このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

応仁の乱のかなり以前から幕府中枢の内紛が絶えず、政治情勢は混沌としていた。

内紛は将軍を補佐する管領家畠山・斯波両氏の家督争いを契機とし、管領家の
細川勝元と四職の一つである山名宗全の権力争いがからんで、ますます事態は深刻化
していった。

この情勢の下にあって室町八代将軍足利義政は、将軍という面倒な職を退き、
権力を握りながら自由な遊びにふけろうとして、寛正5(1464)年には、固辞する弟の義視を
無理やり九代将軍に据えようとし、その後見人細川勝元を指名した。
ところが皮肉なことにその翌年義政の正室日野富子が義尚という男子を出産した。

このようなことは、後の豊臣秀吉の場合に例があるが、秀吉がいったん後継者と決めた
甥の秀次をあえて死に追いやったように、義政は義視を死に追いやるどころか、将軍の
候補者から外そうともしなかった。

富子は我が子を将軍とするべく勝元に敵対する宗全に後見を依頼したために家督争いは
ついに将軍家にも及ぶことになった。

細川方と山名方の抗争は応仁元(1467)年の正月18日に御霊神社の境内にこもる畠山政長を
畠山義就が襲撃したことから始まった。
前者には勝元が、後者には宗全が後援し、各地の守護大名がそれぞれに呼応して戦乱は
京都から地方へと波及した。

794年(延暦13)崇道天皇を祭ったのが始まり。
その後仁明、清和天皇時代をへて7柱が合祀され、
863年(貞観5)悪疫退散の御霊会が勅命で催された。
国家、皇居、都民守護の社として朝野の崇敬を集めた。
なお境内の‘御霊の森’は応仁の乱の発端となった地。
5月18日の祭日は鉾、神輿、御車の行列がある。
建立:794(延暦13)年
御利益:鎮霊(こころしずめ)の社:こころしずめの御守授与
厄除開運、学業成就

京都市上京区上御霊前通烏丸東入
応仁の乱は、ただ人間たちが権力の欲望によって争いあい、殺し合い、そのため京都は
ほとんど焼け野原と化し6〜700年もの間、積み重ねられた文化財が失われ、数万人あるいは
数十万人にも及ぶ人間がむなしく死んだ。

本殿

舟岡山は、丹波からの街道が長坂を通り洛中に入る所にあるためしばしば戦場となった。
応仁の乱(1467〜77)では西軍が城砦を築き、応仁2(1468)年に城砦にいた一色義直・
山名教之らを東軍の細川勝元(1430〜73)が能成寺口・安居院口・紫野の三方より攻め落とした。
永正8(1511)年、細川澄元(1489〜1520)が城を築き、丹波から入京しようとした足利義尹・
細川高国・大内義興らの軍を迎え撃ったが、城は落とされ澄元は摂津に敗走した。
この石標は、応仁・永正戦の地である舟岡山を示すものである。 国指定史跡。
京都市北区紫野北舟岡町
京都には西陣という地名があるが、西陣の地名は応仁の乱の際、
西軍方の陣が敷かれたことに由来する。
平安時代にはこの地に織部司がおかれ、中世にはその流れを汲む大舎人座が
機業に携わっていた。
応仁の乱で織工は一時疎開していたが乱後再び復興した。
近世以降、西陣織の生産地として日本を代表する高級織物業の中心地となり現在に至る。
東は堀川通、西は七本松通、北は今宮神社御旅所、南は一条通または中立売通で囲む
一帯を西陣と呼ぶ。
この石標は西陣の由来を記すものである
京都市上京区今出川通大宮東入北側
これらの石標は西の陣、山名邸跡を示すものである。
なお、この地は山名町という町で、この邸宅に因むものである。
京都市上京区堀川通上立売下る一筋目西入北側
京都市上京区堀川通上立売下る一筋目北西角
応仁の乱では、両軍あわせて27万余の兵力を動員し、堀川をはさんで両軍は対陣した。
その位置から細川方を東軍、山名方を西軍と呼んだ。
乱の当初こそは激戦が展開されたが、やがて戦線は膠着状態となり、
両軍の総大将の勝元と宗全が相次いで死去したため、両軍の大名は戦意を失って
領国に帰還していった。 
応仁の乱は、勃発から収束まで11年間という大乱だった。

下剋上の風潮が確実に強まり、乱後に守護大名は没落して戦国大名にその席を譲り、
世は戦国時代へと移っていく。

京都市上京区小川通寺之内

応仁元(1467)年、応仁の乱最初の大合戦にさいし、小川(こかわ)に架かるこの橋には
細川勝元配下の三宅・吹田・茨木・芥川氏など摂津の武将が布陣し、山名方の平賀氏と
激しく戦った。
ここから南の方、一条戻り橋付近までがその時の主戦場となり、付近一帯が戦火で焼失した。

なお、当時は木製の橋だったが、明治40(1907)年に石製の橋に架け替えられた。
昭和38(1963)年に小川が埋められ、貴重な遺構として礎石が当時の場所のまま遺された。

京都市西京区大枝北福西町 
京都市洛西竹林公園内

実は、石製百々橋は現存しています。

百々橋は、小川が埋められた昭和38(1963)年に解体されましたが、室町小学校で保管され、
昭和50(1975)年に京都市洛西竹林公園内に移築されました。

御霊神社(ごりょうじんじゃ)
(通称:上御霊神社 かみごりょうじんじゃ)

山名宗全旧蹟(やまなそうぜんきゅうせき)

山名宗全邸址(やまなそうぜんていあと)

西陣碑(にしじんひ)

船岡山(ふなおかやま)

百々橋(どどばし)の礎石

百々橋(どどばし)

御霊神社
本殿
応仁の乱勃発地
山名宗全旧蹟
山名宗全邸址
西陣碑
船岡山
応仁永正戦跡
百々橋の礎石
百々橋

その後の探索でわかったこと

応仁の乱において戦場となった船岡山ですが、船岡山は、標高45メートル、周囲1300メートル、
面積25000坪の小山で、その東南側には織田信長を祀る 建勲神社 があります。

船岡山は、豊臣秀吉が信長の霊地と指定したことから、この頃より自然がそのまま残され、
京都盆地特有の樹相がよく保たれています。

船岡山は聖徳太子の文献にも、その名が出ており、また京都に都が遷都された際、中国の
陰陽五行思想、風水思想に基づいて、龍気みなぎる地形であり、大地の気がほとばしり、
溢れ出る玄武の小山であるとトせられ、平安京の北の起点となり、ここから朱雀大路が南に
一直線に延ばされたといわれています。

平安時代には、清少納言が「枕草子」で、「丘は船岡・・・」と讃えました。

また船岡山には、応仁の乱の時の陣跡が現在でも残っています。

応仁の乱の陣跡
応仁の乱の陣跡

応仁の乱の陣跡(この溝のようなところがそうらしい)

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください