このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
明治時代に、東京と名古屋を中部山岳地方経由で結ぶ鉄道・中央線が 開通しました。名古屋付近では途中駅として、金山・千種・大曽根・ 守山・尾張新居・瀬戸・品野・笠原・多治見の各駅が設置されました。
産業革命によって、瀬戸や東濃地方で生産された陶磁器の輸出が 盛んになりました。中央線は、陶磁器製品を瀬戸・東濃から名古屋港 へ運ぶための貨物輸送でにぎわいました。それと同時に、隣接して 交通の便も良い瀬戸と東濃が、県境を越えて一体の陶磁器産地 となって発展し、つながりが強くなりました。
一方、鉄道から取り残された春日井(鳥居松)地方では、大正時代に なってから「春日井電気鉄道」が開通しました。国鉄の大曽根から 上飯田・勝川を通り、国道19号線(旧道)に沿って「鳥居松」までの 路線です。
続いて、上飯田から分岐して犬山までの支線「小牧線」もできました。
「春日井電気鉄道」はさらに大曽根から名古屋都心部延長、国道19号 線に沿って多治見延長を目指しました。ところが戦争が始まって大混乱 になってしまったので、「坂下」までしか開通しませんでした。
戦争中に「春日井電気鉄道」は名古屋鉄道に吸収合併されて、 「名鉄春日井線」「名鉄小牧線」となりました。
戦後の復興期になって、中央線の名古屋近郊区間は複線電化されました。 急勾配のあった品野〜笠原間は、長いトンネルを掘って改良されました。 「尾張新居駅」付近の平地に、「新居電車区」が置かれました。
高度成長に伴い、中央線沿線の瀬戸・品野あたりでも住宅開発が進み、 名古屋への通勤者が多くなりました。瀬戸市周辺部の丘陵地には ニュータウンが次々とできましたが、「瀬戸駅」周辺や市中心部は 古くて狭い街のままで、交通渋滞がひどくなりました。
中央線には振り子電車を使った特急「しなの」が運転されましたが、 瀬戸には停車せず千種〜多治見ノンストップでした。 その代わり快速電車が設定され、名古屋から千種・大曽根・瀬戸・ 多治見以東各駅に停車するようになりました。
ローカル線に過ぎなかった「名鉄春日井線・小牧線」は、大曽根から 名古屋市営地下鉄に乗り入れて都心部へ直通するようになり、こちら も大都市近郊通勤路線への変身を果たしました。
大学が郊外へ移転する傾向が強まり、中央線沿線の品野にはキリスト教 系私立大学が移転してきました。この大学は山奥に造られましたが、 中央線の「品野駅」からスクールバスが走り、名古屋方面・東濃方面 からの通学は便利でした。
「名鉄春日井線」沿線でも負けじと、「出川駅」付近の小山に私立 工業大学を誘致しました。名古屋方面からの通学は電車で便利でした が、距離的に近い多治見方面からは鉄道が通じておらず不便でした。
1980年代、国鉄分割民営化騒動のさなかに、中央線沿線の瀬戸と 「名鉄春日井線」沿線を結ぶ「愛知環状鉄道」が、第3セクターで 開業しました。
20世紀の末になって、名古屋東部の丘陵地はほとんど開発し尽くされ、 自然の森林が残っているのは愛岐丘陵に連なる高蔵寺付近だけに なってしまいました。愛知県では、開発の遅れた春日井地方を活性化 するため、高蔵寺の森を切り開いて「21世紀万博」の開催を計画 しました。「名鉄春日井線」と「愛知環状鉄道」が、会場へのアクセス として予定されました。
ところが、「名古屋近郊に残された貴重な里山である高蔵寺の森を 守れ!」「自然破壊の大規模公共事業反対!」という意見が、地元 からも世界からも押し寄せて来ました。結局、高蔵寺の森は「万博」 用地として使われないことになり、自然が残りました。
おしまい。
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |