このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
日本の古代に類例のない規模の倉庫群跡
万行遺跡
平成15年8月17日作成
※写真は2003年7月になってから私(畝)が取材・撮影したものので、現地に誰もいなかったのもあり、どこの箇所がどういうものなのか全然わかりません。あしからず!
↑現場の案内板にあった航空写真を撮影してきたものです |
↓下の5枚の写真が万行遺跡の写真です。 |
(前書き)
私は、最近、古代史に興味をもちはじめております。七尾近隣では、ちょっと道路工事などするとよく遺跡が出てきます。最近も、能登国分寺跡に近い栄町で、また遺跡が見つかったりしています。 私は、能登には縄文晩期時代の巨大円柱のサークルが出た
真脇遺跡
(能都町)などが示すように、太古から文化的に開けていた地域と考えています。実際考古学者の中でも大和とは異なる独自の文化が栄えていた可能性が指摘する学者が多くいます。おそらく日本海交易の結節点として、古代においては要衝の地であったのでしょう。
また平国祭(おいで祭り)(羽咋の気多大社〜七尾の気多本宮の間の道筋を神輿の行列が約280kmにわたって往復巡行)や内浦町小木の伴旗祭(大国主命が北陸平定の時、軍船に神旗を立て海上平安を祈ったという故事にもとずく祭り)など気多社の祭神・大国主命の能登平定にまつわる祭りなどから、古代に、大和とか出雲の勢力が進出してきて、その勢力下に収めたことの祭りへ反映が想像できます。
七尾の隣の鹿島町には親王塚古墳という皇族ゆかりの墓地がありますが、その近くに武部という集落があります。武部とは、古代では建部とも書いたりして、「タケ」とは武力に関係するものに多くつけられ、どうやら軍団のことを指しているようです。そしてこの武部(建部)という名のつく建物(例えば武部神社)や地名は、九州や東北にはなく、どうやら大和朝廷の軍団のいたところを指すようなのです。また武部や親王塚古墳のあるこの鹿島町や七尾市を含めた七尾鹿島一帯は、能登臣の勢力地と考えられています。鹿西町は雨の宮古墳群がありますし、七尾市には院内勅使塚古墳があります。石川県の半数以上の古墳が七尾湾岸から邑知潟地溝帯周辺を経て羽咋平野に至る一帯に集中しています。私は、能登臣などももしかしたら、大和朝廷からこのあたり一帯に配置された軍団が、在地豪族化して能登臣となったのではないかと想像しています。
658年、660年と2回にわたって大和朝廷の阿倍比羅夫に率いられた討伐のための軍船が蝦夷に出兵していますが、七尾にもおそらく立ち寄り、2回目の遠征で、能登臣馬身龍(まむたつ)が戦士しています。このことから早くから大和朝廷の東北経略の基地が鹿島津(七尾)にあったことが想像できます。養老2年(718)の能登立国も、東北を睨んだ軍事的意味合いの濃いものでした。こういうことから、私はそのうちにそういった能登軍団にかかわる施設が七尾湾岸からも出てくるのではないかと予想していました。
(万行遺跡の概要)
前書きかわりの余談はこの辺までとしておきましょう。2002年正月が明けてまもない12日に、七尾市の万行遺跡が突然、全国のマスコミの注目を浴びました。私も、記事を読むうちに「これは、確かに凄いかも」と思うようになり、そしてこれは私が前置きで述べた私の想像を裏書することになる遺跡になるのではないかと考えました。古代史で過去類例がないという規模の倉庫らしい建造物が多数みつかったのです。万行地区の土地区画整理事業に先立ち約5100㎡を発掘したところ、これらの遺跡が徐々にその姿を現したのでした。
七尾市教育委員会が2002年1月11日発表した内容では、万行(まんぎょう)遺跡で古墳時代前期初め(3世紀末〜4世紀初め)の3棟の高床の巨大倉庫跡が新たに確認されたとなっています。うち1棟の床面積は319㎡、2棟は152㎡と150㎡です。新たにと断ったのは、以前に既に3棟(148㎡〜320㎡)が確認されており、今回の倉庫跡は、この東側に平行に配置されているとのです。倉庫としては日本の古代を通じて、大和や近畿にさえない類例のない規模だそうです。
具体的には、柱穴は直径1〜2m、深さ80cm〜1・5m。南北11列、東西5列で計54個も見つかっております。柱間はいずれも4・5m前後。方位は北極星を基準にした真北に沿っており、高度な測量、設計技術による建築物であることがわかります。七尾市教育委員会では、今回新たに見つかった箇所には、柱穴の形の違いなどから柱穴が3棟分あったと判断し、外周だけでなく床を支える柱もつけた「総柱建物」であることから、最大のもので南北18・6m、東西17・2mの高床の倉庫3棟と結論づけました。また当時は遺跡間際まで鹿島津(七尾湾)の海岸線が迫り、物流の拠点に適した立地だったため、3棟とも高床の倉庫と結論づけました。おそらく近くには重要な湊があったのでしょう。
これまで古代の大きな倉庫跡としては、5世紀前半の鳴滝遺跡(和歌山市)の7棟(床面積58〜80㎡)、5世紀後半の法円坂遺跡(大阪市)の16棟(同88〜92㎡)が見つかっているだけです。両遺跡は大王(天皇)の直轄または関係が深い倉庫との見方が有力ですが、万行遺跡の倉庫は、1棟だけで、それらの3倍以上の規模になります。その上、できた年代も3世紀末〜4世紀初頭というようにそれらより数百年前であるようなのです。これは非常に驚くべき事実だと思います。
