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あの大岡越前も係わった
海境争論

(1999年11月30日作成)

 このタイトルを見た人の中には、なぜ江戸町(南)奉行である大岡越前が、外様大名である加賀藩の海境論争の裁判に関与したのか、と不思議に思うかもしれない。実は、彼が加わったということに、その問題の複雑さのヒントがある。まず、海境論争を述べる前に、遠回りだが、あまり高校の教科書では述べられていないと思われる(私は世界史を選択したので、実際の所は知らない)江戸時代の幕府の裁判制度を簡単に述べたい。
まず江戸時代の幕府の職制では、老中・若年寄が庶政を統べ、その一部門の監察・糺弾には大目付・目付などがあって武士を扱っていた。大目付は、将軍・老中の命を受けて、大名・交代寄合い及び高家を監察し、目付は若年寄の耳目となって旗本以下の諸士を監察した(徒目付・小人目付・中間目付は目付に従属し、御目見以下の階級の武士を糺察し探偵した)。寺社奉行・勘定奉行・火付盗賊あらためが以下を扱った。勿論、町奉行は江戸庶民のみ扱っており、単独では他の江戸の他の階級の問題にかかわることはない。しかし、この体制だけでは、それぞれの支配(管轄)が相互に関わる事件の場合、支障をきたすので、江戸の評定所において3奉行(勘定奉行・寺社奉行・町奉行)が合議(時には、老中・大目付・目付なども加わる)が行われた。裁判の重要性から、7種類ほどに分けられランク付けされていたが、いわばここで行われる裁判は今で言えば、最高裁判所の裁判であった。

