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四国旅行(前編)

 このページは、私・畝源三郎が1997年暮れに四国を旅行した時の、アルバムをもとに作成したものである。写真の枚数は、200枚以上あるのですが、あまり沢山紹介すると容量が大きくなり、画面も開きにくくなるので、記憶に残るものだけ抜粋しました。

 12月15日の夜、まだ明石大橋が完成していなかったので、私はファエリーで、明石から岩屋へ渡った。もう遅い時間帯であり、ホテルは無理である。というより、予算を決めての貧乏旅行である。有料道路や有料橋はほとんど使わなかった。そういう所は、どうしても通る必要がある時だけ、使った。そう言う訳で、サウナなど24時間空いてるような所も、途中で見つけたが入らなかった。南淡の橋を渡る手前のSAに着いたところで、夜食を簡単に摂る。そのあと、眠る。一応、エンジンを入れたまま暖房を効かせるが、寒さが身に応える。
12月16日 早朝5時、今日の周遊計画を自動車MAPを見ながら、考える。鳴門市は、最後にもう一度見ることにした。徳島の観光地などのガイドを見たが、徳島城は特に何もなさそうであるし、モラレス館などあるが、大したことなさそうである。、渋滞をさけ、早朝通りすぎることにした。目的地は、室戸岬。あとは、どれだけ周れるか、室戸に着く時間次第で改めて考えようと決める。早朝6時頃、鳴門大橋を渡る。とうとう初めての四国に上陸した。一番左の写真(この写真は実際には1999年12月20日の帰るときに撮った写真です。)は、四国側から見た鳴門大橋の写真である。
 左の2枚(実はこの2枚は1997年ではなく、1999年5月にバスで旅行したときの写真である。)の写真は、鳴門大橋の上から撮影した渦潮の写真である。ちょうど、渦潮が大きくなる頃、運良く通過することができた。自分で運転した時も見えたのだが、さすがに運転しながら、撮影出来なかったので、最近の旅の写真で代用させてもらった。鳴門を過ぎ、徳島を通り過ぎて、あとは室戸を目指し、ひたすら、国道55号線を走る。
 左の写真は、室戸阿南国定公園の(徳島県日和佐町)の千羽海崖から徳島側を見た景色である。南阿南サンラインというドライブウェイが整備されており、なかなか面白かった。阿南市から室戸岬までの道は、昔は難所で、徳島から室戸方面に向かう時は、ほとんど交通は、舟を使って行われた。それだけに絶壁などが多く、眺望は非常にいい。また私は行っていないが、日和佐町に、ウミガメ博物館などもあり、見るところは色々ありそうである。ただし、私は今回の旅行の目的は史跡を中心に周る予定なので、そのまま通りすぎた。
 室戸岬では、チョットだけ釣りをした。私は、岬の先端で、投浮きを使って20cm程のチヌを釣って喜んでいたら、地元の人は沖合100程の所へ、船で繰り出し、腕の太さ程もある浮きで、カツオ?らしき、大きな魚を何本も上げていた。そのため自分の釣が何か途中で馬鹿らしくなった。あれだけの魚は能登ではめったに釣れない。土佐の海は、デッカイ魚が釣れる豪快な海だった。
 左の写真は、室戸岬の近くにある御廚人窟である。室戸岬に着く前に、偶然見付けた。弘法大師が修行をした所として知られている。彼が夜、この洞窟内で海を見ながら座禅していると、いきなり口に明星が飛び込んできたといわれる神秘的体験をした所である。弘法大師の修行の場所の中でも、特別な場所である。詳しいことは、司馬遼太郎「空海の風景」、陳舜臣「曼陀羅の人」、ひろさちや「空海入門」などを読むとよい。私は昔、思うところがあり、鎌倉の某禅寺で1週間修行したことがあり、この年(?)にしては、仏教はそれほど、敬遠していない。別に敬虔な信者でもないが、1つの文化の様態として、受け入れており、歴史などにも興味がある。
