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江戸町奉行

(注)江戸町奉行について、書こうとすると、まだまだ沢山のことがあり、とても1ページでは書き尽くせないので、今後も、別ページを設けたり、加筆修正していくよていです。乞うご期待

1.江戸町奉行の歴史
役職名として町奉行所が重要なものとなったのは江戸幕府からであるが、徳川家には松平氏を称した三河時代にすでにこの職があった。しかし江戸時代のように、その所在も一定しなかったし、庁舎もなかったので、町奉行に任命された者が自宅に白洲を作って奉行所としていたのであった。
3代将軍家光の寛永8年(1631)10月に、加賀爪民部少輔忠澄を北・町奉行に、堀民部少輔直之を南・町奉行に任じた。この時から役宅を作って月番(隔月交替)で執務させたのが、江戸町奉行の始まりである。余談だが、享保年代以降の南町奉行所は大岡越前守が設計したものであり、「大岡越前守御役屋敷絵図」によると、その概要は、総坪数2,617坪、建坪1,809坪(この内、役所向き375坪、住居向き157坪)とあり、この大岡の設計は基本的にそのまま幕末の慶応4年(1868)まで踏襲されたという。

2.町奉行所の別称
町奉行の政務を執るところを町奉行所というが、これらは役職上からいう言葉で、江戸時代の人々は多くは御番所、または御役所といった。町人達が町奉行所というのはおかしいことで、御番所、御役所と通称しており、町奉行などとは言わずに御奉行・御奉行様などといった。そして、御歩業・御奉行様ということは町奉行に限ったことで、寺社奉行・勘定奉行の意は含まれない。町民にとっては、かかわりのある奉行とは町奉行だけであったから、当然のことである。

3.町奉行を命ぜられる者
町奉行を命ぜられるものは、初めの頃は一万石以上の禄高の者であったが、後には世禄(世襲で受け継いでいる禄)には関係なく適任者を命じるようになった。しかしごく世禄の低い者は採用されなかった。だいたい2、3千石の旗本がなった。享保の定めにより町奉行の役高は3千石になった(後、宝暦5年に二千両、慶応3年に二千五百両と改められた。他にも規定外の支給の細かい変遷もあった)。町奉行の役職は重要な職でありながら、役高は案外低いが待遇はいいほうで、従五位下朝散太夫(従五位下の唐名)となり、○○守とか○○尉などと名乗ることができた。格式は譜代大名の5万石以下に扱われた。ゆえに万石級の譜代大名級の格式の行装が必要とされた(ただし家臣の数はそれだけは抱えていない)。

4.江戸町奉行所の北と南の関係
江戸町奉行所は、御存知の通り、(数寄屋橋内)(呉服橋内)に設けられた(一時、・町奉行所(鍛冶橋内)もあり)が、よく勘違いされているのだが、2つの町奉行所が江戸の町を半分ずつ管轄したのではなく、月番制で、月番と非番があり、交代で1ヶ月おきに執務した。
月番の奉行は、毎朝四ツ(午前10時)に登城し、八ツ(午後2時)に下城のあと、役宅に戻って吟味・訴訟を行う。非番の町奉行は、月番の町奉行所へ寄って連絡事務をとったり、午前中に江戸城に登城して老中と打ち合わせ報告をした。月番の奉行所では大門を八文字に開いて町民からの訴えを受けつけ、非番の奉行所は門を閉じて過去の訴訟の整理をしたり、月番の奉行所の応援や、市中の三廻り(定町廻り、隠密廻り、臨時廻り)は、その捜査の仕事を続行したりしていた。身体を休める本当の非番というのは2日勤務の1日休みで、月番・非番というのは町奉行所自体の訴訟をさして言うのであった。南北で仕事の応援をするのであるから、したがって、北と南に勤める与力・同心らが、対抗意識から、仲が悪かったように勘ぐられドラマなどでもそのようなシーンが多いが、むしろ信頼関係を築くのが難しかったのは、奉行とその部下である与力や、同心との間柄であった。
与力や同心が、ほぼ世襲で一生同じ職場であったのに対して、奉行は、しょっちゅう挿(す)げ代わりうまく行かないことが多かった。その為、奉行は自分の家来である者を内与力側用人として使い、きっちりと命令が伝わるよう、彼らに潤滑油の役目をさせた
町奉行所に代々勤める与力や同心は、お上(将軍)の家来であり、奉行の(主に旗本)の家来ではないのである。したがって、奉行は上司ではあっても、彼らにしてみれば、録を食(は)ませてもらっている殿様ではないのだ!)。
この点、火付盗賊改の場合、長官と部下の間柄は、殿様と家来の関係ではないが、同じ先手組の組頭ということで、「お頭(かしら)」と呼ばれるような畏敬と親しみをもった強力な関係が築かれていた。

