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応仁の乱のかなり以前から幕府中枢の内紛が絶えず、政治情勢は混沌としていた。
内紛は将軍を補佐する管領家畠山・斯波両氏の家督争いを契機とし、管領家の
細川勝元と四職の一つである山名宗全の権力争いがからんで、ますます事態は深刻化
していった。
この情勢の下にあって室町八代将軍足利義政は、将軍という面倒な職を退き、
権力を握りながら自由な遊びにふけろうとして、寛正5(1464)年には、固辞する弟の義視を
無理やり九代将軍に据えようとし、その後見人細川勝元を指名した。
ところが皮肉なことにその翌年義政の正室日野富子が義尚という男子を出産した。
このようなことは、後の豊臣秀吉の場合に例があるが、秀吉がいったん後継者と決めた
甥の秀次をあえて死に追いやったように、義政は義視を死に追いやるどころか、将軍の
候補者から外そうともしなかった。
富子は我が子を将軍とするべく勝元に敵対する宗全に後見を依頼したために家督争いは
ついに将軍家にも及ぶことになった。
細川方と山名方の抗争は応仁元(1467)年の正月18日に御霊神社の境内にこもる畠山政長を
畠山義就が襲撃したことから始まった。
前者には勝元が、後者には宗全が後援し、各地の守護大名がそれぞれに呼応して戦乱は
京都から地方へと波及した。
794年(延暦13)崇道天皇を祭ったのが始まり。
その後仁明、清和天皇時代をへて7柱が合祀され、
863年(貞観5)悪疫退散の御霊会が勅命で催された。
国家、皇居、都民守護の社として朝野の崇敬を集めた。
なお境内の‘御霊の森’は応仁の乱の発端となった地。
5月18日の祭日は鉾、神輿、御車の行列がある。
建立:794(延暦13)年
御利益:鎮霊(こころしずめ)の社:こころしずめの御守授与
厄除開運、学業成就
本殿
京都市上京区小川通寺之内
応仁元(1467)年、応仁の乱最初の大合戦にさいし、小川(こかわ)に架かるこの橋には
細川勝元配下の三宅・吹田・茨木・芥川氏など摂津の武将が布陣し、山名方の平賀氏と
激しく戦った。
ここから南の方、一条戻り橋付近までがその時の主戦場となり、付近一帯が戦火で焼失した。
なお、当時は木製の橋だったが、明治40(1907)年に石製の橋に架け替えられた。
昭和38(1963)年に小川が埋められ、貴重な遺構として礎石が当時の場所のまま遺された。
京都市西京区大枝北福西町
京都市洛西竹林公園内
実は、石製百々橋は現存しています。
百々橋は、小川が埋められた昭和38(1963)年に解体されましたが、室町小学校で保管され、
昭和50(1975)年に京都市洛西竹林公園内に移築されました。
御霊神社(ごりょうじんじゃ)
(通称:上御霊神社 かみごりょうじんじゃ)
山名宗全旧蹟(やまなそうぜんきゅうせき)
山名宗全邸址(やまなそうぜんていあと)
西陣碑(にしじんひ)
船岡山(ふなおかやま)
百々橋(どどばし)の礎石
百々橋(どどばし)
その後の探索でわかったこと
応仁の乱において戦場となった船岡山ですが、船岡山は、標高45メートル、周囲1300メートル、
面積25000坪の小山で、その東南側には織田信長を祀る
建勲神社
があります。
船岡山は、豊臣秀吉が信長の霊地と指定したことから、この頃より自然がそのまま残され、
京都盆地特有の樹相がよく保たれています。
船岡山は聖徳太子の文献にも、その名が出ており、また京都に都が遷都された際、中国の
陰陽五行思想、風水思想に基づいて、龍気みなぎる地形であり、大地の気がほとばしり、
溢れ出る玄武の小山であるとトせられ、平安京の北の起点となり、ここから朱雀大路が南に
一直線に延ばされたといわれています。
平安時代には、清少納言が「枕草子」で、「丘は船岡・・・」と讃えました。
また船岡山には、応仁の乱の時の陣跡が現在でも残っています。
応仁の乱の陣跡(この溝のようなところがそうらしい)
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