って木などを伐採すれば、この杉の大木から大蛇があらわれて人を追うといわれ、近づくものもないそうです。
<石伝説>
蛇胎石 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 蛇胎石は、(羽咋市酒井町)永光寺本堂の傍らにあります。蛇の体をした妖霊が、瑩山禅師のお導きによって、邪を捨てて正に帰し、永く永光寺の山門を鎮護しようとして石に化したのだと言われています。
八幡神社の神石 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 (七尾市)奥原町に、1人の漁師がいました。ある日出漁してみると、枕に似た石が網にかかったので、これを取り除き海に捨てたが、もう一度網を入れてみると又引っかかっているのである。前回同様、海に捨てて、また網を打ち引き揚げてみるが、何度やってもまたその石が網に引っかかってくるのであった。漁師は腹立ちのあまり、櫂でもって、その石を櫂でもって真っ二つに断ち切り海に投げ捨てました。

 ところがあくる日も、そのあくる日も、大漁の時には、その石が元の形になって網に引っかかってくるのでした。そして不漁の時は、その石も姿を見せませんでした。どうも不思議な石だと思ったので、家へ持ち帰りました。

 すると数日後、同じ村の助右衛門という百姓がやってきて
 「おまい、海から、枕みたいな格好の石拾うてこんかったかい?」
と聞きました。漁師は「ああ拾い上げたよ」と言うと、
 「そいつぁな、おらちの村の守護神やとい。よんべほんな夢みたがでな。どうやいか、一つ村のもんに言って聞かして、神社を建ててみんかい。」

 という訳で、彼らは村の衆を動かして、山の中腹に八幡神社を設けて、そこにその石を祀ったということです。
 おかげで奥原はそれ以来漁業も農業もうまくゆくようになったということです。
猿田彦の御神体 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 (旧:鹿島町・現:中能登町)小竹の酒井家の鎮守は猿田彦であって、黒い二寸ばかり(約6cm)の石を御神体としていたそうだ。
 昔、同家の主人が畑を鋤いている時、一個の奇形な石がその鋤の先に当たったので、これを拾って遠くに投げ捨てたが、その石がいつのまにか元の場所に戻っていた。
 
 不思議に思って、同じように何回か投げ捨ててみるが、何回やっても依然として同じ所からまた見出されるので、これを御神体として祀った。
 同家では、鎮守の神が忌み嫌いなさるからとの理由で鶏を飼うことをせず、卵も食べないことを家の掟としている。この酒井家は今では廃絶して、椿の森蔭に鎮守の祠のみが残っているという。
竹生島の小石 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 (旧:能登島町・現:七尾市)鰀目の竹生島には、大小問わず、島の石を持ち去ることができないと言い伝えられています。
 今(昭和3年)より30年前、(能登島町)向田の大久保某というものが、この島にやってきて海鼠引網に使う小石を一個拾って持ち帰ってきました。すると、その日の夜半と思われる頃、荒坊主がどこからとなく現れ、早くその石を返せ、騒ぎます。
 一晩中眠らせてくれないので、彼は心中大いに恐れを成して、夜明けを待ってすぐに、その石をこの島に持ってきて戻したといいます。
 またある年、(七尾の)石崎村の漁師が、この島にある石の祠を盗み去ろうとして、船に積み込んだところ、船が全然動こうとしなかったので、心窈に罪を謝し、もとの通りに置いて去っていったといいます。
ゑぼ石 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 七尾の臼池に鉱泉がありました。ここより約一町(約109m)にある弘法の堂の傍らに拳の大きさくらいの石があり、ゑぼ石と言った。この石で擦るとゑぼ(イボ)がなくなると言われています。

 鹿島郡中で、ゑぼ石の最も大きなものは町屋(七尾市高階地区)元伊保池神社の境内にあります。これを使うと肌が滑らかになり、そのため今も、ゑぼ石を取りに来るものが少なからずいるといいます。能登国分寺跡の石にもこれと同様の話があるようです。
的場の石 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 (旧:鹿島町・現:中能登町)武部の田んぼの中に、的場という畠地があります。そこには奇怪な形をした石が多数点在していますが、それらの石にはさわると祟りがあると言って、採る者もいなかった。

 江戸時代の天明のある年、肝煎の与次郎の倅の某が、庭を構え、的場より石を運んで庭石としたところ、その母が病に罹ってしまった。医療の手を尽くしたがその甲斐もなくあとは死を待つばかりの状態となってしまった。

