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捕物帳に頻出する用語

(注)捕物帳の時代背景など深く理解するため、江戸時代の事を徹底的に知ろうとすると三田村鳶魚の「江戸はなし」をはじめとして、何十冊もの本を読む必要がある。とは言えここでは辞典をつくるわけにもいかず、とりあえず、捕物帳に必要な最小限度の用語とその実態(実際)を現代における誤解なども紹介しながら、皆さんに江戸時代に少しでも、そして歴史に興味を持つ契機になれば、幸いと思いこのページを作成しました。。
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1.小者 2.御用聞き 3.手下と下ッ引
4.江戸町役人 5.町年寄 6.名主と地主
7.家主 8.辻番と自身番 9.町木戸と木戸番屋

1.小者
 町奉行所の同心には、町奉行から給金をもらっている中間1人と、その他に自分で使っていた小者がついていた。捕物で「御用、御用」と言って働くのはこの小者である。小者は、奉行所にかよっていますが(ただし奉行所の門はくぐれず、門番を通して伝言できる程度)、手先とか岡ッ引とかいう、いわゆる御用聞きは通っていない(ご用聞きは全くの非公認の手先であるからだ)。小者は、始終同心について歩き、同心の宅に寝起きしてい場合もも多く、また給金は同心からわずかながらもらっていた。いわば、同心の家来であった。安い給金でも働いたのは、小者になることによって、町の中での顔が利き、何かと付け届けがあり、意外と役得があったからだ。
中間は同心に従っていて、手伝いをすることになっていたが、実際の仕事は小者がやっていた。奉行の暗黙の了解という、いわば半黙認であって、公認の使用人でないため、本来は十手を持つ資格はなかった。しかし、事実上は、便宜上から十手を持っていた。これは十手を与えたのではなく、捕物の手伝いとして臨時に貸し持たせていたという形式で、常に持たせていたのである。不意の探索・捕物に慌てて十手を渡してやるのでは不手際であるので内緒で十手をもたせていたのである。

2.御用聞き
同心に従って歩く小者が非公認・半黙認の手先であるなら、御用聞きは全くの非公認の手先であった。御用聞きとか、岡ッ引というのは、江戸だけでの呼び方で、関東取締役出役(関八州)では目明かし、関西では手先、または口問いと言っている。同心の下働きをする者ですが、その多くは給金を同心からももらっていない。奉行所も知らないものが多い。任命するとかの手続きがなく、ただ使っている同心が手札を渡して置くだけにすぎない。それでも手先とか目明かしとかいう者の古参は大親分になって子分を沢山もっていた。そして自分のついている同心に子分のため手札をもらってやり、手札のあるやつないやつと沢山子分ができると、町役人(ちょうやくにん)でもないのに、町役人以上に私設警察権をもったようになった。その為、子分が威張り散らし、町民にとってやっかいものになるという弊害も少なくなかった。

3.手下と下ッ引
御用聞きの下に働くものを俗に手下・下ッ引といっているが、御用聞きも手下と呼ばれることがあり、この区分は明瞭ではない。しかし、通常は御用聞きの子分を手下と言い、岡ッ引と呼んだときには、その子分を下ッ引と言っている。親分と言われるような御用聞きは、別に職を持っているものが多かったが、下ッ引などは最下層の者が多く、無学の者が多かった。しかし、下ッ引になることで、ある程度お上の威光を振りかざすことができ、本人にとっては名誉な職となり、犯罪率をさげる結果にもなったと思われる。下ッ引や岡ッ引は元犯罪者であった場合も多かったが、同心から見ると、悪は悪を知るで、彼らは、何かとその世界のことも詳しいしルートもあり、捜査には便利であった。


4.江戸町役人
江戸時代の江戸・大坂・京都などの大都市には割合整った自治制が施かれており、町奉行の管理下に置かれていた。公吏的な町役人がいて、上から伝達された行政事務の執行と、ごく軽い公事訴訟の取裁き、祭礼行事、消防、衛生、公費の徴収から、家事審判所的なことまで調停処理した。これらは幕府から俸禄をもらって行うのではなく、格として名誉職として無給で勤めた。これを俗に町役人(ちょうやくにん)といい、武士ではないが、名主であると苗字帯刀をゆるされた
その最上級を町年寄(京都では年寄、大坂では惣年寄、長崎では乙名)といい、次に
地主、また名主(京都では町代、大坂では町年寄)、それから家主で、末端の町内事務は自身番で処理した。
このうち報酬を受けていたのは自身番の書記である番人で、月に一両から一両二分くらいをもらっていた。これは幕府から支払われた金ではなく、町内自弁の給料であった。給料をもらっている番人は町役人ではなく、町の自治制から生じた費用によって賄われた雇い人である。
町役人と町奉行所との繋がりは大変密接で、何かというに掛かり合い人になるのであった。

