このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

天霧山麓の天神さん


 
幼い頃から天神さんの呼称で慣れ親しんできた天神様だが、よくみると「大山都美神」と刻まれている。
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それなのになぜ天神さんなのか? 「菅公祝一千年」の記念碑は一段下に建っている。
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正面の祠に祀られているのは何であるのか? この配置なら主祭神は「大山都美神」と思われる。

鳥居の下から見上げても、正面には「大山都美神」碑が見えるが、菅公一千年碑は見えない。
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今は自然に帰っているが、天神さんの下のこの道がまっすぐ石切り場へ通じていた。
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以上から想像すると、おそらく
石切場では山肌を刻み、山の石を切り出していたことから、山の怒りを畏れて「山の神」を鎮めるために、登り口に「山の神」をお祀りしたのではなかろうか。
「古事記」を見ると、天地創造神話で、伊邪那岐(いざなき)神と伊邪那美(いざなみ)神が結婚して日本の島々を産み、その後続いて「自然物」の神を次々と産んでいくが、その中に、「・・・次に海の神、名は大綿津見神(おおわたつみのかみ)を生み、・・・次に山の神、名は大山津見神(おおやまつみのかみ)を生み、・・・」と書かれている。
ちなみに万葉仮名では「つ」は「都・津」等を当て、「み」には「見・美」等を当てるから、「大山津見神」と「大山都美神」とは同義である。また「つ」は「沖津白波」の例のように「沖の白波」という意味で、「み」は「御霊(みたま)」を意味し、「おおやまつみのかみ」とは「大いなる山の御霊の神」という意味である。

それがなぜ「天神さん」と呼ばれるようになったのか。
「菅公祝一千年」の碑が建っているから菅原道真公をお祀りしている(=天神様)ことも事実である。しかし菅公の碑を一段下に配置していることや、2組ある注連縄の柱石のうち1対は菅公1千年紀の明治35年頃に建てられていることからみて、菅公一千年紀を祝して記念碑をどこかへ建てることになり、この山の神に菅公を合祀したのではなかろうか。それ以来、ここは天神さんと呼ばれるようになったのではあるまいか。


<古事記>
−「古事記」(倉野憲司校注、S38.1.16初版,岩波書店)より−




小正月の1月15日にはあちこちで「とんど」が焚かれているが、ここ天神さんも毎年 とんど の場所となっている。


天神様の刻字


鳥居の建設は 安藤喜藤太・利藤太 が寄進者か。

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