                      中岡慎太郎の銅像である。室戸岬を見て、立っていた。これと反対側に雑貨屋があり、その裏手がすぐ岬の先端となっている。その雑貨屋で何も買わかったが、釣った魚を自分で料理していたら、ケチケチ貧乏旅行していることがわかったらしく、そこのおばちゃんがおにぎりをくれた。どうも有り難うございました。
 銅像というものは、面白いものである。いい銅像が建っていると、そこが別にその人物の故郷でも、一番関係ある土地でなくても、観光地になるのであるから不思議である。

 ところで、室戸岬の灯台を見下ろす所に、四国霊場第24番札所最御崎寺がある。そこから室戸へ降りる途中、東方面を眺めるのに絶好の場所があった。眼下に室戸の漁港が見え、土佐湾の南側の海岸が、はるか高知のあたりまで続いている様が、霞んではいたがよく見えた。
 土佐の海の景色を満喫した私は、室戸を出てから、高知に向けてまた国道55号線を走った。途中、奈半利町で、道を右に折れ、北川村にある中岡慎太郎の家に向かう。かなりの山奥であった。(ただし、下の銅像が建っているのは、繰り返すが、室戸岬の先端部の国道脇である。)
 陸援隊の中岡慎太郎(坂本龍馬とともに暗殺される)の生家である。銅像は室戸岬にあるが、生家は少し西北に行った北川村というところにある。家の庭にポンカンの木があったのが何とも南国らしかった。軒先をみると、ノートが置いてあり、頼めば説明を受けることができるようなことが書いてあったが、ゆっくりと待っている時間など無いので、周りを見回し見納めてから、ここをまた去った。

 中岡慎太郎の家を過ぎてから、安芸市で、一休止である。安芸市といえば、阪神タイガースの安芸キャンプで有名だが、まだ早すぎてキャンプには来ていない。この町で岩崎弥太郎の家を探していたら、郵便局の横の公園に彼の銅像が建っていた(右上の写真)。ここが、生家の場所かと思い近くに寄ったら、違った。もっと山手の方だという。それで、自動車を進めたら、標識が何ヶ所かにあって、何とか生家にたどり着く。左上の写真が、三菱財閥の創立者として有名な岩崎弥太郎の生家である。自動車も入りにくい田舎の道なので、観光バスなど止まれそうにない。家は、見た通り、これが、三菱財閥の創業者の家なのか、と思うほど簡素な家だった。家の屋根瓦には三菱のマークの原型になった岩崎家の家紋「三階菱」(土佐藩の三葉柏を重ねたもの)がついている。場所は高知県安芸市の少し山側に入った郊外にある。岩崎弥太郎も坂本竜馬と同じく、郷士だったらしい。
 岩崎弥太郎の家を出てから、国道55線まで再度出て、海沿いに走る。途中、赤岡町で、国道55線が内陸の方へ曲がっていたので、海沿いの県道に入る。浦戸大橋を渡り、桂浜公園に入る。土佐犬を闘わす、闘犬などやっていたが、あまり興味が無いし、時間も金もないので、すぐ坂本竜馬の銅像の方へ行く。
 左の写真は、高知市・浦戸にある有名な坂本龍馬の銅像である。桂浜の方を向いて立っています。浦戸は、もともとは、長宗我部氏の城(浦戸城)があったところである(一時期本城だったこともある)。長宗我部元親は、高知の北方、岡豊(おこう)城(高知県長岡郡岡豊町)で、国人・国親の長男として生まれた。ある古書では、秦の始皇帝の子孫となっている。先祖の秦能俊(はたよしとし)が、信濃国から土佐国長岡郡宗我部郷に移り、地名をとって宗我部を名乗るが、近くに宗我部を名乗る氏族がいたので、長岡の宗我部ということで、長宗我部(長宗曽我部)を名乗る。もう一つの宗我部氏は、区別する意味で香宗我部を名乗った(香美郡宗我部から命名)。詳しいことは、の「夏草の賦」(司馬遼太郎:文春文庫)、「長宗我部元親」(宮地佐一郎:学陽書房人物文庫)を読むのがいい。また、山内一豊が、四国へ入る際の話は、「功名ヶ辻」(司馬遼太郎:文春文庫)にも出ているから、そちらも読んでみてはいかがか。