(参考)奉行の家来である内与力の立場から描いたのが、平山弓枝「はやぶさ新八御用帳」である。小説の設定では、主人公の内与力・隼新八郎は、南町奉行根岸肥前守の家来ということになっている。なかなか面白いので、捕物帳が好きな方は一度読んでみることをお勧めします。

話が少しそれたが、訴訟が受理されると、初めて公事(くじ)となる。享保4年の一日あたりの裁判件数は、36件であった。当時の南町奉行・大岡越前守は、毎日深夜まで執務したといわれている。月番と非番の両奉行が相談することを、「寄合い」というが、これは両者の不統一を防ぐためで、1つの事件を2人の奉行が裁くということはなかった。評定所の式日には、両奉行とも必ず出席。

5.評定所と町奉行所の職掌範囲

さて、江戸時代の裁判は、その訴訟の内容によって、評定所と奉行所の2つに大別される。

評定所では、たとえば大名のお家騒動、直参旗本に関するもの、三奉行の所管範囲が複雑に入り交じっている事件、これらの場合、三奉行の複数合議によって、老中・大目付も列座して評定所で決議される。また、寺社奉行、勘定奉行、町奉行の三奉行が、それぞれ自分の所管権限内の事件を自分一人単独で裁く場合、それを「一手限り」といい、奉行所の裁判になる。刑事裁判の際は、「手限り吟味」といっている。町人間の事件は、ほとんど町奉行の一手限り裁判だった。

6.町奉行の職責
その職責は江戸府内の武家・寺社を除いた市民の行政・司法(警察も含む)の事務を行ったもので、町政一般から庶民の訴訟・犯罪者の裁決をするのが主であった。町政と司法を兼務しており、町奉行は、いわば現在の都知事と裁判官の一人二役だったから、人に処罰を与えるだけでなく、善行者へ褒美の金品を渡すこともあった。したがって、「お奉行様」は庶民から恐れられもし、また、親しまれもした。判決は〝申し渡し〟。そして無事に裁判が済めば〝一件落着〟である。
「古事類苑」に町奉行の職責として、「江戸府内の町民及び(伝馬町の牢屋奉行)・養生所の役人・江戸町役人・並びに江戸寺神両の町民等を支配し、兼て大火災の消防を指揮し、道路・橋梁・上水の事を掌る」
とあり、牢屋奉行である囚獄・貧民施療院である養生所・土木上水道のことまで支配し、加えて警察・司法を主としたから、その職掌範囲は、かなり広かった。
定員は寛永12年(1635)には2人であったが元禄14年(1701)には3人となり、享保4年(1719)には、また2人制となった。

7.町奉行所の管轄地域
その管轄地域は慶長時代には3百町であったが、明暦年間には5百余町となり、寛文2年(1662)にはさらに南は高縄(現在の高輪)、北は坂本(台東区坂本)、東は今戸(墨田区)まで広がり、正徳3年(1713)には深川・本所・浅草・小石川・牛込・市ヶ谷・四谷・赤坂・麻布の259町がその支配下に置かれ、天保年間には1,679町となっている。
俗に江戸八百八町と称するが、その倍に及ぶ町数が江戸御府内として待ち奉行所の管轄になったのである。
この合併前の旧江戸町内を古町といって租税をかけられなかったが、合併された町は元が代官の支配地であったので年貢は代官が取りたてた。しかし町奉行所の支配地であるので、人別や賞罰は町奉行所の手によって行われた。この新合併の町を両支配と呼んでいる。
このように江戸府内はなかなか複雑で、さらに寺社領は寺社奉行の管轄で、武家地も町奉行所の管轄外であったから、犯罪捜査・捕物には大変不便をきたしていた。
そこで後には寺社領でも門前地に限って町奉行の管轄とし、また火付盗賊改役という特別高等警察的なものを作って、士庶僧神官の別なく取り締まるようになった。ただし寺社の境内には手続きを行うか。寺社奉行の手の者に頼むかせねば踏み込めなかったのであるから、映画・小説のようにやたら町奉行所の者が踏み込んで捕物をすることは決してありえないことであった。

