このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

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動字石・石碑・石塔
 御廟山
 左上の写真は御廟山に登る階段の写真。左下に標識の木が日本たっているのが、。小さく見えるが、左が「御廟山」、その右が「智徳上人五輪塔」と書かれている。
 左上のの写真の坂を登りきったところに、智徳上人の五輪塔があった。智徳上人は奈良時代に石動山を開いた開山として知られています。供養等は、元禄年間に法院祐遍(ほういんゆうへん)が願主(がんす)となって建立したものです。祐遍は、石動山合戦で荒廃衰退した同山の復興に活躍し、石動山中興の祖と崇められています。
 智徳上人五輪塔に近寄って撮影。「能登の文化財」の記述によると、石材は凝灰岩で、塔高は176.5cm、基壇(単弁蓮座)高20cmとなっています。銘文が、各輪四方に五輪塔梵字、地輪四方に銘を陰刻。 正面の陰刻。梵字で「キヤ・カ・ラ・バ・ア」と書かれ、その下に「開山智徳上人」と書かれています。
 左側面の陰刻。梵字で「キヤア・カア・ラア・バア・アア」と書かれ、その下に「奉建立」と書かれ、さらにその下に「天平時」と「大衆寺」が並べて書かれています。 正面の陰刻。梵字で「キヤン・カン・ラン・バン・アン」と書かれ、その下に「願主」と書かれ、さらにその下に「寶達坊一世」と「法印祐遍」が並べて書いてあります。
 正面の陰刻。梵字で「キヤク・カク・ラク・バク・アク」と書かれ、その下に「元禄」と書かれ、さらにその下に「七(石が欠けているため欠字)」と「七月」が並べて書いてあります。 確か御廟山の知徳上人の墓の横の方にあった他の墓
 石動山動字石
 左上の写真は動字石で、右上はその横にあった説明書の看板です。説明書にあるように、この動字石については、『石動山古縁起』の巻首に動字石の由来が記されているのをはじめ、『新縁起』にも書かれていおり、古くから石動山のシンボルとして崇敬されています。また『石動山古絵図』には、厳重な柵で囲った動字石が描かれています。
 二品親王庁下文に「伊須流岐山金剛證大宝満宮者崇神天皇之叡建動字石鎮護の霊場云々」とあり、能登名跡誌には、「此山は天より星落て石と成、天漢石と号す。今講堂の前にあり。開山泰澄大師養老二年登山以前は、この石ゆるぎて山震動してあれしに依り石動山と云うり」とあり、この石が石動山の名の由来であることを示しています。ただし案内板にあるように、この石は実際には隕石ではなく、安山岩のようです。
 上の写真は動字石関連ということで、石動山資料館にあったの『新縁起巻首』を撮影したものです。本当は『古縁起巻首』もあったのですが、撮影漏れしました。次回行った際には撮影してこようと思ってます。
 そのほか
 確か大師堂近くにあった石塔群。墓かもしれません。
これは確か誰か上人さんの石仏だったような気がするが、不明。次回行った時確認してきます。 この「史跡 石動山」は「旧参道入口跡」にあたり、ここを左に入り少し登りながら進むと、下馬札跡と仁王門跡に出ます。

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