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江戸への直訴「目安箱」

(1999年9月2日作成)


享保6年(1721)、8代将軍徳川吉宗は、広く民意を聴くため「目安箱」を評定所前に設置した。
宝暦2年(1752)9月2日、この「目安箱」に山崎村(現七尾市山崎町)の枝村小川内(こうち)の四郎左衛門が訴状を投げ入れた。箱訴である。
山崎村は加賀藩御預の幕府領であり、支配は加賀藩御預所役所の管轄となる。「目安箱」への訴えは、支配系列を無視した「直訴」であり、「目安箱」の制度があるとは言え、御預役所ひいては加賀藩の非を訴えることにもなるものである。
「目安箱」への訴状内容は、現在小川内は山崎村の枝村となっているが、土方領時代から一村立の村として取り扱って欲しいとの願いである。四郎左衛門の言い分は、寛永6年(1629)に祖父四郎左衛門が小河内の八窪に入植し、7石高程新開して、新開百姓として年貢を納めて来た。ところが山崎村は小川内は山崎村の枝村で、四郎左衛門は新開百姓ではなく、頭振であって高を持てない筈という百姓身分の基本的な問題で対立していた。 それで、天和2年(1682)年に土方領代官田原甚五右衛門へ、貞享2年(1685)に天領代官へと願い出、さらに寛延4年(1751)に御預所役所へと願い出たが埒があかなかった。そこで決死の覚悟で江戸表への訴えとなったのであろう(目安箱への訴えは、前訴訟の裁定後と定められている)。
翌3年、裁定は加賀藩に差し戻され、訴人は揚屋(牢)に入れられ詮議を受けることとなるが、翌4年揚屋において病死してしまう。
辛苦の末に江戸まで訴えに出た訴人の要求は、訴人病死ということで訴訟に終止符を打たれ、訴え以前と何ら状況は変わらないまま終わりを告げる。農民闘争の形態の代表的な形として、一揆というものがある。これは字の通り揆を一にする集団の行為となるが、直訴とか越訴という行為になると、集団そのものというより代表となる個人、あるいはグループの行為となる例が多い。
小川内の箱訴(ほこそ)の場合は、背景に小川内住民の意志(一村立ての問題を含め、本村に対する権利拡大の要求など)はあるが、村方騒動の中から出た個の闘いの性格が強く見られる。
支配が幕府(勘定所)所属で加賀藩(御預所役所)管理という2重の構造を持つという特質が、箱訴という手段が取らせたのであろうか。
大正13年に小川内村民は小川内のため奮闘した四郎左衛門の仁徳を偲んで顕彰費を在所に建てた。
<(参考):これより以前の能登の天領が加賀藩御預となる前の、天領と加賀藩領の争論は、 「あの大岡越前が係わった海境争論」 など参考にするとよい>

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