このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

大岡忠相

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1.経歴
2.スピード出世の背景
3.江戸時代の刑法と裁判・名奉行の条件
4.大岡仁政


(経歴)
 大岡忠相は、延宝5年(1677)大岡家の分家の一つ大岡忠高の三男に生まれ、10歳の時に同じ分家筋の大岡忠真の養子になった人である。言い伝えでは、鳥羽天皇の御代に三河国に移住した祖先の藤原忠教(あるいは宗憲)が初めて大岡姓を名乗ったというが、まー、この時代の家系図の話は信用しないほうがいいだろう、だいたい家康時代前後の話だけ聞いとけばよい。大岡忠勝の代に初めて徳川氏に仕え、その子の忠右衛門忠政は剛直の士として知られる。
 忠相(ただすけ)は幼名を求馬、のち市十郎。通称を忠右衛門。諱(いみな)は忠義、のち忠相になった。

 忠相が青年旗本の出世役である御書院番に登用され、幕府の官僚としてスタートしたのは、26歳の元禄15年(1702)5月(同じ年の12月に有名な赤穂義士の討ち入り事件があった)である。以後、12年間における忠相の栄達は、御書院番から御徒頭御使番御目付、正徳元年(1711)に能登守叙任と、さながら滝を登る鯉のようなめざましさであった。そして正徳2年に、忠相は伊勢の山田奉行に栄転した。山田に在職5年ののち、忠相は江戸へ帰任して普請奉行となり、翌享保2年(1717)、41歳の若さで江戸の花形奉行といわれる町奉行に抜擢された。町奉行に赴任した大岡は、その赴任した日(2月3日)に越前守を名乗る大岡忠相が、町奉行として最初に赴任したのは、北町奉行としてだった。場所は数寄屋橋橋門内(現在の有楽町マリオンのあたり)である。享保2年当時は、南と北の町奉行所の他に中番所と呼んだ中町奉行所が鍛冶橋内にあり、江戸の町奉行所は南・中・北の3ヶ所。しかも地理的に最も南に位置する数寄屋橋の奉行所が、当時は北町奉行所だった。江戸の町奉行所の変転はめまぐるしい。この北町奉行所が南町奉行所と改称されたのは、大岡が赴任した翌々年の享保4年。以後、大岡忠相は南町奉行とよばれることになる。

(参考)大岡の役宅(役所兼私邸)の南町奉行所は、全て大岡の設計によるものと言われ、「大岡越前守御役屋敷絵図」によると、その概要は、総坪数2,617余坪、総建坪1,809余坪。この内、役所向き375坪、住居向き157坪。なおこの大岡設計は基本的にそのまま、幕末の慶応4年(1868)まで踏襲され存続したという。

 その後、元文元年(1736)に60歳で寺社奉行に栄転、寛延元年(1748)に奏者番を兼務、宝暦元年(1751)11月にその職を退くまで、功を増すごとに加増を重ね、ついに禄高1万石の大名格に出世している。大岡忠相が江戸の3奉行のうち、2奉行に在職した期間は、町奉行19年、寺社奉行15年、合わせて34年という長い星霜だった。

(スピード出世の背景)
 この様に大岡忠相が異例の出世をした背景には、享保5年の5月に紀州から江戸に入り、八代将軍になった徳川吉宗が、山田奉行に在職当時の大岡の人物を熟知していて、大岡を普請奉行から町奉行に抜擢したというのが、『世事見聞録』などにある一般の通説である。たしかに吉宗は人材の登用を心がけた人物だし、吉宗と大岡を結ぶ時期的なタイミングも実によく合っている。山田奉行時代の大岡の逸話は、山田・松坂の境界争い、流木事件など『明君享保録』にも紹介され、世間一般によく知られているところ。逸話はいずれも従来の山田奉行が御三家の紀州候に遠慮して、その領分の松坂側に対し正当な裁判が行われなかったのを、大岡が紀州候をはばからず、きびしく松坂側をやっつけたという内容である。山田奉行は伊勢の内宮・外宮の警備・造営、神領内の民政、鳥羽港の船の管理などが主な役目だった。しかし、数々の業績をあらためてみれば、彼が出世したのは何と言っても大岡忠相本人の実力が当時の旗本の中では抜きん出ており、その上猛烈に働いたというのが(町奉行時代は、毎日深夜まで執務したというのは有名な話である)、本当の理由のようである。
 

