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1.「石動山 上大宮坊の遺構発見」 <情報ソース 北陸中日新聞 2006年2月3日朝刊の上記記事内容を転載>
中能登町教育委員会発表 勧修寺高僧の接待施設
上の写真は2005年8月、発掘中の上大宮坊を撮影したものです。北陸中日新聞に掲載の写真とは異なります。この写真の右側の坂を(南側に)下ると、大宮坊があります。また写真の左側(西側)には、イワシガ池や拝殿があります。
中世の最盛期には、約3000人の修験者たちが住んだとされる山岳信仰の拠点、中能登町の国史跡・石動山(せきどうさん)で、これまで古文書でしか確認できなかった接客施設・上大宮坊(かみおおみやぼう)とみられる遺構が見つかった。2日、調査した中能登町教育委員会が発表した。考古学に詳しい明治大学文学部の小野正敏助教授は「宗教的要素がなく接客空間を思わせる遺構で、上大宮坊と推定できたことは中世の石動山の全容解明に向け大きなステップ」と評価している。(横山大輔)
石動山の本山にあたる真言宗勧修寺(かじゅうじ、京都府山科区)の文書によると、上大宮坊は1416(応永23)年に開いた五重塔と講堂の再建法要のために招いた勧修寺の高僧を接待するために急遽、建てられた。石動山の寺務を一手に行う別当寺で、約3年前に復元した大宮坊は当時「下大宮坊」と言われ、区別されていた。
上大宮坊の遺構が見つかったのは「下大宮坊」の北側の高台で、五重塔跡や講堂跡に近い「清水屋敷跡」とも呼ばれる一角。幅1.2m、長さ8.8mの敷石通路と、その先に最大長径約1mの大型礎石が3つ並んでいるのが見つかった。
近くに接待に用いた後使い捨てにされた土師質(はじしつ)土器の皿が大量に見つかった他、古文書の記事と一致する中世の珠洲焼や陶磁器の破片が見つかった。生活用品ばかりで宗教的な出土品が無く、接待のために使われた施設と考えられるという。
調査は、同山の神道の中心だった伊須流岐比古(いするぎひこ)神社の祭礼を行っていた神主、清水氏の邸宅があったとされる清水屋敷跡(面積約3600㎡)の存在を確認するため、2003年度から3年計画で実施。対象区域の約1/3にあたる約1200㎡を発掘した。
確認調査として行ったため、建物の規模や構造は分かっていない。明治以降水田になっていたためか、清水屋敷の遺構は見つからなかった。中能登町教育委員会は、「本格的調査や復元に備え、埋め戻して保存したい」としている。
石動山は、度重なる焼討ちや明治の廃仏毀釈で徐々に衰退し、約360ヶ所あったとされる院坊は1ヶ所しか現存していない。
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