 話は、本題に入るために、まず問題となった能登沖の鯨漁のことについて述べたい。能登における鯨漁は、紀伊の太地町で行われていた生きている鯨を組織的に追い込んで獲るようなものではなかった。最初は、鰤やサバを捕まえる網に引っかかった鯨を付近の漁師が協力して捕まえるというものだった。18世紀になると、奥能登内浦(奥能登の東海岸のこと)筋の宇出津付近や、外浦(奥能登の西海岸のこと)筋の富来付近の村の中には、鯨を獲る網をおろす村もあったが、鯨の量も多い訳ではなく、年に数頭であった。また網を敷いても専用の網は発達していたわけではなく、網を切られて逃げ出されたこともしばしばだった。
しかし、鯨を獲るとほとんど全て利用でき、漁民には大漁と同じであった。肉だけでなく、皮も食用されたし、油は行灯の油、歯・牙・骨は細工の材料・髭は弓の弦などに使われ、ほとんど捨てるところがなかった。よって、海沿いの村々においては、傷ついて衰弱した鯨が流れ寄ると、総出で引き揚げようとした。
 加賀藩は、それだけに揉め事にならぬよう承応2年(1653)、打寄せられた鯨(寄鯨)の配分に関する規定を決めた。それによると、鯨が流れ寄った村には、5割を与え、その村から海沿いの右隣の3ヶ村へ2割、左隣の
3ヶ村へ2割、陸に位置する3ヶ村へ1割を配分することを定めた。このため、鯨が流れ寄ることは、周囲7ヶ村が潤うことから、「鯨一頭七浦光」と言われ、大きな臨時収入を近隣の村々に与えることになったのである。
ところが、享保3年(1718)2月23日の11時頃、奥能登は外浦の鳳至郡黒島村(現、鳳至郡門前町黒島)の沖合いに流れてきた鯨をめぐって、黒島村と隣の鹿磯村(現、門前町鹿磯)との間に争論が起こった。事件の発端は、最初に鯨を見付けた黒島村が、早速、舟を乗り出して鯨に釣鉤といわれる銛を打ち込んで曳いてきたところ、黒島村の北に位置する鹿磯村・深見村(現、門前町深見)、それから南に位置する赤神村(現、門前町赤神)からも舟を乗り出してきて、鯨の尾に綱を付け、鹿磯村の方に引いて行こうとした。小競り合いの後、鯨は黒島村に水揚げされたが、他の村々へは配分されなかった。というのは、黒島村は、旧土方領で、土方氏が改易となった貞享元年(1684)以降は、江戸幕府代官が直接支配する天領となっていたので、黒島村の住民は、自分達は加賀藩の定めは支配違いとして受け付けなかったのだ。( 土方領と天領の問題は、「七尾の天領」が参考になるので、詳しい事を知りたい人は、ココをクリック!
 旧土方領は、能登4郡に61ヶ村もあり、散在していた。そのため、藩領村々との間に領地境の争いが絶えなかった。特に黒島村は、近くに旧土方領の天領がなく、孤立した状態であったため、境界が定められたのちも、漁場に対する権利の主張をめぐって近隣の加賀藩領と争論が絶えなかった。
 特に、以前にも黒島村の近くの藩領に寄鯨があったが、その時は加賀藩領に対しては定め通りの配分が行われたが、黒島村には配分されなかった経緯があり、一方的に非のある行動をした訳ではなく、前回の加賀藩の処置を受けての対応であった。よって、鹿磯村は、怒って加賀藩に訴えたが、加賀藩は、今回は、黒島の独り占めは仕方がないと裁決したのだ。
しかし、諦めない鹿磯村は、陸の塚からの領海区域に対する解釈の違いを理由に、引き下がらず海境争論へと発展した。享保4年(1719)幕府へ上申した。さらに、享保6年(1721)3月になると、黒島村は幕府評定所へ訴え出た。
 当時の評定所は、8代将軍吉宗のもと、寺社奉行の酒井忠音(ただおと)・牧野英成(ひでしげ)・松平近禎(ちかよし)・土井利忠、勘定奉行の水野守美(もりよし)・大久保忠位(ただたか)・駒木根政方(ねまさかた)・筧正鋪(かけひまさはる)に、江戸町奉行の中山時春(北町)、それにあの有名な南町奉行の 大岡越前守忠相(ただすけ) を加えた10名で構成されており、彼らが連著した享保6年3月22日の書付(かきつけ)では、「延宝3年の絵図を持ち、5月4日に評定所へ出頭せよ」と黒島・鹿磯両村に命じている。
 この報に加賀藩では、鹿磯村の代表に能登の十村(とむら)(大庄屋)を加えて派遣し、改作奉行にも江戸まで同行させるなど万全の体制で望み、同年6月25日、「黒島村の主張に間違いあり」として、鹿磯村勝訴の裁定を下した。
だが、もともと海上の問題でもあり、厳密に中立な立場の第三者の証人がいる訳でもない。黒磯村は、天領とは言え、味方となってくれる強力なバックがない。一方、鹿磯村は藩の後押しがある。言ってみれば、証人も加賀藩寄りである。こんな評定では、公正なな裁決が出る訳はない。まだ鎌倉時代や室町時代の評定の方が、公正厳密であった(このような裁決を下しても、この頃の幕府は安定した政権のため信頼を失い瓦解する心配も少なかった。それに対して、中世では公正な裁判を行わないと武士に反乱される危険があった)。
また、この裁決の裏には、もう一つ裏があった。それは、幕府の直轄領支配政策の方針も織り込まれていたのである。幕府は、幕藩権力の安定と有能な代官の不足から、享保4年(1719)以降、遠隔地にある天領を近隣にある大名に預け、その支配を委託する(大名預所)という政策を実施していた。当時の能登の天領は、越後出雲崎代官の日野正晴が兼務で支配していたが、任地が離れており、しかも散在する能登天領へは2、3年に一度巡回する程度だったので、支配・統治の不足は否定できなかった。これらの条件と一連の争論が合致し、幕府は、能登天領の支配を加賀藩に預ける決定をした。先の裁定の背景にはこうした事情があり大きく裁定に影響したと思われる。
 幕府は、加賀藩に対して、能登天領を預所とすることを通知し、その支配を委託したのである。能登天領はその後少しずつ様子を変えながら、幕末まで存在した。しかし、平穏な推移ではなかった。文化7年(1810)御預所一統私領同様の取扱いとし、御取箇(おとりか)(租税)は「永定免・皆金納」となり、加賀藩は、5千両を幕府に納めることになり、従って、能登天領の年貢も金納に改められた。つまり天領をレンタルで貸すので、藩領と同等に扱ってもいいが、ただしそれ相応費用は、貨幣で支払え、ということだ。また幕末も押し迫った慶応3年(1867)には、「御私領打込」となり、加賀藩は物成として文化度の約3倍の1万5千両を上納することにより、藩の法令を全く旧天領村で施行しようとしたので、旧天領の庄屋などは一致して大反対運動を起きた。そして明治元年(1868)3月には、またもや御預所に復帰した。明治維新を迎え、徳川家からの御預所は、今度は朝廷からの御預所となり、加賀藩の1万5千両という貢物は朝廷が確保することとなった。明治3年5月、この御預所は新生の飛騨県に(のちに高山県)へ編入され、明治4年7月、廃藩置県により金沢県が成立したが明治11年、そのうちから能登4郡と越中射水郡が分離して七尾県が成立した。その時、これまでの旧御預所は七尾県に所属替えとなった。このように、能登の天領は、旧土方領支配以来絶えず支配者交代にもまれてきた。そのため、その中で培われた生活を守るための権利の主張は激しく、江戸時代全般を通して、加賀藩と互角にわたりあった。そして、この強靭な精神が、この小さな村に過ぎぬところから、多くの海商を出すことになる。記録に残る黒島村の海商は、浜岡弥三兵衛、番匠屋善右衛門、森田屋又四郎、中屋藤五郎、角屋孫左衛門などである。今の黒島からは、想像つかない繁栄だったのだろう。
 (参考):天領が加賀藩御預所となった後も争論が天領では争論が絶えなかったのいであるが、一例として、 「江戸への直訴『目安箱』」 などもあるので、興味のある人は見てもらいたい。)
最後に、大岡越前の名裁判を期待した方には、内容が大して大岡越前と係わっていなかったとアテが外れた方もいたかも知れないが、これも興味を惹きつけて、こういう問題を知ってもらいたかった、いわば私の宣伝文句であったことをご理解いただきたい。

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