5.町年寄

町役人の最高位である町年寄は、江戸では3名が定員である。樽屋藤右衛門、奈良屋市右衛門、喜多村彦右衛門で、いずれも家康に従って三河から江戸にやってきた由緒ある家柄である。家格は苗字帯刀・熨斗目の着用が許され世襲であった。町年寄の役は月番制で、当番に当たった町年寄は町奉行所に出頭して、町触れなどを受け取り、これに右之通被仰出と加筆署名して名主に分配するのである。3家とも年頭には扇箱、その他の大礼には進物を将軍に献上して謁をたまわるのであるから、町奉行所与力などよりは格は上である。収入としては、その地代と、年の暮の晦銭や絲割符の権利金が入るので、年に5百両以上になった。慶応4年(1868)には地割役の樽屋三右衛門を加えて4人の町年寄とした。

6.名主と地主

江戸の町は地主によって支配されていたが、その主だったものを名主といった。江戸時代には、町年寄、名主、地主の承認なしには勝手に地所を買って地主になることは出来なかったから、謄記所の役も兼ねていたことになる。他国からの渡り者が金を積んで地所を買う場合はなかなか手続きが面倒で不審な金持ちであると直ちに内偵され、秘めた悪事前歴はすぐあらわれてしまう。また町年寄の申し渡しに服従しないものは、江戸に居住できない規定になていた。
名主にも階級があって、家康入国の頃からの名主を草創(くさわけ)名主といい、次が寛永の頃までの古町名主、それから平名主、門前名主の順である。収入としては町屋敷売買の書類書替料が百両につき2両、礼銀2枚をとることになっており、この他役料がわずかに入ったが、これらは名主によって異なった。
名主・地主は町年寄の下に属して町触れを受取り、これを家主に配布した。名主・地主というのは、一町に1人か2人であるが、中には数町を受け持つ名主もあったごく軽い民事裁判的に処理し、ごく軽い制裁権を持っていた。
地主は町内の費用を負担した。地主の寄合が町会であって、ここで町務を評議した。地主は広い土地を所有しており、表通りには商家を貸し、裏通りには長屋を建てたりして、店子(たなこ)に貸した。こうした地主を居付家主といい町役人である借家人からは旦那として立てられた。借家は時には特定の人に差配させることがあり、これを俗に差配、または家主・大家といった。

7.家主
現在、家主・大家というと貸家の所有者のことであるが、江戸時代では貸家の差配するものを家主・大家と言ったのである。ゆえに家主・大家は地主に雇われているもので、地主の代理人であった。家主はいえぬしと呼ぶのが正しいが、普通はヤヌシと言っている。古くは家守と書いてヤモリといったが、これが最も正確な称呼であろう。この地主から委託されて差配となった雇人は、江戸だけでだいたい2万人はいあたということである。家主は1人の地主に専属しているものと、2、3人の地主の差配を併せて差配するものとあった。
たいていは世襲で勤め、店子に関しては一切の責任と権利を持っていた。軽い犯罪で町名主や町奉行の手を煩わしたくない者や、夫婦喧嘩、仲間喧嘩のさばき位はつけた。店子が町奉行所へ呼ばれる時には、家主は必ず付き添わねばならなかった。そして、その付き添いの日当を店子からとった。本来なら地主所有の店子のことであるから地主が付き添うのであるから地主が付き添うのであるが、煩雑なので地主は面倒臭がるので差配としての家主が代理したのである。
したがって家主は店子の面倒を見るのに忙しく、落語にあるように大家といえば親も同然といわれるような封建的親子関係のつながりがあった。つまり嫁のやりとりにも家主の許可が必要であったし、すべての事に家主を無視した行為は許されなかった。店子が家を借りる時に必要なのは所有者である地主の許可ではなく、差配である大家の承諾であった。

