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南北朝の争乱
能登の国人たちの活躍

(2001年3月15日一部修正・加筆)


 14世紀の南北朝の争乱は、はじめ南北両朝(党)の抗争を基軸に展開されました。元弘3年(正慶2年)(1333)5月、後醍醐天皇が鎌倉幕府を打倒し、「公家一統」を目指す建武政権を成立させましたが、やがて足利尊氏の離反にあいました。このわずか2年間で瓦解した政変に、その争乱は端を発していました。以後60年間にわたり、全国各地で争乱が展開されたことになります。北陸においても、京都で尊氏に破れた新田義貞が、大和の吉野で南朝を樹立した後醍醐天皇の皇子を擁し、越前敦賀に下り、金ヶ崎城に拠ったため、これに呼応する在地の勢力もあらわれ、軍事的緊張が高まりました。義貞一党はその後、越前から没落しますが、暦応2年(延元4年)(1339)から同4年(興国2年)にかけて、義貞の家臣だった脇屋義助(わきやよしすけ)や畑時能(はたときよし)らの越前における南朝勢力を制圧するため、得江(志雄町)・土田(志賀町)・高田(田鶴浜町)・天野(能登島)などの能登武士が京都で北朝を擁し、室町幕府を開いた足利尊氏の配下にいた守護吉見頼隆に率いられ、越前の各地に転戦していました。
(その他の北朝方の能登の武士としては、
万行(七尾)、三階(七尾)、飯河(七尾)、温井(輪島市大屋湊)、(穴水)、弥郡(輪島市大沢)、本庄(珠洲市馬緤浦)、五井(珠洲市)などがいた。)
 貞和2年(正平元年)(1346)春には、直義党の前越中守護の井上俊清が、八条殿新田貞員栗沢政景らが能登に乱入し、直義党をかかげて羽咋郡富来院の木尾嶽にたてこもる富来俊行(とぎとしゆき)に迎えられ、尊氏党の能登守護吉見氏頼勢と戦っています。しかし、吉見氏頼、得江頼員らの攻城で陥落しています。富来俊行は、この後も能登に残ったもようです。(一部の本の表記では富来俊行が井上俊清の家臣のような記述になっているものもあります。つまりそれでいくと、先行して能登に攻め入って木尾城に立て篭り、井上俊清を迎えたことになります。)
 北党方(室町幕府)が優位に立つと、南北朝の対立を基軸とした争乱も、観応元年(正平5年)(1350)10月、その中枢にあった室町将軍足利尊氏と弟の直義(ただよし)の間に、不和が生じるに伴い一変します。天下の形勢は、尊氏党・直義党・南党の三者鼎立によって、複雑さを増していきました。北陸においては、直義党の越中守桃井直常(ももいただつね)が、南朝方勢力と結んで活発な軍事行動を開始しました。桃井直常らは、たびたび能登に乱入し、鹿島郡の三引山赤倉寺(現、田鶴浜町)や金丸城(現、鹿西町)、羽咋郡の飯山宿(現、羽咋市)、高畠宿(現、鹿島町)、花見槻(現、鳥屋町)、志雄保(現、志雄町)などを舞台に、尊氏党の能登守護桃井頼義(よりよし)と激しい攻防戦を繰り返しました。この桃井直常の乱入は、能登に残った富来俊行などとも連絡を取り合っての行動だったと思われます。
(参考: 「能登の宿場町」

 この観応の擾乱の時、また、その後、吉見氏の守護代として登場してくる能登の有力国人・
飯河氏の名が被官として出てきます。飯河氏は、鹿島郡飯河保(現在の七尾市飯河保)を本貫地としており、『尊卑分脈』によれば、加賀の有力武士・林氏の一族飯河三郎資光を始祖としています。観応3年(1352)、守護吉見氏頼が越中の桃井直常を討伐した際の軍奉行(いくさぶぎょう)として、飯河五郎左衛門の名が見えます。
 文和元年(正平7年)(1352)足利尊氏の軍門に下った足利直義が鎌倉で殺害されると、直義党の、桃井直常の子
桃井直和(ただかず)らは南朝方に転じました。
 康安元年(1361)細川清氏が南朝に組みし、桃井直常がこれに応じると
富来斉藤次が木尾嶽によりました。翌年には、砦を強化した城が築かれましたが、吉見氏頼の軍に討ち取られ、木尾(嶽)城は再度陥落しています。

 貞和6年(正平22年)(1367)、南朝からの講和の働きかけが、幕府方の拒否にあって、不調に終わると、応安2年(正平24年)(1369)になって桃井直和らは、越中や能登で、ふたたび積極的な動きを起すようになっており、戦乱の渦は、加賀にも拡大されていきました。
 そうした中で、南党方討伐の軍事力は、守護の軍勢催促によって担われており、能登でも、足利将軍麾下の吉見氏頼らによって動員された武士たちは、恩賞を求めて各地を転戦した。羽咋郡北域の得田保を本拠とする 得田章房(とくだのりふさ)・章親(のりちか)兄弟 や、羽咋郡南部の志雄保を基盤とした
得江季員(とくえすえかず)も、そうした武士たちであった。

 応安元年(1368)7月2日に実際発給された文書には、守護吉見氏頼が、
得江八郎次郎に本知行地を返付するにあたり、飯河左近将監(さこんしょうげん)家光と共に遵行(じゅんぎょう)(守護の命令を下達)することを守護代である飯河左衛門尉藤光(さえもんのじょうふじみつ)がに命じています。またこの書状を受けて同年7月4日には、飯河左近将監家光と飯河左衛門尉藤光の連署で打渡状(当事者に伝達するための文書)が出ています。このことから能登の有力国人であった飯河藤光はこの頃、守護代であることがわかり、同族の飯河家光は、その役割からみて守護使として働いていたことが推測できます。(飯河氏の名は、その後も室町期において畠山の被官、前田家では十村として(飯川家)として名が出てきます)