 そんなある日修験者が病人の容態を見、その後、屋敷を一廻りしてこう言った。「この病気は、他所からここに石を運んだ祟りである。その石を元の所へ返せば、病はなおるだろう」と。そこで早速、その庭石を元の場所に戻してみると、母の病はたちどころに癒えたとのでした。
机島の硯石  出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 (中島町沖に浮かぶ)机島には、島の名の由来である机形の石と並んで、地上に二尺(約60cm)ほど露出した硯石があります。
 中央に凹形のくぼみがあり水を湛(たた)え、盛夏旱天の天候の時でも、また霖雨(ながあめ)の天候の時でも、水の量にいささかの増減もないと言われています。俗に弘法大師の硯石と呼ばれたり、あるいは大伴家持卿の硯石とも呼ばれたりもします。

 昔からの言い伝えで、この水を掻き立てるようなことがある時は、どんなに快晴の天気であっても、忽ち大時化(おおしけ)となって、船をこぎ戻すことができないほどになると言われています。

 (昭和3年から数えて)数年前の事である。石工の幾人かがこの島に渡り、巨石奇岩を切り出していた。あとは最後の鑿(のみ)を、硯石に加えるだけとなったその前夜、空には一片の雲もなく風は凪の状態で鏡の様に静かな状態であったのに、夜半と思われる頃から、石工の寝ていた小屋が倒れそうになるほどにビリビリと揺れだした。

 石工らはビックリしてガバッと跳ね起き、小屋の外へ逃れてみると海は依然として凪いだ状態で、月さえ煌々と照り輝く夜空なので、不思議に思い、再び小屋に入り枕に就けば、またもや物凄い音を立て揺れだすのであった。

 その恐怖に彼らは、小屋で寝るのをやめ、松の木陰で戦(おのの)きながら一夜を明かしたのであるが、日が出るとついに、石工たちは、後始末もそこそこに急いで、この島から引き揚げてきたとのことである。
八幡様 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 今(昭和3年)より800年前、(七尾市)石崎の漁師・孫次郎なるものが牡蠣浦に出漁したところ、石塊が一つ網にかかった。
 その漁師は何気なくその石を取り除いて海の中に投げ捨てたが、その後も、海に網を入れると、その場所に下ろす時は、必ずその石が網にひっかかって、引き揚げると入っているのであった。

 孫次郎も、はて不思議な石だなー、と思っていた。ある夜、その石が夢に現れ「吾は神なり」と告げたので、孫次郎は驚いて牡蠣浦に赴き、網をおろしてその石を得て、それを我家に今度は我家に持ち帰って、祀った。そして後には、祠を建てて氏神としてこの石を祀った。今ある八幡社がすなわちその祠であります。

 このような訳で、人々は孫次郎の家を神様のお里と称して、神輿を出す時は、常に孫次郎の家の東から渡御するのを仕来りとした。その後、この地域の東西双方の勢力争いより、神輿を出す時は、交互に東西から渡御し始める事に変更した。しかし、東を後に、西を先にする時は、神輿が大磐石でもあるかのように重くて、とてもとても担いで動かすなどとはできるような状態ではなかった。この奇跡により、西方も遂に(我を通すのをやめ)折れて、元のように東から渡御し始めることになった。

 この御神体が、海からあがったと言われる牡蠣浦は、今では埋め立てられて浜岡新開となっているが、八幡平と称して榊を植えてその記念としています。
日の輪石 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 (旧:鹿島町)水白(みじろ)の一本松地蔵のあたり、県道を横切る川に架けた大石を、日の輪石と言った。日の輪石は、日の出日の入り及び正午頃、空が晴れ渡る日、直径が一尺(約30cm)あまりの日輪のような影がこの石に映ることから名づけられたものである。昔、これを盗みとろうとした者がいたが、大雨が沛然として降り、遂にその目的を達成できなかったという。日の輪石を、橋として架けたのは、旧藩時代であるが、この地方の人々は勿論、武士でさえもこの石を踏むのを畏れたといいます。
雨乞石 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 雨乞石は(七尾市)麻生と(七尾市)清水平の間にあり、昔、山婆が持ち帰った石と言われ、旱魃の際、雨乞を行えば必ず雨を降らせるといいます。
<城址伝説>
勝山城 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 昔、(旧:鹿島町・現:七尾市)徳前の東馬場生まれの若者を奉公人として抱え、勝山の城跡へ遣わしたところ、白髪の老人が忽然として現われ、「その方はここに来るべきものにあらず、早く帰れ」と厳しく叱責するので、奉公人は畏れ戦き一目散に逃げ帰ってきたが、その日から患い4、5日で死んでしまった。これは勝山城の戦いの際に、東馬場のある者が、敵方に城の模様を内通したため、遂に城が陥落した怨念の祟りであるといわれています。その後は、東馬場生まれの者は、城跡へ誰一人として立ち寄る者がいないといいます。
城山 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 畠山氏の居城であった城山には、五月雨の降り注ぐ夜、斬りあう太刀の音、或いは弓弦の響き、甲冑の揺らぐ音が聞こえるといいます。城と運命を共にして亡くなった将士の怨みによるものであるといわれ、武士で登山する者があれば、晴れた日も遂に雷雨となり、盛夏でも霰(あられ)を降らすといいます。
牛裂の石 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 上杉勢は、石動山に一宿して、その夜未明頃から、ひた押しに一挙に城を屠るような勢いであったが、畠山勢は、夢にもそのようには考えていなかった。この時、石動山の幼児の中に梅丸というものがおった。
 
