このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
陰陽道のスーパースターとして語られることの多い安倍晴明。
でも、歴史的事実を紐解いていくと、そこには安倍晴明の知られざる事実が・・・
ここでは、そのあたりを少し検証してみましょう。
師匠の実績を自分の手柄と吹聴したのか?
1002年に成立した法制書「政事要略」というものがあります。
この「政事要略」には次のような記述があります。
「960年、内裏の火災で邪気をはらう霊剣が焼けてしまった。
この剣を元に戻すよう村上天皇に言われ、見事果たしたというエピソードを晴明が語った。」
この頃の晴明は40歳手前、当時の晴明はまだ陰陽寮入りを目指す一介の研修生でした。
ということは、勅命を受ける立場ではないのです。
天皇の日記も、賀茂保憲(晴明の師匠)に命じたとなっているそうです。
民衆の年間行事を広めたのは自分だと吹聴したのか?
同じく「政事要略」の記述ですが、
「大みそかに宮中で悪鬼を払う追儺(ついな)を一般に広めたのは自分だと語った。」
宮中の追儺が中止になった年、晴明が自宅でおこなったのを、都人たちがならったと語った
そうです。
ですが、実際はこれ以前より、民衆は自宅の追儺をおこなっていたとされています。
朝廷との約束をすっぽかし、始末書を書かされたのか?
右大臣・藤原実資の日記「小右記」に次のような記述が残されています。
「晴明は、一条天皇に降りかかる災いを防ぐ払いをすっぽかし、始末書を書かされた。」
晴明は、遅咲きの陰陽師でした。
陰陽寮の天文博士としての記録が残るのは51歳からだそうです。
そして、陰陽師の第一人者とされるのは、60歳すぎだったそうです。
当時、60歳というのは驚異的な年齢で、その歳まで活躍したことで、晴明は神秘的な存在に
思われていたのかもしれません。
しかし、晴明は陰陽師としての実力はさすがに高く評価されたらしく、前述の「政事要略」も
晴明を「陰陽の達人」と評価しています。
また、一条天皇の病気を治したとする資料もあり、やはり晴明は実績で「陰陽道の傑出者」と
認識させたのでしょう。
安倍晴明は、寛弘2年9月26日、85歳で亡くなりました。
晴明の墓は、他にも何ヶ所か伝承がありますが、墓石が残っているのはここだけです。
この場所は、
晴明神社
が所有され、晴明神社の飛地境内として管理されておられます。
晴明神社は多くの晴明ファンで賑わっていますが、この晴明の墓は住宅地にひっそりとあり、
訪れる人もめったにいません。
さすがに、ご存知の方は少ないのでしょうか。
安倍晴明の墓(あべのせいめいのはか)
京都市右京区嵯峨角倉町
安倍晴明の墓
(墓石には晴明桔梗が刻まれている)
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