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(2000年2月4日作成)
石川県と戦争(1)
戊辰戦争〜日清戦争
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1.戊辰戦争(北越戦争)
慶応4年(1868)正月3日、鳥羽・伏見の戦端が開かれた。単純な兵員から見た兵力では、徳川方が上回っていたが、火力の精度が上回っていたのか、徳川方の火薬庫に官軍方の砲弾があたり、大爆発するなど、徳川方は敗走した。
戦いが始まったという報を受けた加賀藩主・前田慶寧(よしやす)は、正月6日、まだ戦況は知らないので、徳川方に味方するため、直ちに出兵をした。ところが、越前のあたりまで進んだ時、ほとんど思いもしなかった徳川方敗走の報が入りった。すでに徳川を朝敵とする勅も出ているので、このまま徳川方につくと、朝敵にもなり孤立しかねない。それを避けるためには、至急、朝廷方であることを表明しなければならないと判断し、加賀藩は、越前坂井郡長崎まで進軍していた兵を呼び戻し、加賀藩は朝廷方に尽くすと急遽表明したのである。
「錦の御旗」を掲げ官軍が北陸道を北上してくると、加賀藩は、遅れをとったことの挽回のため、賤ケ嶽の合戦後の藩祖・前田利家公を見習って(?)か、進軍の先鋒を努めることを願い出るが、拒否され(藩祖の場合と違い、信用されなかったらしい)た。なぜなら、加賀藩は、前年慶応3年の王政復古の大号令の時も、藩主・前田慶寧がとった行動は、号令の発令とともに京都を引き払い、国許にもどったのであり、官軍方は、後にその処置について詰問している。勿論、加賀藩は許されたのであるが、その代償は、貨幣や弾薬、米などの食料、大八車など大量の軍需物資を献納することとなった。
4月になると、加賀藩にも出兵の命令が下り、小川仙之助、箕輪知太夫らの精鋭部隊が送り出された。七尾軍艦所にいた加賀藩御自慢のいわゆる「梅鉢海軍」も、軍需物資や兵を載せて、北越地方などの北国の戦地に向かった(郷土(七尾出身)の小説家・杉森久英の『能登』の中の「七尾軍艦所」に詳しい)。彼らは、長岡城攻撃など、新潟県、山形県にかけて各地を転戦した。この戦いには、約7,600名が出兵、そのうち103人が戦死している。
後に、加賀藩は、戊辰戦争で戦死した人々の英霊を手厚く祀るため、金沢市郊外の卯辰山に「招魂碑」を建立された。その拝殿と神門は、金沢城内の能舞台と唐門を移築したものであり、この招魂社が、現在、金沢市石引町にある護国神社の始まりである。
2.西南の役
明治6年(1873)1月、名古屋鎮台派の1小隊から生いたった郷土部隊は、明治9年(1876)3月には、歩兵第7連隊(名古屋第3師団下)が組織された。司令部は旧金沢城内に置かれ、3大隊、約3千人の兵力を擁していた(第9師団は、まだ設置されていない)。
明治10年(1877)1月30日夜、鹿児島私学校生徒、鹿児島草牟田の火薬局及び造船所の占領した。
同年2月15日、西郷隆盛は兵を率いて鹿児島を出発し、政府に不平を唱えた私学校生の騒動は、西南の役に発展する。
2月22日、西郷軍は熊本城を包囲するが、落せず、包囲が続く。
明治10年2月22日、歩兵第7連隊に九州出兵の命令が下る。吉川氏清(うじきよ)少佐の第1大隊は、2隊に別れ、別働隊として第2・第3旅団に配属。田中正基の率いる第2大隊は、征討軍に加わり九州に出動。林直矢の率いる第3大隊は、京都の守護防衛にあたり、その後、高知県の警備に就く。3月20日、政府軍は、田原坂を占領。
征討軍に加わった第2大隊は3月28日、博多に上陸し、野芹村、柏原村、金武村の3方面で、戦闘を行う。中でも、金武山塁攻撃に加わった第4中隊は、雨の為、弾薬が使用できず、銃剣での白兵戦が行われ、河野毅通少尉以下10名の戦死者を出す。
4月4日、秋月を陥落させ、4月21日、熊本に入城した。9月24日、鹿児島攻撃に参加。西郷隆盛以下、幹部の自刃によって乱は平定。この戦いに、新選旅団が編成されていた。旧金沢藩士から、1,010人、旧大聖寺藩士210人が、従軍している。この旅団は、近衛鎮台に所属し、田原坂の戦いに参戦して390余人の戦死者を出す。
この戦いの翌年(明治11年)9月金沢尾山神社の境内に、この戦いに殉じた英霊を悼んで「尽忠碑」が建立された。
3.日清戦争
日本はペリー来航後、15年ほどで明治維新を迎え、近代化を推し進めていったが、隣国の朝鮮では、明治初年の台湾征討以来、歴史的にも地理的にも、両国の狭間にあって、政情は混乱を極めていた。清国に頼る事大党と、日本の指導のもとに国政改革を目指す独立党が相対立していった。明治8(1875)江華島事件、明治15年壬午の変、更に、明治17年甲申の変と事件が相次いだ。甲申の変の事件後、一時、清国の支配が強まるが、同時にロシアの朝鮮進出の気配も生じた。そして、日本・清国両国間の関係が次第に悪化。、親日本派の独立党首領金玉均の惨殺事件が起き、明治27年(1894)朝鮮の宗教団体東学党が列強の侵略に反発して東学党の乱を起こすと、日本清国両国の国交決裂は決定的となる。すでに清国寄りの朝鮮政府は、清国に乱の鎮圧をいらいした。そこで、日本政府は、朝鮮の独立と在留日本人の保護を名目に、帰国中の大島圭介公使を帰任させ、彼に、八重山艦で海軍陸戦隊400人を指揮させ、6月10日、仁川に上陸、京城(ソウル)に入城させた。ついで、大島久直少将の率いる混成旅団も京城に到着した。韓国政府は優柔不断な態度に始終し、事態は更に混迷を深めた。
明治27年(1894)7月24日、韓国政府は、大島公使協力のもとに内閣を更迭し、25日には不平等な清韓条約を破棄することを宣言した。その上で、牙山に駐屯する清国の駆逐を依頼した。ここに至り、7月27日、日清戦争の戦端は開かれる事となった。これより先立ち、海軍は豊島沖で、清国艦船と開戦の火蓋を切っていた。
明治27年8月1日、日本政府は、清国政府に正式に宣戦布告。同4日、郷土部隊である、歩兵第7連隊に動員令が下る。動員業務は9日に完了したが、20日間の訓練の後、金沢を出発、まだ北陸線は敦賀までしかできていなかったので、敦賀まで重装備のまま徒歩行軍し(真夏の上、重装備とあって、死者が出たり半数近くの落伍者が出るという過酷な行軍だった模様)、敦賀から汽車に乗り、広島に移動、9月7日広島で名古屋の第19連隊と合流、軍艦の護衛のもと、宇品港を出帆、9月13日仁川港に上陸する。上陸後、大島久直少将の混成第6旅団に所属し、第1軍司令官山県有朋大将の指揮下に入った。ちなみに第2軍の司令官は大山巌大将、歩兵第一旅団の指揮に乃木希典があたった。
第1軍は、9月16日、平壌(ピョンヤン)を攻略した。10月28日には、鴨緑江を渡る。鳳凰城を占領し、11月23日には、安東県へ進軍した。12月1日に、海城攻撃命令を受け、8日に岫厳に到着。次に清国兵5000人が守る析木(セツキ)城も圧倒的火力で圧倒、清軍を退却させ、11日占領する。勢いに乗り12日には海城を占領する。ここまでは負傷者7名の損傷であった。
明けて明治28年、清国軍は態勢を立て直し、反撃に出たが、日本軍もこれを防ぎとめ、逆に(1895)年1月19日、厳寒に悩まされながらも、缸瓦塞(こうがさい)の敵中突破を強行突破する。三好連隊長の率いる第2大隊は勇敢な白兵戦を展開し、敵を退却させた。しかし、この戦いで三浦吉太郎少尉以下24名の負傷者を出した。
第7連隊は、更に2月28日には沙河沼・大富屯を攻め、3月1日には乾活堡を占領。翌2日には龍山站を占領。さらに4日には、牛荘城を占領と快進撃を続けた。この間の戦死者8名、負傷者19名。
その後、遼河に望む田庄台の敵兵1万の大軍と交戦、第7連隊は、常に第3大隊の先頭となって戦う。この城は難攻不落の堅固さを誇り、日本兵は苦戦したが、第1、第5大隊も加わり、3月6日苗家店を占領し、9日には第3大隊を先頭に連隊長も共に突入して田庄台を占領する。この戦いで戦死者6名、負傷者31名を出す。
3月31日日本優勢の状態で休戦となり、第7連隊は缸瓦塞付近の守備にあたった。4月17日下関で講和条約が締結されると共に蓋平に移る。日本は、朝鮮から清国の影響を排除するとともに、2億両(テール)、当時の日本円で3億円という莫大な賠償金を受け取り、遼東半島、台湾、澎湖列島を譲り受けた。ただし、遼東半島は、後三国干渉により、返還することとなる。以後、日本は朝鮮への影響を強くし、朝鮮植民地化への大きな足がかりを築いたことになる。
柳樹屯で乗船した第7連隊の将兵は、約1年後の明治28年7月9日に凱旋した。第7連隊の戦没者は、36名、県人の戦没者は計86名であた。日清戦争全体での石川県人の戦死者は236名であった。
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