このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

吉原町のみちしるべ


<順序No.="カ">東西神社参道入り口

史跡案内の道標がある。

(■:判読不能、字:判読難または埋没のため推定。刻字は右から左へ読む。指差しマークや仏像マークは記号として扱い、形状の違いは無視した。他地区にあるような手の平マークは吉原にはなかった。)


 

右面


十五丁石のため、面の凹凸が多く、右面の小さな字は判読不能だが、強引・無理矢理読もうとすれば、上図の黒字のように推定される。
もし「癸未(みずのと・ひつじ)」が正しく読めているとすれば、60年に一度しか廻ってこないので建立年がかなり限定される。近年の「癸未」は次のとおり;

宝暦13年(1763)
文政 6年(1823)
明治16年(1883)
昭和18年(1943)


石の風化度合いからみて、文政6年か明治16年ぐらいに建てられたものであろうか? 施主の行に「丁」の字が見えるが、これは「町」の断片か、それとも「野」の断片か? もし「町」の断片なら、明治時代の都会(大阪など)の講中か?
「北」のように見えるのは「柴」の断片の可能性もある。その上は「原」か? 徳島県に「脇町川原柴」と言う地名があるが、脇町が町村制施行により町になったのは1889年のようだから、明治16年にはまだ町ではない。
「癸未」の上の文字を更に強引に読むとすれば「・六年癸未」かもしれない。しかしその上は「文政」なのか「明治十」なのかさっぱり見当がつかない。あるいはもっと乱暴に読めば上図の青字のようになるかもしれない。





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