このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

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各坊-その3
道任(忍)坊跡(独立した院です)道任坊跡
どこだったけな?行住院跡(支配寺は来宝院になります)
 左上の写真は、旧観坊(支配寺は、仏蔵坊になります)を道路の方から撮影したもので、左上は同じく旧観坊を横の土手上から撮影したものです。記録では、石動山には江戸時代には58坊あったといわれる院坊ですが、明治初年、廃仏毀釈などで、一山崩壊の運命に見舞われたました。この建物が唯一現存する伽藍となっています。山の東南に位置し、東に面して10段くらいの石段を積み、その上に建っています。建物の規模は桁行十間半、梁行六間、平入りで入母屋造り、茅葺で一見したところ農家風の構えを持っているが、絵様舟肘木(えようふなひじき)や化粧垂木       にかつての寺坊としての格式を示しおり、江戸時代末期の建築とみられています。石川県指定文化財(建築)となっています。
旧観坊の敷地にあった石塔群どこだったけな?
どこだったけな?どこだったけな?
どこだったけな?どこだったけな?
 宝池院跡(独立した院です)。石動山五十八坊中の上位の宝池院は、昭和20年代まで石動山にあった宝池家の先祖にあたります(現在は中能登町井田区に在住)。宝池家は、代々家の中に泰澄大師を祀り、石動山に伝わる秘薬の製薬に携わってきたそうです。伴信友(1773〜1846)の撰といわれる「大同類聚考」という古書に、伊須流岐薬の名とその調合薬が記されていますが、ごく最近まで石動山宝池院の系統をつぐ宝池家において、加減四除湯(煎じ薬)、五霊膏(練り薬)、和中散(腹痛の薬)、退仙散(熱はらいの薬)などが秘薬として作られていたといいます。
 石動山は、明和9年(1772)後桃園院より能登・加賀・越中・越後・佐渡・飛騨・信濃七ヶ国の人民を産子とし、御穀神納の綸旨を拝戴したといいます。これはその七ヶ国で寄進を集める「勧材」の活動を許可し、衆徒らが「智識米」として一戸あたり三升の米を集めたそうです。勧財に出た衆徒らは、強引なやり方だったのか、各地に「いするぎ坊主の名を聞けば、泣く子も黙る」という話が残り恐れられていましたが、五社権現の絵像を著した護符や五穀豊穣・無病息災の祈祷札を配るともに、「伊須流岐の一本薬」と称される薬も携えており、求めがあればそれも渡し、一面では喜ばれていたようです。この宝池院は、智識米勧進においては、主に越中(富山県)方面を担当していたそうです。
宝池院跡慈光院跡(支配寺は大宮坊になります)
大智院跡(支配寺は五智院になります)大智院跡
大智院跡
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