8.町奉行の取調べ
町奉行所の白洲の取調べは、全て花形与力といわれた
吟味方与力中心に行われた。町奉行は、なにせあの大都会江戸の町の民事・刑事・訴訟の処理にあたるのであるが、それは八ツ(午後2時)ごろの江戸城から奉行所に戻ってからの仕事である。とても山積みしている訴訟を一つ一つ奉行自身が克明に調べる暇などない。刑事事件は吟味与力が、あらかじめ調べておき、例繰方という掛(かかり)が、擬律までしてから後に奉行が調べた。奉行は、最初に白洲の者へ声をかけるだけ、あとは小座敷の内で裁判の様子に耳を澄ます。芝居や映画でお奉行様が上段の真ん中にいるのは、そうしないとドラマの主人公が絵にならないからだ。ちなみに、名奉行といわれた大岡忠相は、裁判に臨んだ際、いつも縁先の白洲へ向いた戸を締切り、彼の愛蔵する長さ三寸から五寸もある大毛抜で、あごひげを抜きながら、瞑目して判決を下したという。彼は白洲にいる人の顔を見ると自然に愛憎の念を生じるから、その用心のため、そうしていたという。だから、他にしゃべることは、せいぜい罪案に対して罪人に念を押し、刑を宣告するだけであった。
非番の与力・同心に町奉行は先月受け付けた事件を審議させ、断案を作らせて、重追放以上にあたるものは、お伺書を持って老中・将軍の決済を受け、町奉行所に戻って、それぞれの事務手続きと掛りを通して処罪方法を執らせるのである。中追放以下は手限り吟味となり、町奉行の吟味で判断した処理をおこなった。(遠国奉行は、この手限り吟味」の範囲に多少の差があり、重罪は全て江戸にお伺いを立てた。)
この他に町奉行は和田倉御門内にある
辰の口評定所式日に出席し、六日十八日二十七日内寄合には月番の奉行所へ出なければならず、三手掛(月番奉行と大目付・目付立会の裁判)・四手掛(寺社奉行・町奉行・大目付・目付立会の裁判)にも出席するので暇のない役職であった。

9.江戸町奉行所の組織

江戸町奉行所の配下には与力25騎・同心120人がいたから、南北両町奉行所合わせて与力50騎、同心240人である。これらが組役、内役、外役とに分かれている(実際は与力は南北各23騎ずつで46騎)

