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能登の宿場町

 北陸道の津幡宿から分岐して、北に進むと能登街道となる。これは古代からの幹道であったが、源平合戦の頃には、北加賀の大野荘から内灘砂丘の裏側にあたる河北潟の西岸を通る道も利用され、能登の志雄山に向かう平家軍が、青崎・室尾(河北郡内灘町)・日角見(ひすみ)を経て、白生(河北郡七塚町白尾)に進み、この辺りで幹道と合流していました。
 文明18年(1486)夏、東国への回国修行を続ける聖護院道興が能登を訪れた際のルートを辿ってみよう。彼は、閑散とした加賀の津幡宿を発って、石動山に参詣するため能登路に足を踏み入れ、国境に近い高松(河北郡高松町)に行き暮れた。能登への道は、この先は日本海に流れでる幾筋もの中小の河川にはばまれ、海岸線から越中境に連なる宝達山系の麓付近に迂回しており、羽咋郡の宿(しゅく)(押水町)で、再びいったん海岸沿いに出る。宿の地は、能登の府中(七尾市)に至る幹線の内陸道と、羽咋郡の浜筋を北上する外浦道の分岐点で、道興は幹線を進んでいます。道興の紀行文である『廻国雑記』によれば、能登街道筋の菅原・杉野屋(羽咋郡志雄町)・四柳(羽咋市)・小金森・藤井・久江(鹿島郡鹿島町)を経て、石動山に登っている。しかし、紀行文には見えませんが、街道筋の要地として、山越えの越中道が分岐する。羽咋郡の志雄町・飯山宿(いのやまじゅく)(羽咋市)や鹿島郡の高畠宿(鹿島町)の町場が知られていました。
 志雄町は、越中に至る臼ヶ峠越えの氷見街道との結節点で、戦国中期頃には、東・西両町からなる町場が形成されており、玉屋・紙屋・紺屋(こうや)・駒屋・中屋・高屋などの屋号を持つ商手工業者が居住し、西町には毘沙門堂が祀られていました。また飯山宿は、南北朝前期に既に宿場として見えます。南北朝の動乱期、足利尊氏は、足利家の執事の高師直と組んで弟の足利直義と権力争いを演じました。いわゆるこの「観応(かんのう)の擾乱」に際して、
観応元年(=正平5年:1350)11月4日、先に越中から志雄山を越えて能登に攻め込んでいた直義党の越中守護桃井直常の軍が、尊氏党の能登守護桃井兵部大輔(ひょうぶだいゆ)頼義勢に、同宿で撃破されるなど、合戦の舞台となっています(参考: 南北朝の争乱〜能登の国人たち〜 )。なお飯山宿から越中に抜ける道は、現在の国道415号線とほぼ同じルートです。
 高畠宿は古くからの宿場町で、鎌倉末期の元享元年(1321)12月には、高畠荘内の小柴村(こくぬぐむら)(鹿島町小金森付近)を通過する能登街道沿いに、「宿在家(しゅくざいけ)」の5字が確認できます。これは既に宿場の経営にあたり、棟別税を賦課されるようになっていた非農業民の在家が、荘内の街道筋で高畠宿を形成した事情を物語っています。その位置は、近世の宿駅が置かれた高畠村(鹿島町高畠)ではなく、その南西方にあたる小柴村であったらしい。当時石動山の麓を通っていた能登街道は、この辺りでは「横大道(よこのおおみち)」と呼ばれていて、後年には東往来と称されていました(現在もよく使われる呼称)。
 飯山宿合戦直後の11月19日になると、直義党の越中の桃井直信軍数千騎が能登に乱入し、街道筋を占拠し、高畠宿に布陣した。これを迎え撃つ能登守護勢は、眉丈山系の麓にあたる鹿島郡の金丸城に拠り、邑知地溝帯を挟んで高畠宿の桃井軍と対峙した。その後、約1ヶ月間近い睨み合いの後に、12月13日に至り、桃井軍が金丸城に迫ったが、能登守護勢が城外に出て応戦し、激しい戦闘の末に、やがて桃井軍が撃退されています。  金丸の地は、邑知潟に面した眉丈山麓を走る西往来筋の要衝で、当時「金丸市(かねまるいち)」が営まれており、曹洞宗瑩山派の拠点であった鹿島郡酒井保の永光寺の造営にあたる、金丸番匠(ばんしょう)の存在も知られていました。高畠宿と金丸市は、地溝帯を横断する道筋で繋がっており、南北朝動乱期には、石動山系を越えて、たびたび能登に乱入する越中桃井勢に対し、金丸城とそれに隣接する能登部城(鹿西町)は、能登守護方の基地(城砦)となっていました。
 また高畠宿には、室町時代の中頃に、石動山天平寺の里坊が設けられていました。応永23年(1416)石動山天平寺の五重塔・講堂の造立供養に際し、京都から下った本山の勧修寺の僧侶一行は、同宿の天平寺宿所に到着し、出迎えた大宮坊の僧から、酒肴の接遇を受けています。それは長旅を経て、石動山に登るに先立ち、休憩・準備のための施設でした。
 街道は高畠宿を過ぎ、石動山の登り口にあたる二宮の地を経て、さらに北東へ2里16町余(約9.8km)も続き、やがて鎌倉時代以来の能登の国衙や守護所が置かれた鹿島郡の八田郷府中や、その隣接地で後に形成された城下町の七尾に通じていました。能登街道は、加賀と能登を結ぶ重要な機能を果たした幹道であったのでした。

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