 坂本竜馬についてだが、実は、私はまだ司馬さんの「竜馬が行く」を読んでいない。読んだのは山岡荘八の「坂本竜馬」と他の幕末史の小説に出てくる竜馬だ。もうちょっと、竜馬を中心に据えた本を読むべきかもしれないが、私はこのような日本的根回し男は好きでない。竜馬なんかより、危険を賭して革命を起した高杉晋作のような人物の方が好きだ(中国地方編を上梓する際は、彼のことを熱く語りたい!)。どうも、そのせいかなかなか「竜馬が行く」に手が出ない。まー、昔NHKでやっていた大河小説を全部みていたから、だいたい分かっているつもりなのも理由の一つだが。
 左の写真が、坂本龍馬が書いた有名な「船中八策」の実物である。坂本龍馬記念館の中にあります。これが、後藤象二郎に渡され、さらに山内容堂にわたされ、新政府構想となる‘大政奉還建白書’として提出されることになる。しかし、私は、横井小楠のファンであるので、竜馬ファンには悪いが、この「船中八策」の内容は、ほとんど小楠が言っている。竜馬は小楠にも会って、この論を聞いている。だから、これを竜馬の画期的な案とする言い方には、納得いかない。司馬さんも、竜馬の独創的な案とは、言ってないが、竜馬は他人の思想のエッセンを取り出し、わかりやすい自分の言葉で作り直すのがうまい、というような事をどこかで言っていたが、そうであるにはしても、竜馬は、少し司馬さんによってヒーロー的に偶像化されすぎたきらいがあると思う。竜馬は、私の目から見ると、やっぱり薩摩の犬となって動いた部分が多いように思えてならない。私は、高杉晋作を筆頭に薩長の英雄たちも好きではあるが、坂本竜馬より幕臣側にあって、なんとか外国の脅威から国を守ろうとした人々の方がすきである。川路聖謨、阿部正弘、小栗上野介、横井小楠などが好きである。ただし、勝海舟は、自分の功を多大に誇るきらいあり、彼はあまり好きではない。
 右の写真は、長州の桂小五郎が、薩長同盟のお礼として、坂本龍馬に宛てた手紙である。また、上のピストルは、長州の高杉晋作(の上海みやげ)からもらい、護身用として、竜馬が持っていたものである。京都を旅した時、近江屋へいったことがある。刺客に襲撃され殺害された時、この拳銃はあの近江屋の2階にあったが、座布団だったか蒲団の下で、使えなかった。それを思うと、自分の目の前に有るのが不思議な気がした。
この他に、この坂本竜馬記念館でいいことは、わら半紙に刷った、竜馬のデータが何枚も置いてあり、勝手に持って行ってよかったことだ。あまり小説や関係書物に出てこないような、系図や幕末維新の志士たちのリストなどもあり、参考になっている。
 左の写真は、浦戸の坂本龍馬記念館から見た桂浜である。もう、4時を過ぎる頃で、光りも夕焼けがかってきた。
 なお、この記念館の場所は、昔、長曽我部元親の浦戸城があったところである。昔は、お殿様が、この高さから下々の者を見下ろしたのだろうな、と思うと何だか高価な景色に思われた。山内一豊も、高知城ができるまでの間は、ここが本城であり、ここにいた。彼は、長宗我部の元家来達をなだめて統治を確立しようとしたが、郷士の抵抗があまりにも頑強なので、ある日、山内氏は、土佐一円の相撲大会と偽って、名のある力士たち(我こそはという土佐人は、だいたい皆相撲が強かった)を集め、陰から射撃し、大虐殺を行ったこともある。その場所も、城の麓の、この桂浜であった。

 ここを出発してからは、真っ直ぐ県道を北に進む。4車線の大きな道である。途中、自由民権記念館があったが、5時少しまわってつい先程閉まったらしく、入れなかった。脇の公園に板垣退助の銅像があったので、写真を撮ったが、現像したら、暗くてよく分からない写真になってしまった(という訳で掲載しない)。