<両町奉行所の役割について(人数は片方の町奉行所分を記してあります)
1)組役
同心支配役老分5人、年寄役老分同心25人、物書同心25人、若同心百人。
2)内役(日々役所へ出勤するもの)
年番役3人、同下役同心10人、同心支配組役の組役より選挙し、日々役所に出て面接して、与力・同心をはじめ、役所内外の堅務・金銭出納・営繕・同心役の任免の事・万事奉行の顧問となり、これを輔佐する重役であった。
吟味方:与力10人、内本役4人、助6人、同下役同心25人。聴訟断獄の事を掌った。
市中取締諸色掛り:与力8人、内本役4人、手伝4人、同下役同心16人、諸問屋その他、商業筋全体の事務を取り扱い、南北で主任を分けたものもあった。例えば、米掛りは北が担当し、魚青物は南が担当した。
非常掛り:与力8人、同下役同心16人、市中の治安を警衛し、昼夜の町廻りを勤め、火事場駆け付けなども勤めた。
外国廻り:与力8人、下役同心16人、外回人居留地の掛りにて外務の事を掌る。
・御赦掛り:選要編集掛り:与力4人、下役同心8人、罪人の大赦ならびに古い書物の編集を掌った。(その仕事の性格から与力・同心に旧記例格をならう教場ともなった)
・刑法(御仕置)例繰方:与力4人、下役同心8人、刑法例規取調べ、書籍編修の事務を掌った。(その仕事の性格から与力・同心に法律を習わせる教場ともなった)
・番方与力:人数不定、日々の当直ならびに臨時出役、検使見分、その他臨時加役を勤める。新参番入りの筋から勤めはじめ、だんだんと慣れ、順々に昇進していった。
3)外役
・本所見廻り:与力1人、同心3人、本所深川を見廻り、橋々普請川浚等を監督して水陸を取り締まった。
・町会所掛り:与力2人、同心4人、市中の共有財である籾蔵などを掌り、窮民救済のことを掌った。
・牢屋敷見廻り:与力1人、同心2人、囚獄見廻りなどの主な任務とした。石出帯刀の処置を監督し、刑罰の立会い、両溜の監督を兼ねて、奉行の目付役をしていた。
・猿屋町会所見廻り:寛政8年(1789)9月16日、松平定信が旗本救済の意味を含めて作った貸付け会所で、12月に発令した。間口20間、奥行き25間の建物で、勘定奉行の勝手方掛り7名が出張札差に資金を貸しつけた。ここが、猿屋町会所で、資金は一両に付銀六分であった。資金融通の所であるから自然賄賂が行われるので、これを監督する掛りである。与力一騎に同心2人で、同心は毎日交替で勤務し、与力は随時出張した。
・養生所見廻り:与力1人、同心2人、貧民施療救育場の掛りである。
・高積見廻り:与力1人、同心2人、町々往還で荷物積み立てたり、道路の妨害しているようなものを制して監督した。
昼夜廻り、風烈廻り:与力1人、同心2人、風の烈しい時に火災予防や、不穏分子の活動を防ぐために出役する掛り。火事場定掛りで、消防方指揮が主な任務であった。
・本所深川古銅吹所見廻り:与力1人、同心2人。
同心専任の役儀
・隠密廻り
:同心2人、隠密に市中を巡回して秘密探索を行うもので、奉行または与力の命令で、常に市中を変装して廻っている。事件が起きた時は、裏付け調査の聞き込み、証拠集めなどした。
・臨時廻り:定町廻り同心の予備隊のような存在であるが、その職務は全く同じであり定員は1組6人、両町奉行所で12名である。これは定町廻り同心を勤めたものがなり、定町廻り同心の指導、相談に当たる先輩格であった。
・定町廻り同心:法令の施行を視察し、非違を監査し、犯罪の捜査、逮捕をする役で、現在のパトロール警官である。
これがおなじみの定廻り同心であるが、定員は一町奉行所にわずか6名である。南北両奉行所で12名。臨時廻り同心も同数であるから、合わせて24名、これで江戸府内を巡回して治安に勤めたのであるから、驚異的である。この12名が、それぞれ受け持ち区域をもっていて常時廻っているが、つい手が足りないから岡ッ引、下ッ引が動員されるようになるのである。巡回途中で挙動不審の者を捕らえることもあり、町役人(ちょうやくにん)の訴えで捕らえることもある。
・人足寄場詰:1人。石川島徒刑場に詰め切り。
・用部屋手付:10人。奉公の公用人(内与力)の手付である。刑法もの書類書記である。
・番方若同心:人数不定、当日の宿直を勤め、奉行の供方、裁許所の警護、諸事の使い走りをした臨時出役であった。捕物、罪人首打ち役、その他、外役の加役として勤めた。新参の頃、これを勤め、徐々に仕事に慣れ、追々昇進していった。
・下馬廻り:諸侯登城の日に大手門その他の供侍の取締まりを行う。
・門前廻り:月番の老中・若年寄の対客日にその門前の取締まりを行う。
・年寄同心役:組役より日々順番に当直して、町々の異変の検使見分、その他にも色々と出役した。
物書同心:組役より日々順番当直して、色々な訴訟その他、当番与力の指揮に従って書記をした。

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