また、倉庫の東側では南北方向の庇(ひさし)付きの「下家」状の建物も見つかっております。七尾市教育委員会は大型建物を倉庫、「下屋」を作業場と推定していますが、和田晴吾・立命館大文学部教授(考古学)は、「下屋は通常倉庫にはなく」、「倉庫と断定するのは現段階では難しい」としています。倉庫の管理棟や倉庫を運営した豪族の正殿との説が出ています。このほか、倉庫が壊された跡に、幅1・2メートルの溝で囲まれた一辺22・5mの方形区画が確認され、大規模な祭祀(さいし)の場だった可能性があるといいます。一方、3棟ではなく1棟の祭祀建築だったとみる研究者もいます。東北芸術工科大学の宮本長二郎教授(建築学)は、柱の間隔が広すぎることなどから 「倉庫ではなく、首長が用いた巨大な神殿だった」のではと推論しています。
七尾市の教育委員会では「能登の首長が運営したとするには破格の規模と構造で、国家あるいは地域連合体が運営する環日本海域にわたる物資の流通センターだったのではないか」としています。
(万行遺跡の歴史上の意義など)
これまでの古代の巨大倉庫は、大和政権とすぐ結びつけて推論されてきました。しかしここ能登は七尾の万行遺跡は大和から遠く離れた地であり、またこれらの倉庫群が建てられた時期は、大和王権の成立時期と重なり、この万行遺跡は、大和と地方の政治的関係や地方豪族のあり方など古代国家の成立過程の見直しを迫る一級の遺跡となったようです。滋賀大学の小笠原好彦教授(考古学)は、「これまで古墳時代の大倉庫はヤマト王権と結びつけて考えていましたが、高度な建築技術を持った有力豪族がこの地域にいたことを考えないといけなくなった」と述べています。
このあまりに巨大な木造建築群は、「越(こし)」と呼ばれた古代北陸地方の勢力地図の見直しも迫ることにもなったようです。京都大名の上田正昭誉教授(古代日本・東アジア史)は、「広範囲の交易がなければ、これほど大きな倉庫は必要がない。能登を中心とした政治連合を考える必要がある」と述べています。また武末純一・福岡大教授氏(考古学)などは、「けた違いの規模だ。地方豪族クラスではなく、統一的な政権が運営していたと考えるほうがいい。広範囲な交易を証明する遺物や港の発見が期待される。」というコメントをしています。また立命館大学の山尾幸久名誉教授(古代史)は、「ヤマトとは異なる独自の勢力が、朝鮮半島から日本列島へ放射状に延びる交易ルートの内の一つを担っていたのではないか」と述べています。
最初にもいいましたが、能登半島は、縄文晩期の真脇遺跡(能都町)などで直径60〜90センチもある巨大な柱を円形に並べたウッドサークルが見つかるなど、古くから巨木文化が栄えた地域です。日本海交通の結節点として繁栄したとみられます。京都府立大学の門脇禎二名誉教授(古代史)などは、「日本海沿岸に伝統的な巨木建築。方位を完全に南北に合わせており、日本海沿岸の先進性を物語る。西からの対馬海流と北からの寒流が交わるこの地域が、日本海交易の中心だったのだろう」と述べています。徳島文理大学の石野博信教授(考古学)は、「どちらにしても、高い建築技術の建物群が整然と並んでいる。朝鮮半島から直接、技術者が渡ってきた可能性を示し、日本海側に独自の勢力があったことがはっきりした」と述べています。
また、古墳時代前期の能登半島には、大和王権のスタイルである前方後円墳ではなく、前方後方墳が多く存在します。鹿西町の雨の宮1号墳(前方後方墳、全長約65メートル)などがあり、98年、七尾市に隣接する富山県氷見市で前方後方墳としては日本海側で最大の柳田布尾山古墳(全長107.5メートル)が見つかりました。これらのことも、能登の独自の文化の存在を暗示しているのかもしれません。
私は、この万行遺跡の施設が、能登独自勢力のものか、大和王権との関係によるものかは、まだわかりませんが、ここにはこれだけの規模の倉庫を設営する必須条件があったのであり、またそれらを必要としたかまたは流通基地として守った勢力がここに確かに存在したことがわかり、うれしく思いました。
(今後の万行遺跡)
万行遺跡は、2002年春におこなわれた地元住民への説明会などの後、国指定の文化財にして公園化することなどの要望がが急速に高まりました。市や県なども後押ししました。翌年(2003)5月16日、国の文化審議会(高階秀爾会長)は、万行遺跡(七尾市万行町)など12件を史跡、名勝に新規指定するよう遠山敦子文部科学相に答申しました。審議会は、万行遺跡の建物群が建造された背景には能登地域を越えた政治勢力が関わった可能性も示唆されるとし、「古墳時代の政治、社会状況を知る上でも建築史の面からも貴重」と答申しました。今後の史跡整備に期待します。
(参考)
毎日新聞、北陸中日新聞、石川テレビ、読売新聞、北國新聞の2003年1月12日の新聞やインターネットの記事などから抜粋
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |