このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

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各坊-その4
 上下の写真6枚は、大宮坊の南側にあった仏蔵坊跡(支配寺は大宮坊)を撮影したものである。ただしこの現在建っている寺は実は、石動山天平寺とは、関係なく、日澄寺として建てられたものらしい。日澄寺についてだが、「鹿島郡誌」269頁の越路村の日澄寺の項を読むと「大字石動山ノノ部一番地に在り。日蓮宗に属し大永元年僧日仲当郡西湊村字小島(現七尾市小島町:私・畝源三郎の註)に創建せしを、明治5年12月法堂焼失したれば同15年此地に再建す。始め上慶寺と称せり。」とあります。現在は無住なのか、ひっそりと佇んでいた。
 上の写真2枚に写っている石碑(2つは、同じものを角度を変えて撮影)は、日澄寺のもののようだ。前面は、真言の文字らしきものが書かれてあった。何が書かれているか不明。横面には、日像菩薩初転法論道場と書かれてあった。日蓮宗が、明治以降ここに寺を建てたのには、そういう由縁の場所であったからであろう。
 上の写真2枚は、仏蔵坊跡(日澄寺)の門前にあった不動尊などの仏像である。天平寺時代のものか、日澄寺になって以降できたものか不明。
左上は、日澄寺の南横から東に向かって伸びた道。右上は、その道の先を指した標識。
宝達坊跡(支配寺は大宮坊になります)。どこだったけな?
 左上の写真は、石動山城の方へ向かう道を撮影したものです。右上の写真は、石動山城跡のつもりで撮影したものです。資料館の人に聞いたところでは、石動山城跡には、何の標識も無いとのことであった。仕方なく、駐車場近くにあったマップなどを参考にして行ってみたが、おそらくこのあたりの平坦地(廓)がそうでなかろうかと思い撮影した。
円光坊跡です(支配寺は三蔵坊になります)。特に標識はなかったが、何かの建物跡の廓と思しき場所
特に標識はなかったが、何かの建物跡の廓と思しき場所特に標識はなかったが、何かの建物跡の廓と思しき場所
特に標識はなかったが、何かの建物跡の廓と思しき場所特に標識はなかったが、何かの建物跡の廓と思しき場所
大智院跡近くにあった、何かの建物跡の廓と思しき場所

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