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火付盗賊改

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1.組織の概略 2.火付盗賊改役が出来た背景
3.火付盗賊改役の誕生 4.御先手組
5.火付盗賊改役付与力・同心 6.火付盗賊改役付与力・同心の服装
7.火付盗賊改役宅 8.火付盗賊改役の任務
9.火付盗賊改役の使っていた岡ッ引 10.火付盗賊改役の待遇


(組織の概略)
幕府の御先手組というのは、戦時ならば将軍出陣の先鋒を勤めるわけだが、徳川幕府なってまもなく天下大平となり、幕末まで特に不穏な空気はない。よって、御先手組は勿論、格別用もなくなるわけだ。しかし、いざ事変・暴動も考えておかないといけない訳で、こうした役目の性質上、弓組と鉄砲組に分かれた「御先手組」が、「火付盗賊改方」という役目につくことがある。この役目は、町奉行とは別だが、つまり一種の特別警察のようなもので、江戸市中内外の犯罪を取り締まるばかりか、すこぶる機動性を与えられているから、いざとなれば自由に他国へも飛んで行き、犯人を捕らえることができる、というものである。それでは、これから、火付盗賊改について詳しく見ていきたい。

(火付盗賊改役ができた背景)
幕府は戦時体制のまま、平和時の中央政府を作った。その人数は一口に「旗本八万騎」というが、実は将校にあたる「旗本」は7千人、下士官・兵に当たる「御家人」は1万3千人、あわせて2万人ほどだった。が、それでも戦いがなくなり、泰平無事の世の中になると、人が過剰となり、だいたいその1/3の人数でよかった。そこで、一般には、「三番勤め」といって3人1組となり、1人は実際に出動して働き、1人は「控え」として家で待機し、1人は全然休みとあって、毎日釣などして、暇をもてあます、というありさまであった。役方(文官系)は、まだいいとして、番方(武官系)は、特に勤務場所がなかった。大坂城を守る大坂在番、甲府城守備の甲府勤番ぐらいのもので、江戸城の諸門番警備は諸大名が担当してくれるから、不要であった。
ところで、手余りの人数をあそばせておくこともないので、幕府は名目だけの役職「小普請組」に入れた。小普請組というのは、江戸城の屋根瓦が壊れたとか、石垣が緩んだとか、取るにたらぬ修理を引き受ける役人である。


(火付盗賊改役の誕生)
火付盗賊改は、盗賊改、火付盗賊改の両役に分かれ、もとは町奉行の管掌する所であったが、寛文5年(1665)10月に先手頭水野小左衛門守正が盗賊改役を兼ねたのが、町奉行所から独立した始まりで、役所としては、自分の屋敷を使った。ゆえに、この改役が変わるたびに役所も移ったわけである。
町奉行も火付盗賊改も、両者とも同じ驀臣だが、町奉行は役方(文官)であるのに対して火付盗賊改は番方(武官)である。火付盗賊改の長官は、八百石の旗本で40人扶持がつき、定員は2人(時代により、1人となったり3人となったりまちまち)となっていた。本務(御先手組)以外の仕事だから、「加役」という。江戸幕府の役職の中には、他にもいくつかこの例(加役)があるが、御先手組頭が火付盗賊改役を兼務したことが有名になっていたので、火付盗賊改役のことのみ加役というように思われるようになった。火付盗賊改の仕事は、本来は町奉行の手で取り締まるべきことであるが、江戸市中の犯罪をなかなか取り締まれないので、比較的閑職であり、武官の職である御先手組が市中の犯罪者検挙の役に当てられたのである。つまり、2つの職を兼ねることになったのであるが、この火付盗賊改役を勤めると、御先手組としての勤務は行わない。火付盗賊改役に専心するのであるから、一つの役職に移ったわけであるが、役職としての籍は御先手組を解かれていないのである。
この火付盗賊改役は、初めの頃は1組であったが、時代が下るにつれて江戸市中の人口も増加し、町の仕組みも複雑になってきたので、もう1組では不十分となった。そこで、第2の火付盗賊改役が誕生した。これは、火事の発生しやすい十月から翌年の3月まで、先手組みがまた加役として勤めた。これも加役と称したが、正確には「当分加役」都と言い、従来の火付盗賊改役を
「本役」といった。当分加役は、天和2年(1681)に先手頭中山勘解由が勤めたのが始まりである。本役、当分加役の2つの役所でも手に余る時には、第3の臨時火付盗賊改役を増設し、この役を勤める御先手組を「増役」と呼んだ。増役は、享保年間や、天明の飢饉の際、幕末のペリー来航の際などに設けられた。
 火付盗賊改役は、本役は創設当時から2名であったが、享保10年(1725)12月進喜太郎が勤めたときから1人になったが、文久2年(1862)12月に本役土方八十郎本役のほかに、御先手組でなく御目付から火付盗賊改の本役を増加して、再び2人とした。御目付から火付盗賊改役になったのは、これが初めてである。

(御先手組)
 火付盗賊改役を兼務する御先手頭は、若年寄の支配で、御先手弓組と御先手鉄砲組とに分かれ、時代によって違うがそれぞれ10組から20組あり、戦時は弓組鉄砲組の先備えとしての歩兵隊であった。その隊長が先手頭である。だいたい3千5百石から2百石くらいの旗本がこの御役を勤め、布衣、躅の間伺候の格で御役高は千五百高であった。御先手頭が火付盗賊改役を任命されると、籍は御先手組に残しておくが、城内へは出仕しないでよかった。この御役を拝命すると、組下の与力・同心を使って、絶えず市中を巡邏して怪しい者を、どしどし検挙したから恐れられた。

