このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

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石動山登山口


 二宮口(石川県中能登町二宮)
 上の写真は、中能登町二宮にある石動山二宮口の道標です。ここには「石動山本社迄従是五十八町(一町は約109m)と刻まれております。道標石柱は、高さ180cm、幅58cm、奥行56cmあります。能登名跡誌に「石動山は二ノ宮口より一里半登る也、一国第一の高嶺地也」と書かれております。
 
能登(石川県)側からの登山口としては、この二宮口の他、石動山領であった多根口(七尾市多根町)、コロサ口(七尾市コロサ・スキー場近く)、蟻ヶ原口(中能登町)からの芹川(中能登町)方面からの道が利用されたそうです。

  中田口 (富山県氷見市中田)
 以下は道神社拝殿(元・石動山天平寺・開山堂
境内にあった説明板の文章をここに転載しておく。
「富山県指定有形文化財(建造物) 道神社拝殿 附棟札二枚  平成5年8月18日指定
 この神社は、元は石動山天平寺の開山堂として、享和元年(1801)に建立された。道神社の棟札によると、大工棟梁は、建仁寺流の藤原庄左衛門恭富の門人、射水郡大窪村の藤岡弥右衛門富綱藤岡信濃守藤原富綱ともいった)の作とある。
 伝えによると、この大工棟梁の祖先は、尾張国前田の産で、利家に従ってやってきたといいます。そしてこの大工棟梁の一族が、石動山の山裾の地(大窪)に、屋敷をもらって住むようになったのは、天平寺衆徒の動向を監視するためであったといいます。幕末の頃、この一族が越中五箇山、加賀藩硝煙製造地へ出向き、かの合掌造りの建築にも参加しているといいます。そのようなことから、『能登石動山』の中で清水宣英氏などは、大窪大工には、加賀藩から隠密的役割が与えられていたのではないか、などという推測も述べています。
 明治維新により、石動山が寺領の没収や七ヶ国知識米勧請の停止など、一山の経営ができなくなったため、諸堂を売却した際、中田村が道神社の拝殿として買い受けたものである。
 形式は宝形造(ほうぎょうづくり)、屋根は?葺(こけらぶき)で、軒下は二軒扇垂木、三手先、詰組、尾垂木、蛇腹支輪で装飾する。軒出が、3.1mと深い。正面の桟唐戸は、中央間には梅の透かし彫り、両端間には牡丹の彫刻を配している。平成12・13年度に瓦葺を?葺に復元するなどの大規模修理を行い創建当時の姿によみがえった。
 なお、享和元年(1801)に建立した際の棟札と、明治十年(1877)に現在地に再建したことを記す木羽板が附指定となっている。
      富山県教育委員会
      氷見市教育委員会
     お問合わせ先 氷見市教育委員会 電話(0766)74-8215    」
 石動山登山口の一つとなっている富山県氷見市中田町。
 石動山は能登(石川県)と越中(富山県)氷見市に跨って聳えるいわば、国境(くにざかい)の山で、本などによれば、平沢口大窪口角間口長坂口の尾根筋の登山路があると書かれているが、地図を見てもよくわからないので、簡単に見つかった場所を取材した。
ここには石動山にもとあった石動山ゆかりの神社、道神社拝殿があります。上の写真は、その参道入口の左右に立っていた標識です。左の石柱には、「道神社」、右側には「富山県指定建造物 道神社拝殿 附棟札二枚」と書かれております。
 
 これは、開山堂をここの集落の人が貰い受けるときに一緒に譲り受けた「湯立釜」と「立石」とのこと。湯立釜に笠した屋根の下の説明板にそのように書いてあった。
 「湯立釜」は、その昔、石動山にあった時、そこの岩清水を沸かし、笹の葉で参詣人に振り分け。一年の無病息災を祈る神事があり、それに使われたものだそうだ。岩清水とは「イワシヶ池」の霊水のことだろう。
 また「立石」だが、古来から道神社参道前の小川に架けてあった石橋の石だそうで、道神社拝殿の竣工と同時に、上ノ宮、山王ノ宮を道神社に合祀する際に、境内に移し記念碑としたものだそうだ。よくみると石碑の表面が色々に窪んでいるが、大小数個の円形の穴は、古代人が発火用に使ったと鑑定されているそうだ。
 またこの石橋がまだ川に架かっていた頃、この石橋をもって石動山天平寺領との境界にしたと伝えられているそうだ。
 あとこの写真には現物は写っていないが、「宝筐印塔(部分)」も説明も、同じ箇所に書かれており、「元は天平寺開山堂の境内にあったが、堂とともに移した。宝筐印塔は、宇宙の想像を現し、下より第一段は地、第二段は水、第三段は火、第四段は風、第五段は空を現す」とあった。
↑道神社の鳥居を横から撮影した写真です↑道神社拝殿を正面から撮影。表額は「開山堂」ではなく、やはり「道神社」になっていた。当たり前だな(笑)。
↑道神社拝殿を側面から撮影。この写真には、写っていないが、前方右横に、神馬のブロンズも奉納され、立っていた。↑道神社の集落のある中田から撮影した富山湾越しに見た冠雪の立山。たまたまここを取材した日(平成18年1月29日)は寒の時期なのに、北陸には非常に珍しい雲ひとつない快晴の日でした。この写真では解像度があまりないので、ボヤケて写っているが、本当は非常にくっきりと見えた。またこの立山連峰は、実際には左右にこの写真の5,6倍の長さにわたって連なって見える。非常に雄大な景色である。

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