8.辻番と自身番
江戸の市街で町役人の詰める所を自身番といって各町内に一つずつあった。この他に武家屋敷には辻番というものがある。辻番自身番はよく間違えられるが、本質は同じでも、組織と系統が違う。
辻番
武家屋敷の区域であって、その受け持ちは武家である。そして町人を取り締まることができる。ただし処分する決定権はなく、町人は町奉行所に引渡し、武士はその所属する藩や主人に引渡す。
自身番は、町民の住んでいる町内だけであり、町民以下のものを取り締まった。そしてその自身番の置かれている町内のみの自治制のために設けられたのであるが、町奉行所の監督下に置かれた。定町廻同心と密接な関係があるので、往々にして現在の巡査派出所のように思われ、はなはだしいものは岡ッ引のたむろする所と考えている。自身番は町内の町会所兼警防団詰所のような所であり、岡ッ引は町内の自治制には認められていないのが建前であるから、犯人が連行された折に岡ッ引が一緒に入ってくることはあっても、ここが岡ッ引の休息所ではありえないのである。自身番は町役人の詰めるところで、役所の派出所のようなところである。自身番は一町に一ヶ所であるが、町数が増えたので(慶長年間の町数は約3百、明暦年間の町数約5百、天保年間の町数は1,679町)2、3ヶ町で共同の自身番を設けたので、だいたい3百ヶ所程度であった。
自身番はたいてい東西の往来に面し、四辻の南側角にあるのが普通であった。北の角には木戸番屋、そして隣の町との境界の町木戸があった。建物は9尺2間ということに決められているが、実際には狭いので、2間×3間くらいのものがあった。
(自身番の職務と役割)自身番では書役を使って3年間毎に提出する人口統計、町入用の割付の計算、人別帳の整備、奉行所からの書類の受付などをした。ゆえに自身番に立寄る役人は町奉行所の定町廻同心だけでなく、町会所掛り、赦帳選要人別調掛同心、町年寄などがあり、また遠国から尋ねて来る者であった。書役は地主から月に5貫7百文の給料をもらっていた。犯人を一時留置したり、取り調べたり、また夜の警戒をするなどというのが自身番の仕事ではなく、事務上の事が主なのである。もし町内に事件が起き、家主の叱責注意で済まぬ時は、自身番から名主に届け、それでも済まぬ時は町奉行所に届けるのであるが、犯罪の場合は、町奉行所に届けて定町廻同心に来てもらい、犯人を捕らえてもらって、自身番に連行して一応取り調べる。
定町廻同心は受け持ち区域を廻る時は必ず各町の自身番に立寄る。自身番の前に立つと、番人に声をかける。呼ばれると中から、「ハハー
と返事をする。「町内に何事もないか」と聞くと「へエ」と答えるのがしきたりでどの自身番でも同じであった。この時、町内で何かあれば申し立てるのであって、その折は、家主が事情を説明した。犯罪事件であれば、同心は事情聴取の上、犯罪現場に行き、また犯罪人がいなければ、家主を案内させて自身で召捕りに行く。小犯罪であれば小者を派遣して犯人を連行させる。閉じ篭もりなどの手強い相手の場合には、町奉行所に連絡して捕物出役を仰いだ。犯人が連行されると、奥の板の間に入れて家主立会いのもとに取り調べるが、取調べて大した犯罪でない者には説諭の上に釈放し、罪が重そうなら大番屋送りとした。

9.町木戸と木戸番屋
 自身番は町と町の境界にあって、道路の片側であるが、その反対側には木戸番屋があって、その間にある町木戸を管理していた。木戸番は住込みで町の費用から給料が支払われていた。木戸番の勤めは木戸の番と夜警が主で、時には自身番の使走りもした。冬から春にかけては夜4ツ(午後10時)限りで木戸を閉め、その後はそばの潜り戸から出入りさせ、町内の者の出入りに注意した。もし怪しい者が出入りすれば拍子木を打って、次の町の木戸に知らせた。捕物の時には各町内の木戸を閉めたから犯人が遠くへ逃げるということはできなかった。
火事を見つければ、自身番屋の屋根に上って、半鐘を打って町の人々に知らせた。町内または近隣が火事の場合には消化作業をする人々のために木戸番は炊き出しをして握り飯を作ったりして笊(ざる)に入れて運んだ。この際の米や薪の費用は町で持った。
夜は拍子木を打って夜警をしながら時間を告げ、将軍がお成りの日は、金棒を突いて町内に触れ歩いた。夜の勤めが主であるから昼は大抵寝ているが、女房がいると、夏は金魚、冬は焼き芋を置いて入口に置いて売り、また草鞋、団炭、渋団扇などの荒物を売り結構生活ができた。
また木戸番は犯人捕縛の手伝いもするので岡ッ引と同じになり、六尺棒を持ち、楠流の十手といって長さ一尺八寸(約55cm)に四寸(12cm)ほどを藤で巻いた柄のものを持ち、早縄を懐にしていた。

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