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七尾(所口)の町

(1999年8月26日作成)

 七尾の町は、天正9年(1581)に越前府中から能登一国を与えられた前田利家が、新たに居城を小丸山(現七尾市中心地区)に定めたことに始まる。城郭造りに伴い、所口村・府中村を中心として城下町を造成した。集落としての原形があったとはいえ七尾の町は小丸山城と共に新たに整備された町といえる。
利家は、能登に入国し、城下造りに着手して間も無い天正11年(1583)に尾山(金沢)に移ることになり、跡には城代として、利家の三兄・安勝が置かれたが、元和2年(1616)に一国一城令によって廃城となり、以後は町奉行の支配するところとなった。
 以降は、七尾は政治の中心としての城下町から、海上・陸上交通の拠点として、金沢はもとより、越中・東北・蝦夷へ能登の物産を中心に集積・回送する商業都市として発展していく。所口町絵図」(金沢市立玉川図書館蔵)
城下町として出発した七尾の町は、その誕生の経緯から、町の構造には城下町特有の性格が色濃く残されている。当時の地図を実際にみても(「七尾の歴史と文化」のP91参照)、町は海岸に沿って東西に伸び、街区も東西・南北に走る街路に規則性をもって並び、計画性を持って造られた町であることを物語っている。全体的な景観としては、街は北側の海と、南側の城郭の間に位置し、街のほぼ中央を能登の動脈ともなる内浦街道が通り、 御祓川 をはじめとする4本の川が街を分断するように南北に流れている。
 街の南西部の城郭周辺には、旧政庁跡であることを物語るように、所口町奉行所(現金沢地方裁判所七尾支部)や御塩方奉行・所口町小代官・同足軽等の居住地、および収納蔵が位置している。城下町の特徴の一つともなる寺町についても、街の西方に位置する法華谷に寺院群が存在し、街内においても浄土真宗を中心とする寺院が、内浦街道の出入口および街の南端と東端に配置され、西方の法華谷寺院群と共に、あたかも城下の外囲をなすように位置している。
町名についても、城下町としての特徴を表すものが多く、職人町としての塗師町・鍛冶町・檜物町・大工町・作事町などがあり、商人町としては味噌屋町・豆腐町・米町・魚町などがある。城の機能や関連を示す地名としては、大手町・馬出町・鉄砲町などがある。
 このように七尾の町は、その構造上から城の無い城下町という特質を有していたといえよう。

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