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 (2004年3月5日更新)

御 祓 川
〜数多の別称を有する七尾中央の川〜

 七尾市内を流れる川で大きい川と言えば、石動山を源流とし多根・水上・熊淵・山崎・東浜と流れ海に注ぐ熊淵川が第一にあげられるだろう。次いで崎山半島を縦断して鵜浦村川尻で海に注ぐ崎山川、七尾城南方を水源として七尾城を取り囲むように流れ、矢田新で海へ入る大谷川などが思い出されるが、ここでは、市街地を縦断する御祓川にスポットを当ててみましょう。この川はよくよく調べてみると実に多数の名前で呼ばれていた事がわかります。
 まず『能登名跡誌』に「六月晦日御手洗川(みたらしかわ)にて御祓の大祓(おおはらい)あり。依って晦日(ひづめ)川と云也。亦東西へ流るる故に二俣川と云て、所口町中へ流れて所々橋あり。源は多根村山より流れて、府中の浜出る也。」とあり、御祓川の名を「御手洗川」、「晦日(ひづめ)川」、「二俣川」の三通りの名で表現しています。江戸時代の地誌を見ると、この3つの名で呼ばれていて、東西へ流れる川は、馬出川と小島川と言われているが、御祓川とは言われていない。御祓川の名は前記の「御祓の大祓」からきていることは理解できますが、なぜか一般的には使用されていない。 この大祓いは、能登生国玉比古神社(気多本宮)の夏越しの禊(みそぎ)の大祓いのことで、上に書いてあるように、昔は旧暦で6月30日(晦日)、現在では7月31日の夜の重要な行事らしい。ただし七尾に長くすむが、私は、まだ見たことがない。
 とにかく昔は、この神社の大祓の行事が有名だったらしく、文明10年(1478)能登に来遊した、連歌宗匠の宗祇が、「宗祇句集」に
  言の葉も この輪を超えよ 御祓川
 と残したのが、御祓川の初見のようだ。その後は、俳人がよくこの名を使ったようで、たとえば、天和元年(1681)の『加賀染』に金沢の俳人因元が、
   人形や罪なくてなかす御祓川
 と詠んでいる。次いで元禄5年(1692)の『柞原集(ははそはらしゅう)』に金沢の俳人句空が
   何事に法師の交わる御祓川
 と詠んでいるようだ
 また、地元七尾の俳人・大野長久も、元禄13年(1700)出版の「欅炭(くのぎすみ)」に
 「能州二俣川」と題して
  二またや 股迄渡る 御祓川
 また同じく七尾出身の勝木勤文も、同年刊行の「珠洲の海」の気多本宮の文中に「六月晦日御手洗 ひづめ川にて大祓あり。此川の流れ東西に分かれて、俗に二また川という。」
  二またや 誰があだ恋 御祓川
と詠んでいます。さらに同じ勤文の「珠洲の海」の雑の部に、 
  かき流す 心の塵や 御祓川
という句もあるそうです。
 ここには、御祓川ということば以外にも、「二俣(また)川」、「晦日(ひづめ)川」という川の名も見えるように、普通は「二俣川」「晦日川(みそか)」と呼んでいますが、俳句など文芸関係で言う時は、ここで行われていた神事を句にする意味もあって、「祓(はらい)を行う川」の意味を「御祓川」と表して詠みこんだようであります。これが後日の「御祓川」という名に繋がったようです。
 享保10年(1725)頃の「能北日記」に、「川三筋ながれ、東は小川(現神戸川)と云ひ、中をば千代川(現御祓川)と云ふ、(中略)此際の橋を持ち千代橋(現仙対橋)と云ふ。」と書かれています。 
 また七尾の文人として有名な横川巴人氏(明治19年生れ〜昭和44年没)は、「七尾の古学」の中でこう書いている。「私達の小学校時代は川の名は御祓川ではなく捨越川で、学校の地理書にも左様に書いた。私ら同年輩の者は皆そんな風に覚えたものだ。いつ御祓川という川名に改めたかは私は長年他出中で知らない。出所は・・・」と書いて、勝木勤文の先述のことをあげ、それが名が変わった理由ではと意見を書いております。巴人氏が小学校の頃というと明治30年代である。ということは明治の頃は、捨越川であったのだろうか。調べてみるとどうも昭和初年頃まで捨越川と呼ばれたようである。というのは、最近(平成16年元旦に)私は、「石川縣鹿島郡誌」(昭和3年発刊)という本を入手したが、そこにも捨越川という名が出てくるのです。その本の伝説という章に書かれた「捨越川と戻橋」という話の内容をちょっとここに紹介しておきましょう。
 捨越川の名の由来として次のように2通り述べています(ただし実際の文章は古い文体なので私が意訳してあります)。
 「その1)太古、大己貴命がこの国を経営していた(平定の旅を続けてい)時、長々と霖雨が打ち続いて、川(→捨越川→御祓川)水が漲(みなぎ)ってしまったので、命(みこと)は、駿馬に鞭打って、この川を渉りなさったので、捨越川と呼ばれることになりました。この川は八幡(七尾市)の東北を流れているが、川は八田(七尾市)より生じて国分(七尾市)に向かって流れている。
 その2)大己貴命の御子神が父である命を慕うあまりその後を追い、ついにこの川にて追いついたが、父である命は、この御子神を打ち捨てて進みなされた由来をもって捨越川と呼ぶとも。平国祭(お出で祭り)の巡行の途中、神輿でこの川を渡る時、神輿の鈴を鳴らすのを忌む(鳴らないように気をつけるが)が、これは御神に追いつかれるのを怖れるためといいます。御子神が、追いつけず空しく引き返されるので、この場所にかかっている橋を戻橋と呼び、八幡と古府の間にあります。」
 (参考) 「能登の民話伝説(中能登地区-No.3)」

 川の名の由来ではないが、巴人氏によると、現在ある仙対橋も、昔はそういう名でなく、現在仙対橋横にある中山薬局のところに、江戸時代七尾の豪商であり文化人であった 岩城氏 の屋号・塩屋を採った塩屋橋で通っていたそうです。また彼によると、現在北國新聞の七尾支社があるところは、その前は伊久留屋という木賃宿があったそうで、さらにその前の旧藩時代の昔は、処刑場があったそうで、首など斬って晒したところだそうであります。
 それででしょうか、「能登教壇」第112号に、某郷土史家などは「みそぎ川」の由来は、「処刑されたので身殺(みそぎ)川、禊をした訳ではない、等々」と述べているようですが、この説は一般には採られていません。
 ここまで、色々川の名を揚げてきたが、御祓川は、それ以外にも戦前・戦後まもなくまで、馬出(まだし)川とも呼ばれていたようであります。「馬出」という今の町名に残るこの名は、私は小丸山城の門に近かったことに関係する地名かと思っていたが、ある本では、この川でおこなわれる大祓の神事と関係あり、神事の際、ここまで馬を引きだしてきたことと関係あることが書かれていました。
 最後に、御祓川は、二俣川ともいわれたとのことですが、確かに旧能登病院前で、川が二股に分流している。しかし分流する場合にはY字型となるのが通常であるが、能登病院前で分流する御祓川は直角で東流し、さらに、直角にて流れを替える場所が2ヶ所もあり、不自然な流れを見せています。それでこの川は、人工的に掘られた川でないか、小丸山城の堀の代わりの役目を果たすよう作られた川ではないかと、一部の研究者から言われています。つまり前田利家が小丸山城築城に当たった天正10年(1582)正月、国中惣夫(くにじゅうそうぶ)をもって掘普請を命じています。当時国中惣夫は約6万人で5日間だから30万人で掘られた川と推定でき、小丸山城の外堀が後年に川となったのであろう、というのです。

  (他、関連ページ)
   所口縁起 〜所口町の名前の由来とその内容の変遷など〜

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