このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

和宮降嫁

和宮親子(かずのみやちかこ)内親王は、弘化3(1846)年閏5月に、仁孝天皇第8皇女として
生まれた。

孝明天皇は、16歳年上の腹違いの兄である。

仁孝天皇は和宮の生まれる直前に病気で亡くなっており、孝明天皇は兄というより、父に近い
存在だった。

和宮が6歳の時、11歳年上の有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王と婚約し、
以来、和歌や書や学問を有栖川宮家で学んだ。

しかし、2人の婚礼が近づいた和宮が14歳を迎える頃、突然ふってわいたのが、14代将軍・
徳川家茂への降嫁の話であった。

この頃の政治情勢は黒船来航に伴う混乱期であり、尊皇攘夷思想家が暗躍していた。

幕府の大老に就任していた井伊直弼は、徳川単独政権を維持しようと、朝廷の反対を
押し切って強引に諸外国との通商条約を締結し、また将軍継嗣問題での反対派や、
尊皇攘夷思想家たちの処罰を断行した。(安政の大獄)

しかし、結局は井伊直弼も江戸城桜田門外で、水戸浪士らの手によって暗殺されてしまう。

その後、幕府では、尊皇攘夷派の力を殺ぎ、失墜した幕府の権力を回復するためには、
朝廷と融和を図る「公武合体」、つまり朝廷と将軍家との政略結婚が不可欠と考えられるように
なった。

万延元(1860)年4月、和宮降嫁の話は老中・久世広周、安藤信正らによって正式に奏上された。

孝明天皇と和宮は、この申し出を拒絶した。
しかし、幕府はあきらめず、再三にわたり圧力をかけてくる。
だが、孝明天皇の降嫁は不可という姿勢は固かった。
関白・九条尚忠に「幕府がどうしてもというのなら、和宮の代わりに昨年生まれた自分の娘・
寿万宮(すまのみや)を江戸へ送る。 それがいやなら退位する。」とまで言っている。

和宮は、そこまで自分をかばってくれる天皇を思い、いやでも承知せざるを得なかった。

また、侍従・岩倉具視は朝廷の権威を借りて尊皇攘夷派の押さえ込みと、幕府の権力の回復を
図るという幕府側の意図を見抜き、それを逆手にとって、攘夷の実行や朝廷抜きで国政の重要事
が決定されないような条件をつけて降嫁を認めるよう天皇を説得し、ようやく、その条件をつけての
降嫁が認められた。

このようにして降嫁の準備は整い、文久元(1861)年10月20日、和宮の行列は中山道を江戸へ
向かった。

行列は幕府からのお迎えをはじめ、道路や宿場の整備や準備、警備の者たちも含めると
総勢20万人という大変な規模になった。

また、和宮奪還を図る降嫁反対派から和宮を護るため、庄屋の娘3人が影武者となって同行した。

同年11月15日、無事に九段の清水邸に入った和宮は、1ヶ月後に江戸城に入り、
翌年2月11日、家茂との盛大な祝言が執り行われた。

しかし、それから4年後の慶応2(1866)年7月、家茂は第2次長州征伐のさなか、大坂城で
20年の短い生涯を閉じた。

和宮の降嫁もむなしく、公武合体は失敗に終わったのである。

家茂と和宮は、ほんの短い結婚生活であったが、仲むつまじい夫婦であったという。

家茂亡き後、和宮は王政復古の際には15代将軍・徳川慶喜の助命を嘆願し、徳川の家名存続に
尽力した。

明治10(1877)年9月2日、和宮は病気療養中の箱根で帰らぬ人となった。
その亡骸は、「将軍のおそばに」という遺言どおり、東京 芝・増上寺の家茂の隣に葬られている。

その後の探索でわかったこと

和宮降嫁は、幕府からの要望で朝廷側がしぶしぶ応じたと解釈されていますが、
もしかすると、朝廷側にとっても「渡りに船」の話だったのかもしれません。

和宮は、「ひのえうま」の年に生まれたそうで、(ひのえうまの女性が嫁ぐと、嫁いだ家は
男性が早く亡くなり、家が絶えるといわれていた)和宮出生の際、朝廷も困ったのでは
ないでしょうか。

その根拠として和宮の年齢は、実年齢より3歳若くごまかされていたという事実があります。

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