(江戸時代の刑法と裁判・名奉行の条件)

 江戸時代に定まった刑法は全くなかったわけではない。犯罪者に刑罰の規定を示す「公事方御定書(くじかたおさだめがき)」は、判決の際の基準として重用されるのが当時の慣習であった。御定書は歴代の司法関係者が過去の判例を整理しながら、随時に刑の軽重を計りその欠陥を補ってきた判決の前例集である。石井良助氏の『江戸の刑罰』によると、寛保2年(1742)に、その下巻の「御定書百ヶ条」が制定され、幕府の刑罰体系が確立されたという。ただし、これは秘密法典として江戸の三奉行、京都所司代、大坂城代の他は見ることをゆるされなかった。
 しかし江戸の裁判は法律一辺倒というより、裁判官その人の判断力・知力に委ねられる度合が強かった。また、裁判官は世道人心を保持する心がけを常に必要とされていた。法律だけで処罰を与えても心の底から服罪したものでなければ効果はないものとされている。もう一つ、大岡が在職した享保年間にはそれまでの残酷一方の刑罰思想がやや緩和され、犯罪者の道義的責任を追求する思想を変化する兆しを見せていた。享保4年の御定書十八条に、重罪を除き旧悪免除の規定が出来たのもその一礼である。したがって、奉行の判断力の微妙な差が白洲の上に当然反映してくる。簡単に言えば、機知を加味した法律の操縦法。野球でいえばストライク・ゾーンの幅の取り方。ボンクラとの別れ道である。
“十両盗めば、首が飛ぶ”とあるのが御定書百ヶ条の第五十六条。その時代に、「お前の盗んだのは9両3分2朱であろう。どうだ?」と町奉行がたった一言いえば、それでどうにか首だけはつながるのである。4朱で1分、4分で一両であるから、奉行が2朱だけおまけしてくれたわけ。“どうしてくれよう3分2朱”という、シャレ言葉まで出来たくらい、実際こうした例は多かったという。

(大岡仁政)

 大岡忠相が名奉行として喧伝されるようになったのは、元文年間をすぎてその実録談と称する「大岡仁政録」−大岡政談が出てからのことだった。名奉行の裁判話はもともと明るい気性の江戸庶民の嗜好に適い、講釈師や戯作者により多いに潤色を加えた。実録風裁判話、講釈、読み物の類は巷間に大歓迎されていた。宝暦から寛政がその最盛期と言われる。そこで、「仁政録」の刊行以降、名奉行は全て大岡様一色にされたわけである。したがって、大岡政談の話には他の裁判話がすり替えられていたり、あるいは古今の説話、中国の小説までが取り入れられ、三田村鳶魚などの考証によると、とかく借り物が多いとされている。別にケチを付けるつもりはない。名奉行にも、流行(はやり)廃りがある。一例をあげれば名作落語の「三方一両損」も、その噺のもとは、井原西鶴の「本朝桜陰比事」の説話の中からとったものといわれ、また、長編の大岡政談は天一坊、村井長庵、松葉屋瀬川など二十数編に上るが、その中で大岡裁きと確証できるのは、わずかに白子屋お熊の亭主殺し未遂事件1件のみとされている。しかし、逆にいえば、大岡忠相にそれだけの人徳があったことになる。大岡には行政の実際家として、多くの庶民を魅了する“花”があったのであろう。
 大岡の裁判以外の功績は、好色本の禁止、私娼取締まり、部下の青木昆陽による薩摩芋の栽培・普及など数多く、なかでも最大の功労は、いろは四十八組による江戸の町火消し制度の確立であった。現在、成田山新勝寺に残る大絵馬は天保4年に奉納した火消し千組の図だが、火災を負った不動明王が、纏(まとい)をふって勇むことの江戸の華を今も飽かずに眺めている。宝暦元年12月19日になくなった大岡忠相は、先祖忠政以来の菩提所・茅ヶ崎市堤4317の浄見寺に葬られている。
 

(参考図書)「大江戸おもしろ役人役職読本(歴史読本一月増刊)」(平成3年1月刊行・新人物往来社)

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