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国人・得田氏

  2001年3月10日作成


 得田氏は、得田保(とくだのほ)(現志賀町徳田)を名字とする武士で、斎藤氏の一族である。治承5年(1181)源義仲は北陸道を勢力下に置く中で、藤原章通(のりみち)(得田章通)(を得田保、大町保(現羽咋市大町)、甘田保(現羽咋市甘田)、神代社(かくみしゃ)(現志賀町神代)の地頭職に補任した。章通は得田氏の祖で治承・寿永の乱でいち早く反平氏陣営に与した。
 承久3年(1221)の能登国田数目録によると、得田保は文治4年(1188)土田荘内得田村として成立したが、その地頭職は得田氏であったとみられ、建長7年(1255)得田章家(のりいえ)は亡き父惟章(ただのり)の得田保地頭職を幕府から安堵されており、御家人であったことが確認できる。この所領はいったん嫡子・又次郎章時に譲られたが、正応6年(1293)に改めて孫の彦二郎章仲(のりなか)(章真(のりざね))に譲られた。
 章真は得田保内志良田村(現志賀町代田)の所当米を尼心称代頼種(しんしょうよりたね)と争った。南北朝期には得田素章が能登守護吉見頼隆・氏頼・桃井盛義らに従い、足利尊氏・義詮党として奮戦した。
 素章には、斎藤六章房という子息がいたが、文和2年(1353)得田保地頭職を舎弟又五郎章名(のりな)を養子として譲渡した。この得田章房(のりふさ)とその弟・章親(のりちか)兄弟は、北陸に限らず、恩賞を求めて各地を転戦したりしている。明徳元年(1392)代田村を本拠とする得田勘解由左衛門尉章長(かげゆさえもんのじょうのりなが)が、能登畠山基国に従い、山名氏追討のため上洛し、その後、応永3年(1396)本知行分を安堵した。章長は応永22年(1415)妙成寺の法華経64枚を開版した。
 ところで、 得田氏の館跡 であるが、志賀町徳田にあります。『古墟考』によれば「東八十間、南六十八間、西八十二間、北七十二間ばかり、東西小川を帯ぶ。此の塹(ほり)の遺形僅かに存す」とあるが、今も遺構が残り、北側には土塁跡も見られる。館内には現在30戸前後の民家が建つ。文治2年(1186)源頼朝から地頭職を賜った得田章通以下15代にわたって居住した所である。また得田の南、淵ヶ谷内の通称城ヶ平の頂上には物見櫓の遺構、さらには砦跡が確認される。
 城山は、土田盆地に突き出ている台地上にあり、三方を湿田に囲まれ、砦の周囲には深さ約3mの空堀と土橋があり、砦には約700㎡の平坦地がある。得田氏の系譜については「尊経閣文庫」に所蔵する得田文書に詳しいが、南北朝時代は足利尊氏側に伍し、金沢広岡野、越中魚津から京都、伊勢にも転戦した。
 得田章光が日蓮宗・妙成寺に法華経全8巻を開版したのもこの頃である。天正5年(1577)上杉謙信の 能登侵攻の際 は、畠山昵近衆の一人として七尾城で戦ったが破れ、さらに天正14年(1586)荒山の合戦で滅亡した。子孫はその後、 長連龍 に仕え、田鶴浜から金沢に移り明治維新を迎えた。

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