 七尾塗師町神明屋の次男で当年12歳になっていた。上杉方の計略を聞いて、何とかしてこれを味方に知らせようとして、夜中を冒して城山に注進した。

 明けがた山伝いに石動山へ帰る途中、図らずも上杉方に見つかり(七尾市)多根(城山と石動山の間の山中にある)で牛裂きの刑に処せられたといいます。多根街道には、牛裂の石と云う石があり、今も梅丸の哀れを物語っています。
白米の瀧 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 上杉勢が、七尾城を陥落させようとして、まず城への水を絶ち切った。城はさて如何様になったかとその将が、橋の上から立って見たが、城内では、いまだに水が尽きた気配が無いばかりか、城内から瀧水の落下するのが見えた。

 上杉勢は容易に城を落すことは出来ないと悟り、兵を返そうとした。戻橋とは、この故事により名づけられたものです。その時、無数の鳥が瀧に群れて集まって来たのが見え、さては白米で瀧に見せかけていたのだな、と悟り、軍を返し、津に城を陥落させたといいます。
<長者伝説>
銭いっぱいの長持 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 (七尾市)大野木に昔、七右衛門という者がいた。ある夜、自分の家の長持が銭でいっぱいとなる不思議を夢を見た。その朝、夢で見たのと同じように一匹の蛙を捕らえて袋の中に入れ、その後、ひそかに長持の中へ移し入れて置き、数日を経てからこの長持を開けてみた。

 するとどうだろう、長持は銭でいっぱいとなっていた。七右衛門は大いに悦んでこれを資本として田地を開拓し遂に分限者となってしまった。(七尾市)江泊の八幡は七右衛門の開墾地であるといういます。
<金鶏伝説>
かつと石 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 (旧:中島町・現:七尾市)横田の二の谷に高さ一丈(約3m)幅が七尺(約2.1m)ばかりの巨石があった。その石を「かつと石」と言った。昔、清三郎という老爺がいたが、毎夜「かつと石まで来い」との神様のお告げがあったが、行こうとするが、真夜中の物淋しさ、1人で来い、とのことであったのでなかなか行かなかった。

 毎夜のことなので、ある夜、爺はやむを得ず鉞(まさかり)を携えて山へ分け入ったが、その石に近づくと、急に黄金の鶏が現れ「かつと石」の上から飛び立って、一声「ケケッコ」と鳴いた、そして同時に石は「かつ」と音して閉じてしまった。
黄金の鶏 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 昔(旧:鹿島町・現:中能登町〜羽咋市)曽称の源作寺跡に家を構えた一民家があった。ある年の元旦に、どこより飛来したのか黄金の鶏がその家の座敷に飛び込み、一声高く「東天紅」と叫んだ。家人は大いに喜ぶと同時に驚いて、これを捕らえようとしたが、何処へともなく逃げ、去ってしまった。もしその時、この鶏を捕らえたならば巨万の富を得たであろうと人々はひどく残念がったということである。
経塚 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 (旧:鹿西町・現:七尾市)後山に近い柳谷内の経塚には、正月元旦に鶏の鳴き声を聞きその場所を掘れば宝物を得ることが出来るという言い伝えがあるが、今(昭和3年より)百二、三十年前、島田某が、本家から別家して間もないある年の元旦、まだ夜深い時刻に夫婦とも、塚のあたりから鶏が二声啼いたのを聞いたといいます。また(この話も元旦の日に鶏の声を聞いてのことであろう。話が省略されていて想像するしかない)上後山の医王山玉泉坊の寺跡にある白椿を掘れば宝を得ることが出来るという言い伝えもある。
火の雨が降る 出典:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)
 昔、(現羽咋市・昔は鹿島郡内にあった)四柳に薬師寺の古刹があったが、天平年間に兵火に遭い、灰燼(烏有)に帰してしまった。その寺の跡に巨石があって地中深く金銀珠玉を蔵しているという事だが、それを掘ろうとすると、火の雨(氷の雨か?)が降ると言い伝えられている。かつて村内の人々がこれを掘り出そうと試みたが、言い伝え通りに俄かに火の雨が降ってきたので、皆驚愕しこの試みを中止したそうである。猶、正月元旦に巨石付近に鶏の声を聞くことがあるという。

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