 12月16日の夜
は、さすがに風呂に入りたくなり、ホテルに泊まる。高知市内中心街のビジネスホテル一兆に泊まる。チェックアウトして荷物を置いてから、繁華街の散歩を兼ねて食事に出かける。はりまや橋は、噂に違わず(高知県人には悪いが)、道路の真ん中にあり、何の趣もなく、つまらなかった。せっかく、高知に来たから、カツオのタタキでも食べようかと思ったが、何件もの食堂のディスプレイをみたが、どれも数千円で、とても手が出なかったので、結局場末の料理店で、親子丼をたべ、ホテルに帰った。
 12月17日早朝/ホテル「一兆」をチェックアウトし、市街東方の五台山へ向かう。ここは、聖武天皇の命令で、行基が五台山に創建したという真言宗の名刹である。行基は、中国の五台山さんに似た山を全国行脚した末に、この地に、求める山の姿を見出したといういわれがある。四国霊場31番札所でもある。ラッシュアワーを避け、朝7時頃、行ったので、まだ暗かった。ちょうど、カメラのフラッシュも電池切れで光らなかったので、なおさら見えにくくなっている。
 五台山を出てから、南に下り、武市半平太の生家にいく。
彼の事蹟を簡単に紹介しよう。武市は白札格の郷士である。高知に剣術の道場を開くが、江戸へ出て鏡心明智流の桃井春蔵に師事し、やがて塾頭となる。諸国を弟子たちを連れて周遊するが、再び江戸に戻り、志士達と交わり、尊王攘夷運動に邁進する。その後、土佐に帰り、土佐勤王党を結成する。開明的な思想で藩政改革を行っていた吉田東洋が、公武合体案を出すと、土佐を勤王国にしようとする武市の思想と対立するため、吉田を暗殺する。それでも下級武士である武市らは、なかなか行動の場がない。長州が京都で暗躍し上洛の内勅をえた事を知ると、三条実美に働きかけ、土佐にも上洛の内勅をだしてもらう。山内容堂の上洛に同行し、三条実美の勅使東下に奔走する。その後、京都留守居加役に昇進。佐幕派や公武合体派の人物を部下に命じて暗殺させる。文久3年薩摩・会津両藩による、クーデターが勃発すると、前藩主山内容堂も、尊王攘夷の仮面を剥ぎ取って、土佐勤王党の弾圧を開始した。それにより、入牢を命じられる。慶応元年切腹してはてた。
 武市の家を出たあと、高知市にもどる。もうラッシュ時間は過ぎ、高知城まですんなり行けた。左の写真は、高知城である。木造造りで、大きくはないが、趣があって良い。四国は、どういう訳か、木造そのままの城が至る所に残っていた。城跡の中には、懐徳館などという色々なものを展示している建物などもあった。また、ここにも板垣退助の銅像があった。高知城からの高知の町並みは、なかなかだった。高知城を見終えた後、岡豊(おこう)城に行こうか迷ったが、また少し戻る形になるので、やめた。足摺方面に向かう。途中、竜馬の家を見付けるが、大通りに面しているため、あまり長く駐車できないので、ほんのちょっと道路に自動車を止めてみただけで、去る。
足摺りに向かおうかと思い、国道56号線を南下したが、天候が悪かったので、途中で、宇和島に行くことに変更した。須崎市から、国道197号線に入った。
 途中、東津野村北川という、山の中の道路が交差する小さな集落を通ったら、吉村寅太郎の生家があった。自動車を止め、しばらくたたずむ。寅太郎は農民出身だとは聞いていたが、すごい山の中から出てきたのだなー、と思った。彼は、土佐勤王党に入り、その後、勤王活動に明け暮れる。最晩年(文久3年:1863)、天誅組を結成し、大和で挙兵するが、失敗。敗走中、津藩兵に射殺された志士である。
途中、道の駅ゆすはらで昼食を摂り、家へ近況連絡のハガキをおくる。宇和島には、それから意外と早くついた。
