このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
このページは、私・畝源三郎が1997年暮れに四国を旅行した時の、アルバムをもとに作成したものである。写真の枚数は、200枚以上あるのですが、あまり沢山紹介すると容量が大きくなり、画面も開きにくくなるので、記憶に残るものだけ抜粋しました。 |
12月15日の夜、まだ明石大橋が完成していなかったので、私はファエリーで、明石から岩屋へ渡った。もう遅い時間帯であり、ホテルは無理である。というより、予算を決めての貧乏旅行である。有料道路や有料橋はほとんど使わなかった。そういう所は、どうしても通る必要がある時だけ、使った。そう言う訳で、サウナなど24時間空いてるような所も、途中で見つけたが入らなかった。南淡の橋を渡る手前のSAに着いたところで、夜食を簡単に摂る。そのあと、眠る。一応、エンジンを入れたまま暖房を効かせるが、寒さが身に応える。 | ||||
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![]() ![]() | 左の2枚(実はこの2枚は1997年ではなく、1999年5月にバスで旅行したときの写真である。)の写真は、鳴門大橋の上から撮影した渦潮の写真である。ちょうど、渦潮が大きくなる頃、運良く通過することができた。自分で運転した時も見えたのだが、さすがに運転しながら、撮影出来なかったので、最近の旅の写真で代用させてもらった。鳴門を過ぎ、徳島を通り過ぎて、あとは室戸を目指し、ひたすら、国道55号線を走る。 | |||
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![]() 銅像というものは、面白いものである。いい銅像が建っていると、そこが別にその人物の故郷でも、一番関係ある土地でなくても、観光地になるのであるから不思議である。 ところで、室戸岬の灯台を見下ろす所に、四国霊場第24番札所最御崎寺がある。そこから室戸へ降りる途中、東方面を眺めるのに絶好の場所があった。眼下に室戸の漁港が見え、土佐湾の南側の海岸が、はるか高知のあたりまで続いている様が、霞んではいたがよく見えた。 土佐の海の景色を満喫した私は、室戸を出てから、高知に向けてまた国道55号線を走った。途中、奈半利町で、道を右に折れ、北川村にある中岡慎太郎の家に向かう。かなりの山奥であった。(ただし、下の銅像が建っているのは、繰り返すが、室戸岬の先端部の国道脇である。) | ||||
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中岡慎太郎の家を過ぎてから、安芸市で、一休止である。安芸市といえば、阪神タイガースの安芸キャンプで有名だが、まだ早すぎてキャンプには来ていない。この町で岩崎弥太郎の家を探していたら、郵便局の横の公園に彼の銅像が建っていた(右上の写真)。ここが、生家の場所かと思い近くに寄ったら、違った。もっと山手の方だという。それで、自動車を進めたら、標識が何ヶ所かにあって、何とか生家にたどり着く。左上の写真が、三菱財閥の創立者として有名な岩崎弥太郎の生家である。自動車も入りにくい田舎の道なので、観光バスなど止まれそうにない。家は、見た通り、これが、三菱財閥の創業者の家なのか、と思うほど簡素な家だった。家の屋根瓦には三菱のマークの原型になった岩崎家の家紋「三階菱」(土佐藩の三葉柏を重ねたもの)がついている。場所は高知県安芸市の少し山側に入った郊外にある。岩崎弥太郎も坂本竜馬と同じく、郷士だったらしい。 | ||||
岩崎弥太郎の家を出てから、国道55線まで再度出て、海沿いに走る。途中、赤岡町で、国道55線が内陸の方へ曲がっていたので、海沿いの県道に入る。浦戸大橋を渡り、桂浜公園に入る。土佐犬を闘わす、闘犬などやっていたが、あまり興味が無いし、時間も金もないので、すぐ坂本竜馬の銅像の方へ行く。 | ||||
![]() 坂本竜馬についてだが、実は、私はまだ司馬さんの「竜馬が行く」を読んでいない。読んだのは山岡荘八の「坂本竜馬」と他の幕末史の小説に出てくる竜馬だ。もうちょっと、竜馬を中心に据えた本を読むべきかもしれないが、私はこのような日本的根回し男は好きでない。竜馬なんかより、危険を賭して革命を起した高杉晋作のような人物の方が好きだ(中国地方編を上梓する際は、彼のことを熱く語りたい!)。どうも、そのせいかなかなか「竜馬が行く」に手が出ない。まー、昔NHKでやっていた大河小説を全部みていたから、だいたい分かっているつもりなのも理由の一つだが。 | ||||
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![]() この他に、この坂本竜馬記念館でいいことは、わら半紙に刷った、竜馬のデータが何枚も置いてあり、勝手に持って行ってよかったことだ。あまり小説や関係書物に出てこないような、系図や幕末維新の志士たちのリストなどもあり、参考になっている。 | ||||
