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(2004年1月21日作成)
所口縁起 〜所口町の名前の由来とその内容の変遷など〜 |
つい最近、ある方から、所口の名の由来をメールで質問をいただきました。私は、大体の由来は知っていましたが、正確な方が良いと思い、HPに書くことを約して返事をし、このページの作成とあいなりました。
現代では七尾市の所口町というと、七尾旧市街地南郊の本宮さん(能登生国玉比古神社(旧気多本宮))一帯のことを指しますが、昔は、旧市街地または旧市街地のうち御祓川(みそぎかわ)より西の地域を指して、所口といいました。
まず所口の名の由来からですが、下記のような伝説によるといわれています。
神代の昔に、この地(現在の七尾旧市街地海沿いの地域)に毒鳥や悪い鳥がいました。そのため、人々は大いに苦しみました。大己貴命(大国主命)が、このことをお聞きになり、それならば私が彼らを退治しましょうと、この地にやってきました。しかし尊(みこと)(大己貴命)の食膳に供するもののうち、何一つとして御口に叶うものがなく、人々は恐縮していました。この時、たまたま山野に生えている野老(ところ)の根を掘りて献ずる者がいました。これを紅葉川の水で調理して、尊(みこと)の食膳に供したところ、尊は殊のほか喜びなされたといいます。野老(ところ)の御口に叶った、というこの伝承から、この地のことを所ノ口と称するようになったといいます。
以上の話は、「石川縣鹿島郡誌」(昭和3年発行)の第16章「伝説」というところに載っていた現代人には古文に思えるような文章を、私がわかりやすく書き改めたものです。 野老とは、古語で山芋のことをいいます。辞書では、山芋のひね毛が老人のヒゲににていたので、「野老」と字があてられたとかいてあります。私には、老人のヒゲというより、老人のスネ毛、またはスネそのものという方がわかりやすい気もしましたが・・・
大己貴命(大国主命)の能登平定にまつわる伝承は、口能登(羽咋市・羽咋郡南部)から奥能登まで広く分布しております。特に羽咋市一の宮・気多大社から、七尾市・能登生国玉比古神社(旧気多本宮)の間を、春の3月19日から3月23日までの間に、神輿などしたがえて往復する平国祭は、能登の人にはよく知られた祭りです。これは、大己貴命(大国主命)が、邪神妖賊を平らげて能登の国土を鎮定したことを模しておこなわれているといいます。行列には、神輿のほか、錦旗、長柄鎌、生太刀、生弓矢、広矛、神馬などからなり、神職は皆騎馬します。昔(明治の頃まで)は、気多本宮に着いた時、群集は歓声を発して神職の騎馬を驚かせ(明治の頃は驚かすだけでなく、引き摺り落そうと馬に民衆が立ち向かったとおもいいます)、神職は逡巡せずに突進するが、もし落馬する時は、米価が下落するという言い伝えなどもありました。祭りは、その他、途中の各巡行地でも色々な行事を行います。
ところで、所口の名ですが、古い記録では、気多本宮社に蔵されている文書にその名が見えます。南北朝の動乱がはじまった頃の建武3年(1336)の8月27日付・源頼顕( 吉見頼顕 )が鹿島郡気多本宮の所口免田における武士・百姓の狼藉を禁止した判書に、「気多本宮所口」とあります。これは昔、小丸山公園(前田利家が能登一国を織田信長から受領したとき居城した城跡)の一画の愛宕山(現在、日露戦争の記念碑が建っているあたり)に気多本宮があったことから「所口」の名があります。この小丸山の地は、今は海岸から200mほど離れていますが、埋め立てにより海岸が遠のいたのであり、前田利家が七尾にやってきた頃(1581年)は今よりずっと海岸線が近くにありました。小丸山に居城を築城の際、この気多本宮を今の地に移したのです。ただし、その辺りが所口と呼ばれるのようになるのは、かなり後のことで、少なくとも加賀藩政時代は、旧市街地一帯、もしくはその真ん中を流れる御祓川の西側を、七尾町という地名と混用して所口町(東側はその場合「府中町」といった)と言っていたのであり、本宮さん周辺が所口とよばれるようになったのは、すくなくとも明治以降と思われます。
(府中町という名は、今も残っていますが、これは現在の(昔から比べると範囲の狭い)府中町の地に、畠山氏より少し前の守護・吉見氏が守護の時代に館が築かれ、能登の政治の中心地となり、畠山時代も、ここに屋敷が築かれました。よってそれ以来、この旧市街地の御祓川東側一帯を府中町と呼んだのです。このように書きましたが、ただ私も勉強不足ですから、もしかしたら、もっと前の守護の時からもここに屋敷をおいたのかもしれません。私が調べた限りで古いものは吉見時代でした。)
先ほど藩政時代以降、今の旧市街地一帯は、七尾町と所口町が混用して使われたといいました。では少し話はそれて、七尾という地名はいつ、どこを指して用いられたのか?といいますと、これは七尾市民なら、だいたい知っているのですが、七尾という地名は、能登守護だった畠山氏が、今の本丸跡を中心とした一帯の尾根伝いに城を築き、城からみた七つの尾根(菊の尾、竹の尾、梅の尾、松の尾、亀の尾、虎の尾、瀧の尾:他の尾の名をつける説もあり)の景色が絶景だったので、その城を七尾城と名づけたことに由来します。そして前田氏がここにくる以前は、七尾城のあったあたりから麓の畠山氏やその家臣の屋敷などがあったと思われる一帯、つまり古屋敷町、竹町、古城町などを七尾と呼んでいました。そうなると今度はまた疑問が湧きます。七尾という地名が、旧市街地一帯を指す名前として用いられるようになってから、では昔の七尾は何と呼ばれたか?答えは、それは昔七尾と呼んだ一帯を本七尾と呼んだそうです。
前田家の領地となってからしばらくして、所口から七尾に地名変更したようですが、住民になかなかなじまず「七尾」と「所口」の混用が続きました。藩もこれには困り、赤穂浪士の討ち入りのあった元禄15年(1702)に、七尾町(つまり旧市街地)全体を所口とするとしました。しかし、今度は住民側が、町年寄4名の名で、「所口町御奉行所」へ「如何なる御趣意で地名を変えられたか、全国に知られた七尾が所口では通じなく、実に迷惑至極」(新七尾風土記、田中政行氏の意訳)と、「七尾」の地名にして頂きたいと申し出ています。このようなありさまで、結局、町の人々は、その後もまた引き続き混用していたようです。町奉行所自体も、七尾町奉行所といっている時期もあれば、所口町奉行所といっている時期もあり、結局この混用は、明治初期まで続きました。
明治8年3月2日、石川県当局は「所口町の儀は旧名七尾とも相称候より、自然一地両名の姿相成不都合」であるので、以後は「七尾」と呼べと町の名を定めてから固定しました。
最後に、七尾市のHPでは所口の名の由来について私があげた説とは別の説をとっています。一応、その箇所を抜書き転記すると
「七尾の町は昔所口といった、というが」「所口とは何かといえば、先ず、所とは、古い時代の役所である、といえる。646 年に大化の改新の詔がでてから国の政治の基本法典としての律令が出され、律令国家としての形が整えられる。地方の役所も整備された。
すなわち、
(1)調所・出納所は調や庸物の出納を取り扱い。
(2)大帳所は中央政府に報告する大帳という人口統計書を作るところ。
(3)朝集所は郡司の勤務評定書をつくるところ。
(4)健児所は健児(平安時代の兵制による兵士)の統率を司るところ。
(5)国掌所は国府の下働きの国掌のたまり場。
といった具合で、所とは、その当時の役所を意味していたのである。所へ通じる出入口を所口といったのであろう。地名を表わすのに用いられたのは、建武3年の「所口」天正5年(1577)に「符中所の口」、天正17年に「所口屋敷」、天正19年「所之口町」と書類に見える。 」と書いております。まあどちらが正しいかは皆さんの判断にお任せします。
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