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  能登の民話伝説

  ここに取上げた話は、主に「加能越良民傳」(石川県図書館協会・昭和47年発刊)に書かれていたものを、私(畝)が、訳したものです。また他にも能登各地に残るその地域の良民・偉人・木鐸となった人などの話などを採り上げていくつもりです。
  「加能越良民傳」は昭和年代に新たに書かれたものではなくて、「加能越三州孝子傳」(道者亭主人・寛政6年(1794)寅の春)「三州良民言行録」(河合良温著・享和2(1717)年)の二つの書物をまとめて所収した本である。そしてこの二つの本は、ほとんどの話が重複する内容となっている。また「加越能三州孝子傳」の方が古文体というか江戸時代の文体で書かれているのに対して、「三州良民言行録」の方は漢文で書かれている。この辺の関係についての考究はこの本の巻末の解説でもなされている。(石川県の人で)興味のある人は、図書館へ行って借りてきて読むのもいいのではなかろうか。
  最後に、訳についてですが、何分浅学な知識で訳すため誤訳も生じるかもしれません。意訳もかなり用いました。またたとえ間違いでないにしろ、拙い訳と思える箇所が多々あることでしょう、その当たりはご愛嬌ということで容赦願います。
能登の民話伝説(能登良民伝-2)

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市十郎 
 「三州良民言行録」の中の“市十郎”の拙訳   
 能登の羽咋郡川尻村に裕福な農家の市十郎という者がおり、その村の村長をしていた。寛政癸丑(寛政5年(1793))の春、市十郎は、漁によって鰮(=鰯(いわし))を極めて沢山獲ることが出来た。村人30人余りが、これを(※1)60万銭で買い、天日に晒(さら)し干した上で、近郡の諸浦の集落に転売した。しかしながら諸浦でも沢山の鰯が獲れ、値が暴落した。川尻村の漁民は利を失い、借金は5倍に膨れ上がった。よって再度市十郎のもとを訪ね相談した。

 市十郎は、そこでまた、以前から売買している場所で販売し、その際30万銭を得た。そのうち15万銭で、かの30人余りの村人に与えた。これでもって村民は、鰯を晒し干しの労賃を償いに充てた。残りの15万銭は、すなわち網元に与え、分かち与えた。網元の仲間も40人ばかりいたが、利を失い苦しんでいた。市十郎は、これを哀れみ、また己で獲って得た利益から、また例の40人あまりの輩に分け与えた。借金をかかえるものは無くなり、近隣の里の者は、感激してその長者の恩恵に服した。

 市十郎が持つ田は、(※2)数頃(数百畝)あった。耕し植えさせて、務(つと)めて慈愛の心をもって人々に恵みを施した。この事で彼の名声は遠近に轟きわたり、その行いを世に知らしめた。郡令(郡奉行?)の神保純倫栂は、これを恭しく褒め称えた。この詳細は、それを聞いて記したものである。
(註)
(※2)ここでいう銭の単位は、銀の匁(もんめ:3.75g)かなとは想像するが、漢文で気取っ書かれていて、はっきりしないので、60万銭は60万銭とそのまま書いた。
(※1)「頃」は、中国の面積の単位で、1頃は100畝(周代の1畝は、1.82アール。よって1頃は1.82haにあたる)
五郎右衛門・五兵衛・傳兵衛 
 「三州良民言行録」の中の“五郎右衛門・五兵衛・傳兵衛”の拙訳  
 五郎右衛門・五兵衛・伝兵衛は、皆能登の鹿島郡田鶴浜の裕福な農家であった。寛政癸丑(寛政5年(1793))の春、村里は(不作で)困窮した。
 、五郎右衛門はなどは、村の小役人たちと諮(はか)って、村人のうち極めて貧乏で窮している者を見積り、米など穀物を与え、これらの人を救った。

 この時、五郎右衛門の家から給与されたのは、(※1)米2斛(2石)、五兵衛・伝兵衛の家からは各々1斛5斗であった。窮乏していた人々は大いに悦(よろこ)んだ。

 郡令(郡奉行?)は、「この郡の全ての村々の貧乏な者は、互いに恵みあい、常に非常の場合に備える法令を守っている。ゆえに僅少ながらも、お互い資給する(助け与える)間、この状態を保っている。五郎右衛門など、その恵み施す志は誠にもって奇特である。」と特別に称賛した。この話は、それを聞いて備(つぶさ)に記録したものである。
(※1)斛=石であり、尺貫法で、体積の単位。主に穀物を量るのに用いる。1石は10斗で、180.39リツトル。魁(さか)。
伊兵衛・理左衛門・忠右衛門・佐兵衛・藤兵衛 
 「三州良民言行録」の中の“伊兵衛・理左衛門・忠右衛門・佐兵衛・藤兵衛”の拙訳  
 寛政甲寅(寛政(1794))の春、米の価格が鰻登りに高騰した。能登の羽咋郡の地頭町村(現在の志賀町・富来地頭町)の伍長(肝煎?)である伊兵衛・理左衛門・忠右衛門・佐兵衛、及び上農(自作農?)の藤兵衛の5人は、住民のうち田など財産を持たず、著しく生活に窮乏している者に銭を与え、この給付をゆきわたらせた。

 伊兵衛からは2万銭、他は各々5000銭を出した。ただ民が困窮するのを心配した。政府(加賀藩)は、もとより救援策を講じることは勧めるところであった。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・工事中
長次郎 
 「三州良民言行録」の中の“長次郎”の拙訳  
四郎右衛門・総右衛門 
 「三州良民言行録」の中の“四郎右衛門・総右衛門”の拙訳
久太 
 「三州良民言行録」の中の“久太”の拙訳
三四郎 
 「三州良民言行録」の中の“三四郎”の拙訳
以後随時、この下に話を追加していく予定である。

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