 応安2年(=正平24年、1369)12月、
得田章房得江季員が恩賞を望んで、守護吉見氏頼に提出した軍忠状(武士が戦で功労を挙げた時、そのありさまを上申する文書)によれば、この年の4月28日、越中の桃井直常の能登乱入に際し、得田章房・得江季員ら能登武士は、守護方からの軍勢催促を受け、鹿島郡の金丸・能登部(のとべ)の両域に馳せ参じました。当時、両域は守護方の軍事的拠点となっており、金丸に守護吉見氏頼が、能登部には守護代吉見伊代入道がいた。得田章房らはそれぞれ双方の麾下に属し、6月1日にいたるまでのあいだ、連日、桃井勢と合戦を繰返し、これを撃退しました。

 その後、桃井直和勢が加賀に侵攻し、石川郡の平岡野(現、金沢市内)に陣を敷き、加賀守護
富樫昌家(北党方)のたてこもる富樫城を攻略すると、その救援のため、8月15日、得田章房・得江季員らの能登勢は、守護吉見氏頼に率いられて加賀に赴き、石川郡の野々市で、連日にわたり日夜桃井勢と合戦に及んだ。ついで、9月7日、桃井勢が北加賀の要港であった石川郡の宮腰津に攻め寄せると、能登勢はそれを討つため、野々市から宮腰へ進み、同月12日、桃井方を隣接する大野宿(おおのしく)に追いつめた。

 こうして、吉見・富樫の連合軍の攻勢にあった桃井軍は、浅野川中流右岸の丘陵部にあたる宇多須山(うたすやま)(現、金沢卯辰山)の砦に退いて陣を構え、態勢の建て直しを図った。しかし、9月15日、ここも能登勢に攻略され、同17日、越中国境の加賀(河北)郡の松根砦に撤退したが抗しきれず、翌18日、越中の千代ヶ様(ちよがためし)城(現、富山県東砺波郡庄川町)に退却した。だが、それも能登勢によって攻め落とされている。

 能登の吉見軍は、やがていったん帰国するが、10月22日、再び桃井勢討伐のため、越中の松蔵城(現、富山県魚津市鹿熊(かくま))攻略に出陣し、
得田章房・得江季員らが能登に帰国したのは、北陸ではもう雪の深い12月2日のことであった。得田章房は、こののち守護吉見氏頼の命令で、年の暮れも押し迫った12月28日、奥能登珠洲郡にたてこもる南党方の山方(やまがた)六郎左衛門入道らの討伐に加わり、同月晦日、宝立山山頂付近の山方城を陥落させている。このように、守護の軍勢催促に従い、各地を転戦する能登の国人(地頭の系譜をひく有力武士)たちの軍事行動は、南北朝内乱の過程において広範囲かつ長期間に及ぶものであった。
 南北朝期における能登の南朝方の城砦としては、鹿島郡能登島の金頚城、羽咋郡の木尾城、尾崎城、珠洲郡の山方城の存在が確認できます。

 木尾城の場合、貞和2年(正平元年)(1346)に、南朝方の富来俊行が、富来院内の天然の要害である木尾嶽にたてこもっていたが、16年後の康安2年(正平17年)(1362)には、そこに城郭(木尾城)が築かれ、周辺にも出城(尾崎城)が配置されていました。南北朝争乱が長期化する中で、能登の南朝方においても、軍事的要害の整備を図っていたのがわかります。城の位置は、現在の富来町貝田の富来川と広地川の合流点の通称城ヶ根山にあたります。

 能登島の金頸城も、島西方地頭で南朝方の武将であった
長胤連(ちょうたねつら)の城砦とされ、文和2年(正平8年)(1353)と同4年には、守護吉見氏頼勢と胤連およびその残党の間で、嶋の西方全域を戦場にして、激しい攻防戦を繰り広げていました。胤連の居館は、向田村内にあって金頸城と近接していた。城砦の位置には、向田の集落の北東岸の岬にある「城山」または通称:「城ヶ鼻(じょうがはな)」と呼ばれる地に比定でき、七尾北湾に面した海城の立地をなしており、海に近い一段低い郭の「水手口」からは、海から物資を城内に運び込むこともできるようになっていました。 

 文和2年(1353)8月、南朝方の桃井兵庫助・長胤連らを討伐するため、能登守護吉見氏頼の嫡男修理亮詮頼を大将とする軍勢が七尾湾を渡り、同月29日長胤連の館に押し寄せて館を焼き払ったため、胤連勢は金頸城に立籠り、吉見軍は「一口駒崎」に陣取った(文和2年9月日「得田素章代斎藤章房軍忠状写」)。駒崎は向田地内の地名で、胤連の居館や城砦の金頸城は向田にあったと考えられる。同4年3月17日当城は、再度吉見詮頼の攻撃を受け、連日の合戦の末、6月14日の夜落城した(同年3月26日「天野遠経軍忠状」、同年7月日「遠経代堀籠宗重軍忠状」天野文書)。

 このように金頸城は、ついには落城したものの、守護方の大軍による再度の攻撃にあいながらも、いずれ数ヶ月間の篭城に耐えてほどの難攻不落の要塞でした。能登内浦沿岸部で屈指の天然の要害であった。能登の分国支配にとって、能登府中(七尾市府中町付近)の守護所と奥能登を海上で結ぶ、富山湾・七尾湾の制海権の掌握は不可欠であり、守護吉見氏頼が金頸城の攻略に心血をそそいだのは、そのためでもありました。

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