このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
1.伊能忠敬
伊能忠敬は、日本で最初に西洋式測量術を用いて、精度の高い日本地図を表した人として有名である。この伊能忠敬は、延享2年(1745)1月11日、上総国山辺郡小関村(現佐原市)に生まれた。生家の小関家は、漁業の網元を職業にしながら地域の名主を務めていた。が父親は婿養子(武射郡小堤村神保家(庄屋)の出身)で、忠敬が幼い時に母が亡くなり、父親と伊能家の当主との間がしっくりしなくなり、小関家を出る。それ以降、複雑な家庭事情などから、忠敬は親戚の家を渡りあるくような根無し草の日々を送り、最終的には、伊納家の養子となる。幼少時から、かなりの数学の才を発揮したようであるが、伊能家(名主)の養子となってからは、家業の建て直しに専念し、自分のやりたいことは隠居してから、と心に決めたようだ。
学に志し、50歳になってから、幕府天文方高橋至時(よしとき)に入門して、天文学を学んだ。そして地球緯度1度の距離を実測することに端を発して、蝦夷地の測量を自費で実施し、幕府に献上した。これが評価され、以後17年間にわたって、全国の測量を実施し、その結果を基に日本地図「大日本沿海輿地全図」を作成したのである。
2.能登測量
享和3年(1803)年2月に伊能忠敬率いる第4次測量隊が、東海地方及び北陸地方の海岸線の測量に出発している。伊能測量隊が測量のため、この年、敦賀、福井、石川、今浜と進み、ここで二手に分かれて能登半島の海岸を両側から測って、所口(七尾)で合同した事が記録されている。その後、彼らは、富山、糸魚川方向へ向かった。加賀藩は、この測量隊が公儀からの通達があったが、藩内を測量される事を嫌ったのか、公儀よりの出来る限り協力するようにとの要請にもかかわらず、その姿勢はほぼ無視するものであり、非協力的であった。
「測量日記」によれば、2月25日に江戸を出発、6月24日に越前吉崎を出て、同日大聖寺着、7月2日金沢尾張町住吉屋に止宿。さらに7月5日に河北郡高松村を出発、今浜村で東往来を行く忠敬以下5人と、西海岸を北上する平山郡蔵ら3人に分かれ(二手に分かれ)そして能登路に入っている。この日記には各毎に所領関係などを簡単な小解を付してあるが、羽咋郡大田・四町両村では土方領について触れ、所口町では「旧名七尾、繁盛なり」と注記している。7日、阿良町の玄妙屋久兵衛方に泊り、翌8日小雨の中を出立し、祖浜村・石崎村とたどり、ここで測量を終え田鶴浜村に止宿した。翌9日、再び石崎村に戻り、船で海岸線を測量した。和倉村で食事をとり、さらに測量後、再度田鶴浜に止宿。以後測量しつつ、海岸線を北上した。9日に和倉で休息した時、「海中に塩湯出で、此辺のもの入湯をなす」と、鄙びた湯治場風景をかたったが、彼自身は温泉などしている閑はなかったようだ。
その後、内浦海岸を東進し、内浦組と外浦組に分かれた測量隊は7月22日珠洲郡松波村で平山郡蔵らと再会した。それから、能登島に渡り、27日に両組揃って再び所口に帰着、前の宿は不幸があったので、今度は阿良町の和倉屋四郎兵衛方に泊まっている。29日出立、観音崎方面へ向かい、三室村に止宿。翌30日出立し、鵜浦村から海岸線を南下、崎山地区から大呑地区を測り、庵村五郎左衛門家に止宿。8月1日大呑地区を測り終わって越中路に入った。そして射水郡姿村まで行ったが、船で東浜に戻り止宿した。(ここで忠敬は持病がでたらしく)翌日他に遅れて船で姿村に向かった、とある。この一行は、晴天なれば夜間でも測量するという精励ぶりだった。この結果は、文政4年(1821)忠敬の没後3年にして弟子によって完成され、幕府に上呈された「大日本沿海輿地全図」がこれである。
(参考図書)
「幕府天文方御用・伊能測量隊まかり通る」(渡邊一郎:NTT出版)、「伊能忠敬」(童門冬二:三笠書房)
「七尾市史」(七尾市史編纂専門委員会)、「(図説)七尾の歴史と文化」(七尾市)
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |