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大宮坊
 上の写真は、石動山天平寺の大宮坊の案内図です。左下に鹿島町と書かれていますが、現在は、鹿西町及び鳥屋町と合併して、中能登町となっています。大宮坊のうち、書院台所(ガイド図で黒い大きな部分)、厠、台所門、番所、御成門、及び勅使橋が再建されています。
上の写真2枚は、大宮坊の入口部あたるところを撮影したものです。左から、台所門番所御成門を見て撮った写真。御成門の前に見えるのは、見えるのは勅使橋です。皆再建された建造物です。(撮影した時期が異なります)
 上の写真は、最近再建された大宮坊の正面左横にあった書院台所棟を撮影したものです。平成2年(1990)度から平成6年度にかけて大宮坊が発掘され、資料やその発掘データにより再建されました。桁行13間、梁間7.5間、入母屋造りで正面玄関に雪除けの庇がああります。また背面西寄りに庇張り付き、東方に別棟の片流れ厠付き(下に写真あり)です。
 建築平面積は、371.77㎡、付設厠の面積は3.42㎡です。
 天正10年の石動山合戦(前田利家など織田方VS上杉勢及び石動山衆徒)による焼失後、環住(げんじゅう)が許可された慶長2年(1597)以降、17世紀初期の再建時の姿に復元しています。屋根は薄い板を重ねたこけら葺きと推定されますが、維持管理しやすいこけら形銅版葺きにしてあります。 
 上の写真は、御成門のガイド図です。幕末の嘉永6年(1853)の時に藩主前田斉泰が石動山を巡見した際の記録があります。それには「勅使橋を渡り大門を経て入る」「御本陣大宮坊、勅使門より表式台まで御輿をかきあげる」などとあり、大宮坊の勅使門と呼ばれていた正門の存在が知られていました。また別の『石動山天平寺略記』には応永再建の建物の中に「大宮坊・極楽院・御門室(ごもんしつ)・証誠殿(しょうじょうでん)・四脚門」をあげています。
 発掘調査では、西面に2箇所の登り口が検出され、石積みの切り取り幅が北側(御成門)では6.2m、南側(台所門)では、4.4mと大小あることがわかりました。御成門の形式としては、切妻造りの四脚門で、屋根は銅葺きで、門の左右に板塀が設置されています。ただし原形はこけら葺きであったと推定されています。建築平面積は9.92㎡で、軒面積は18.7㎡です。
 上の写真は、大宮坊の御成門前の南西部にあった地蔵群と石碑を撮影したものです。地蔵は比較的新しいもののようだ。石碑には、「史を語れ  いするぎ山の 青葉風」と俳句が彫られている。確か、石動山についての暦小説を書いていた村上元三氏の句だったか、と記憶しているが。 上の写真は、大宮坊を、北東の方にある伊須流岐神社の鳥居の横辺りから撮影したものです。建物の並びについては、これが一番よくわかるかもしれません。
左上の写真は、大宮坊の書院台所棟の内部を撮影した写真です。また右上の写真は、大宮坊の書院台所棟案内図です。内部は、案内図にあるように、土間・居間・台所・茶湯の間などの衆徒の生活部分と、一番奥の書院座敷をはじめとする接客部分からなっています。
左上の写真は大宮坊のとその横の袖棟を撮影したもの。また右上は、厠の近くにあったガイドで、厠と袖棟を発掘した時の写真を添付し、説明してあった。発掘調査の結果、大型の便槽を2つ持つことや、付属の袖棟を伴うなど、これまでに見られなかった特長のある建物として注目されました。つまり厠は便室の部分と土間の部分に分かれています。このことから外観を復元すると同時に、中の便槽も見られるようにしたそうです。切妻造りで、桁行3間(約5.5m)、梁間2間(本では2間となっているが、現場の案内板では1間となっていた)、板葺きで、建築面積は25.37㎡となっています。
 台所門のガイドです。厠と袖棟と続いて、その横にこの台所門がある。そのさらに横は、右上の写真にある番所です。この台所門は書院台所門に近いこともあって、勝手門と推定されています。規模は、1間、板葺きで、軒面積7.8㎡です。台所のさらに横にあった番所のガイドです。番所は、大宮坊における番所、あるいは大宮坊来訪者のための供待ちの場として利用されたと推定されています(番所の位置は、この頁の一番上と上から2番目の写真を参考にしてください)。規模は桁行3間、梁間2間、切妻造り、銅板葺きで、建築面積は19.83㎡です。屋根の原形はこけら葺きであったと推定されています。
 証誠殿跡。左上は案内板、右上は跡地の写真。大宮坊の北東の山寄りを、一段高くしたところに建っていました。ここは玉石で設(しつら)えた階段で、登るようになっています。桁行の方が梁間より半間広く、正面側に1間の向拝(ごはい)がつき、その立地から古文書にある「証誠院跡」とされました。熊野本宮大社から勧請されたものです。修験の山に多く見受けられる建物です。石動山と熊野信仰の関係が推量される跡地です。
 屋根を入母屋造りとして向拝をつけ、こけらで葺いたものです。
証誠院跡を書院台所棟裏から、つまり西側から見た写真。 庭園跡から書院台所北側方向を撮影した写真。現在、石動山には、庭園跡は9箇所確認されています。
 
 左上のさら地の写真は、書院台所棟の東に位置する、本来の大宮坊が立っていた場所です。写真半分より上に移る緑地は、左の方の石段のあたりが証誠殿跡。右側隅の植樹や右隅の樹木の陰になって見える石組みのあたりが東林院庭園です。
 庭園についてですが、大宮坊には、書院台所棟の書院座敷と、本堂南側に面する(この写真の手前ですが、写っていません)2箇所に庭園が造られています。大宮坊復元とあわせて、この2箇所の庭園の復元も行われました。
 本堂に面する庭園は、池と築山(つきやま)で構成されています。池の水は、東の山裾を流れてきた水を集めていますが、水量は少なく通常は枯池であったようです。築山には、枯滝ちおと枯流れの石組みがあり、池に注ぐ構成となっています。普段は枯山水の様相を呈しており、大雨の後などに水を湛(たた)えていたと考えられています。庭の規模は大きくありませんが、比較的大きな石が使われており、別当寺としての大宮坊の威厳を表しています。
 右上の写真は、大宮坊ではありませんが、道路を挟んで向かい側にある修景ゾーンとして公園整備された場所です。
  左の写真は、大宮坊の御成門をくぐった右側にある大宮坊石層塔の笠石と推定されているものです。
 石質は安山岩で、軒幅と四方とも180cm、屋根の上端は四方とも40cm、屋根の高さは比較的低く39cm、軒の厚さは11cmです。屋根の勾配は極めてゆるく、軒反りは緩やかで、軒口はほぼ垂直に切られています。
 造立年代の推定は困難ですが、格調の高い趣を表しており、五智院石層塔様式を異にしますが、同じく平安時代後期の造立と推定しています。
 この笠石は、大宮坊下の道の橋として裏返して置かれていました。伝説によれば、この石が「橋桁(はしげた)となって万人に踏まれることによって供養をとげたい」と告げたことから、橋にされたとあります。
 

(参考資料)
 ●「国指定史跡 石動山」(石川県鹿島町)
 ●「能登の文化財 第8輯」(能登文化財保護連絡協議会:北国出版社)
 ●現地の案内板の説明記述。
 ●「能登石動山」(櫻井甚一・清水宣英・濱岡賢太郎・田川捷一:北国新聞社)他
     

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