![]() なお、この記念館の場所は、昔、長曽我部元親の浦戸城があったところである。昔は、お殿様が、この高さから下々の者を見下ろしたのだろうな、と思うと何だか高価な景色に思われた。山内一豊も、高知城ができるまでの間は、ここが本城であり、ここにいた。彼は、長宗我部の元家来達をなだめて統治を確立しようとしたが、郷士の抵抗があまりにも頑強なので、ある日、山内氏は、土佐一円の相撲大会と偽って、名のある力士たち(我こそはという土佐人は、だいたい皆相撲が強かった)を集め、陰から射撃し、大虐殺を行ったこともある。その場所も、城の麓の、この桂浜であった。 | ||||
ここを出発してからは、真っ直ぐ県道を北に進む。4車線の大きな道である。途中、自由民権記念館があったが、5時少しまわってつい先程閉まったらしく、入れなかった。脇の公園に板垣退助の銅像があったので、写真を撮ったが、現像したら、暗くてよく分からない写真になってしまった(という訳で掲載しない)。 12月16日の夜は、さすがに風呂に入りたくなり、ホテルに泊まる。高知市内中心街のビジネスホテル一兆に泊まる。チェックアウトして荷物を置いてから、繁華街の散歩を兼ねて食事に出かける。はりまや橋は、噂に違わず(高知県人には悪いが)、道路の真ん中にあり、何の趣もなく、つまらなかった。せっかく、高知に来たから、カツオのタタキでも食べようかと思ったが、何件もの食堂のディスプレイをみたが、どれも数千円で、とても手が出なかったので、結局場末の料理店で、親子丼をたべ、ホテルに帰った。 | ||||
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12月17日早朝/ホテル「一兆」をチェックアウトし、市街東方の五台山へ向かう。ここは、聖武天皇の命令で、行基が五台山に創建したという真言宗の名刹である。行基は、中国の五台山さんに似た山を全国行脚した末に、この地に、求める山の姿を見出したといういわれがある。四国霊場31番札所でもある。ラッシュアワーを避け、朝7時頃、行ったので、まだ暗かった。ちょうど、カメラのフラッシュも電池切れで光らなかったので、なおさら見えにくくなっている。 | ||||
![]() 彼の事蹟を簡単に紹介しよう。武市は白札格の郷士である。高知に剣術の道場を開くが、江戸へ出て鏡心明智流の桃井春蔵に師事し、やがて塾頭となる。諸国を弟子たちを連れて周遊するが、再び江戸に戻り、志士達と交わり、尊王攘夷運動に邁進する。その後、土佐に帰り、土佐勤王党を結成する。開明的な思想で藩政改革を行っていた吉田東洋が、公武合体案を出すと、土佐を勤王国にしようとする武市の思想と対立するため、吉田を暗殺する。それでも下級武士である武市らは、なかなか行動の場がない。長州が京都で暗躍し上洛の内勅をえた事を知ると、三条実美に働きかけ、土佐にも上洛の内勅をだしてもらう。山内容堂の上洛に同行し、三条実美の勅使東下に奔走する。その後、京都留守居加役に昇進。佐幕派や公武合体派の人物を部下に命じて暗殺させる。文久3年薩摩・会津両藩による、クーデターが勃発すると、前藩主山内容堂も、尊王攘夷の仮面を剥ぎ取って、土佐勤王党の弾圧を開始した。それにより、入牢を命じられる。慶応元年切腹してはてた。 | ||||
![]() 足摺りに向かおうかと思い、国道56号線を南下したが、天候が悪かったので、途中で、宇和島に行くことに変更した。須崎市から、国道197号線に入った。 | ||||
途中、東津野村北川という、山の中の道路が交差する小さな集落を通ったら、吉村寅太郎の生家があった。自動車を止め、しばらくたたずむ。寅太郎は農民出身だとは聞いていたが、すごい山の中から出てきたのだなー、と思った。彼は、土佐勤王党に入り、その後、勤王活動に明け暮れる。最晩年(文久3年:1863)、天誅組を結成し、大和で挙兵するが、失敗。敗走中、津藩兵に射殺された志士である。 途中、道の駅ゆすはらで昼食を摂り、家へ近況連絡のハガキをおくる。宇和島には、それから意外と早くついた。 | ||||
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![]() (その他の宇和島の観光案内) 一押しは、伊達博物館。鎧などの文具や文房具など、単なる古いものでなく、芸術性の高い展示品が多い。2番目は、上の写真の宇和島城。そして、宇和島が面白い点は、有名人が数多くここに来て住んだ事である。町を歩くと、あちこちにその住居跡がある。有名なところでは、脱獄逃亡中の高野長英、ここでの黒船造りなどに活躍する村田蔵六(大村益次郎)、それにシーボルトの娘・稲も居た事がある。あと、児島惟謙の出身地でもある。 ただ、地元の人は意外と無関心で、江戸の牢屋を脱走した高野長英が潜伏していた家の場所を尋ねたところ、誰も知っていなかった。また村田蔵六の住居跡も訪ねたが、ブロック塀に彼の事を簡単に説明したトタンの看板が貼り付けてあるだけで、目立ったものはなく、村田蔵六を何者であるか、知らない人もいた。 | ||||
宇和島を出た後は、もう暗くなってきたので、途中、空地に自動車を止め、近くの銭湯に入った。その後は、コインランドリーで、洗濯をしてから、自動車に戻り、今回は車中泊した。 | ||||
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