 城の下の立体駐車場に自動車を入れ、城内にはいる。右の写真は、宇和島城である。ここも木造造りであった。この城は、城造りがうまいことで知られる藤堂高虎が作ったらしい。高虎が、今治に転封された後、富田信濃守が入るが、まもなく改易となり、1年間幕府の直轄地を経て、奥州伊達政宗の長子秀宗が入り(1615)、伊予宇和島の伊達家初代藩主となる。彼は、天守閣他、大修理を施し、現在の天守閣はその時の姿そのままだという。小さな藩であったが、幕末には、英明の君主・伊達宗城を出し、歴史上、たびたび登場する。藤原純友が、反乱(海賊行為)の基地とした島々も、ここから(高台なので)よく見える。司馬遼太郎の「花神」(NHK大河ドラマにもなった)を読むと、一傘師が、黒船の動力源を独創のカラクリで作り、見事動かしてみせるという話が出てくる。後の大村益次郎こと村田蔵六も、この頃、宇和島におり、黒船作りそれにかかわっていたので、その傘師が、模型をもってきて殿様の前で動かす実験に立ち会うが、成功した姿を見て関心する。司馬さんも言ってたが、日本人の独創性は、やっぱり大したものだと思ったものだ。
 左の写真は、宇和島の国指定名勝・天赦園である。そんなに広くはないが、名勝というだけあって、なかなかきれいである。わびの世界を感じさせてくれた。
(その他の宇和島の観光案内)
一押しは、伊達博物館。鎧などの文具や文房具など、単なる古いものでなく、芸術性の高い展示品が多い。2番目は、上の写真の宇和島城そして、宇和島が面白い点は、有名人が数多くここに来て住んだ事である。町を歩くと、あちこちにその住居跡がある。有名なところでは、脱獄逃亡中の高野長英、ここでの黒船造りなどに活躍する村田蔵六(大村益次郎)、それにシーボルトの娘・稲も居た事がある。あと、児島惟謙の出身地でもある。
 ただ、地元の人は意外と無関心で、江戸の牢屋を脱走した高野長英が潜伏していた家の場所を尋ねたところ、誰も知っていなかった。また村田蔵六の住居跡も訪ねたが、ブロック塀に彼の事を簡単に説明したトタンの看板が貼り付けてあるだけで、目立ったものはなく、村田蔵六を何者であるか、知らない人もいた。
宇和島を出た後は、もう暗くなってきたので、途中、空地に自動車を止め、近くの銭湯に入った。その後は、コインランドリーで、洗濯をしてから、自動車に戻り、今回は車中泊した。
 12月18日早朝、佐田岬半島に向かう。手前の駐車場に自動車を止め、灯台の方に向かう。普通は、灯台まで行けるようだが、工事中らしく、手前の椿山展望台までしか行けなかった。写真は、佐田岬半島の、灯台である。対岸に見えるのは、九州の大分県の佐賀関である。この写真ではよくわからないが、実際は空気が澄んでいて佐賀関の工場の煙突らしきものが見えた。写真の白い波は、小さいが渦潮のようだ。この豊予海峡は、関アジ、関サバという、アジ、サバの最高級のものがとれることで有名。ここでもちょっと釣をしてみた。ここでは、20cmくらいはある、真鯛を釣った。刺身にして、その場で食べたが、最高においしかった。景色も最高に良く、私の好きな景色のベスト5に入る場所である。
 半島の先から戻る途中、三崎町に入るフェリーなども見えた。三崎町付近でガソリンが無くなったので、フェリー発着場近くのガソリンスタンドで油を入れ、再出発。左の写真は、佐田岬半島の、途中のドライブウェイから撮った写真である。佐田岬半島は、一番幅が広いところでも、5Kmもない、非常に細長い半島である。半島の頂上付近を走る国道からは、狭い南北の間隔の狭く、障害物のない所では両側に海を見ることができ、面白い。
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