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幕末の背景

嘉永6(1853)年6月3日、浦賀にペリー率いる黒船が来航する。
ペリーはフィルモア米大統領の国書を幕府に渡す。
しかし幕府は返書に関して、諾否を明答せずに退去させるという方針を決定する。

翌年、再びペリーが来航、幕府は米国艦隊の軍事力を恐れ、朝廷の許可を得ることなく
日米和親条約に調印する。

その2年後には、さらに日米修好通商条約(不平等条約)に朝廷の許可を得ることなく
調印する。

これらの経緯で経済は混乱状態に陥り、日頃から幕府の古い体制に反感を持っていた
倒幕派志士たちの不満は日増しに高まり、全国で血なまぐさい暗殺事件が相次ぐようになる。

そうした中、京都では治安の維持を京都所司代・西町奉行所・東町奉行所が担当していた。

幕末に活躍した有名人に坂本龍馬がいる。
坂本は土佐藩士で、剣術修行のために、江戸の北辰一刀流の千葉道場に入門していた。
坂本はそこで黒船来航という、当時の日本を揺るがせた大事件に遭遇する。

その後、坂本は土佐藩を脱藩し、日本をひとつの国家として視野に入れ、グローバルな
活動を展開していくことになる。

京都所司代跡

京都所司代上屋敷跡(きょうとしょしだいかみやしきあと)

京都市上京区猪熊通丸太町下ル

西町奉行所跡

西町奉行所跡(にしまちぶぎょうしょあと)

東町奉行所跡

東町奉行所跡(ひがしまちぶぎょうしょあと)

所司代屋敷は二条城北一帯の広大な敷地を持ち、上屋敷・堀川屋敷・千本屋敷などからなる。
この石標は所司代屋敷の跡を示すものである。
寛文8(1668)年京都町奉行が創設され、京都所司代等の司法・行政の権限が委譲された。
町奉行所は東西に分けられ隔月交代で任務を担当した。
東町奉行所は京都代官奉行だった五味備前守屋敷(神泉苑西隣)の地に建てられた。
この石標はその跡を示すものである。
京都市中京区西ノ京職司町
寛文8(1668)年京都町奉行が創設され、京都所司代等の司法・行政の権限が委譲された。
町奉行所は東西に分けられ隔月交代で任務を担当した。
西町奉行所は千本通二条城西側に建てられた。 この石標はその跡を示すものである。
京都市中京区西ノ京北聖町

所司代の名称・役職は、室町幕府の侍所(さむらいどころ)にはじまり徳川幕府にうけつがれた。
徳川時代の所司代は関ヶ原合戦直後に設けられ、皇室・公家の監視、京都諸役人の統率、
京都町方の取り締まり、さらに近畿八か国の訴訟処理、西国三十三か国の大名の動静監視など
強い権限をもつもので幕府の老中につぐ最重要役職であった。

文久2(1862)年、京都守護職が設けられると所司代はその管轄下に属し、王政復古によって
廃止された。

奉行所は、奉行のもとに与力(よりき)・同心(どうしん)と呼ばれる職員をもち、京都の市政一般、
すなわち行政、司法、警察全般を担当し、さらに畿内幕府領の租税徴収や寺社領の訴訟処理
にも当たった幕府の役所で、西町奉行所と隔月交代で任についた。
しかし、両奉行所それぞれ与力20騎、同心50人で職員の数は少なく、各町の自治組織を利用して
市政に当たった。

京都町奉行所が初めて置かれたのは慶長5(1600)年。 寛文8(1668)からは常置の職となって
幕末にいたった。

所司代屋敷址(しょしだいやしきあと)

京都市上京区丸太町通大宮東入南側

所司代屋敷址

その後の探索でわかったこと

ペリーがアメリカからはるばる日本を訪れ開国を迫ったのは、捕鯨の拠点となる港を確保
したいという思惑があったという説があります。

ペリーは浦賀のみならず、新潟や函館など水のきれいな港の開港を要求しています。

ペリーは、当時日本に在住だったオランダ人医師・シーボルトと文通を行い、
日本の情勢について積極的に調査していたそうです。

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