(火付盗賊改役付与力・同心)
御先手組の与力は一組に5騎、同心30人であったが、この御役を勤める時だけは与力を十騎、同心は他の組から借りて50人とした。与力10騎、同心50人という数字は町奉行所の与力・同心の半分以下であり、御鉄砲百人組の半分である。
しかし町奉行所というものは市制を掌っているので、与力・同心のすべてが犯人追捕に当たっていたのではなく、南北両町奉行所を合わせてもせいぜい50人とした。与力10騎、同心50人は、決して少ない人数で働いていたわけではない。当分加役の方は、自分の組下の与力・同心のままであるから与力5騎に同心30人のまま勤めたのである。増役も同様であった。

(火付盗賊改与力・同心の服装)
火付盗賊改役の与力・同心の服装は町奉行所の与力・同心と同じであるが、髪は八丁堀風ではなかった。ゆえに町奉行所の与力・同心と見分けるのに髪を見ればわかった。町奉行所の与力は捕物出役には指揮者となっていて、よほどの時でないと直接手を出さなかったが、火付盗賊改の与力は、自ら進んで追捕に当たった。

(火付盗賊改役宅)
火付盗賊改役には、町奉行所のように一定した役所がない。本役の任期が一年、当分加役は半年、増役は一時的となっていたから拝命した御先手組頭の拝領屋敷が役宅ということになる。ただ、元治元年(1864)2月、四谷御門内の水野出羽守の上地3,509坪の中の1700坪を火付盗賊改の役所として大久保雄之助が住んだことがある。火付盗賊改役拝命と共に役宅に吟味席や白洲が設けなければならなかったが建物の内容は一切不明である。

(火付盗賊改役の任務)
火付盗賊改めは町奉行所の場合と違い火付盗賊改役自身でも、市中の忍び回りもやるし、犯人を捕らえることもした。名のように放火、盗賊、博奕の取締まりかつ犯人の検挙から取調べをやったのであるが町奉行所のように市政・治安維持のためよりも、犯罪者を減らすことが目的であった。
そして神官、僧侶、旗本、御家人まで怪しいと見ればどしどし捕まえてしまった。町奉行所なら左記の人々は、支配違いとなり、どうしても直接捕まえるとなると、前もって管轄権をもつ寺社奉行や、目付役に事前連絡し、了承を得たり立ち会ってもらったりする必要があるが、火付盗賊改役の場合は、機動性を持たされており、後程管轄の役所に連絡し渡せばよかった。火付盗賊改役は、召し捕ることを得意としていたので御馬先召捕と言って、頭が巡回してくる前にあらかじめ怪しい奴を捕縛しておいて自身番へ留置し、巡回してきた頭がその場で怪しい者を見つけて逮捕したように見せかけることを行った。そして、町奉行所の手の者のように手順や規則を踏むことなく、捕らえた者は役宅へ引致して厳しく取り調べる。町人一般であると枷を打って役宅内の溜りへ入れるか、または牢屋敷へ送り込み、神官・僧侶は寺社奉行に、諸藩の武士はその藩に、旗本・御家人はその支配に、府外の百姓町人は勘定奉行に引き渡してしまう。引渡すまでに相当手荒い取調べが行われ、時には幕府で決めた規定以外の拷問まで行ったから、たいていの者は白状してしまうし、時には無実の者でも余り苛酷な拷問のため自白したり責め殺されたりした。
犯罪を減らすための特別の捜索隊であるから、町奉行所と違って、犯罪容疑者に対して少しの手心もなかったので、加役屋敷へ送られたら白状しない限り生きて出られないといわれて恐れられていたし、そうした事をもって威嚇主義をとっていたのである。
ところで火付盗賊改役および配下の与力・同心はどのような勤め方をしていたかというと、定まった規定もなかったし、またあったとしても秘密にされていたので、詳細はわかっていない。

(火付盗賊改役の使っていた岡っ引)
町奉行所の同心が岡っ引・手先を利用することを禁じられていながら、内密に使って役立てていたように、火付盗賊改役も、岡っ引・目明かしの類を使っていた。ただし火付盗賊改の方では、岡っ引とは言わず、「差口奉公」と称していた。明和8年(1771)には、弊害が出てきたので、差口禁止の御触れが出ている。これは、池波正太郎も、「鬼平ら犯科帳」にも出てくるが、見所のある軽犯罪の者を密偵とし、矯正させているが、実際にも、囚人で捕まった者の中に差口して協力する者があった。しかし、それは、しばしば囚人が、自分の罪を軽くする為に、自分が憎んでいる者を罪あるように告口した場合があった。火付盗賊改はこれを捕らえて苛酷な取調べをして嫌応なく自白させてしまうから弊害があり、また差口奉公が、岡っ引と同じく町で威張って嫌われることが多かったからである。

(火付盗賊改の待遇)
火付盗賊改は、享保4年(1719)に役高1500石に、役料四十人扶持を与えられ、文久3年(1863)には役扶持百人扶持となった。この御役につくと、先手頭の上席となり、若年寄の支配ではなく老中の支配下に入った。目立った検挙数で成績を上げれば、他の良い御役に転じることができるので、御先手頭としては出世場であったが、この御役を勤めるのには色々と経費がかかり、町奉行所のように欠所金で賄うこともできないので、富裕な御先手頭が本役を勤めた。(例)矢部駿河守定謙は、火付盗賊改となって出世の手蔓をつかんだといわれている。


(参考図書)
池波正太郎「鬼平犯科帳」(文春文庫)
「大江戸おもしろ役人役職読本(歴史読本1月増刊)」(新人物往来社)(平成3年1月発刊)
佐久間長敬「江戸町奉行事跡問答」(人物往来社)

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