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芹沢鴨の新選組

新選組についての書籍を見ると、芹沢鴨はまるで「悪の代表」のように書かれていることが
多いように思います。

芹沢って本当にそんなに悪い人だったの?

僕は芹沢が好きです。 芹沢の評価を高めたい。

そんな訳でこのページ、「芹沢鴨の新選組」。

これで皆さんの芹沢の評価が少しでも高まればいいな。

その1 芹沢鴨の名前の由来

芹沢鴨・・・、おもしろい名前ですよね。 でも、これは本名ではありません。

芹沢の本名は、下村 継次(しもむら つぐじ)といいます。
水戸藩の郷士出身といわれていますが、水戸藩の神職出身との見方が最近では有力だ
そうです。

芹沢は、常陸国芹沢村の出身なので、村の名前を採って芹沢鴨と名乗ったという説が
ありますが・・・

芹沢は、かつて同志3人を斬り殺してしまい、江戸に送られ投獄されてしまいます。
獄中で芹沢は、小指を噛み切り、流れ出る血で辞世の句を残しています。
おそらく芹沢は処刑されると思っていたのでしょう。 ところが・・・

清河八郎が浪士組結成の建白書を幕府に提出するのです。
そこには、「身分を問わず優れた人材を・・・・」とあり、さらに、「浪士募集にあたっては
恩赦をもって・・・」とあります。

清河自身、かつて幕府の探索方を斬ってしまった経歴があり、その後、清河の同志たちが
幕府によって捕らわれるという事件がありました。

清河は、同志を獄中から救い出し、さらに自らの罪も帳消しにするという意図があったと
思われます。

この建白書は幕府に採用され、罪人たちが牢獄から解放されることになりました。

芹沢もこの時、獄中から解放されたのです。

また、芹沢の身体は梅毒に侵されていました。
梅毒は病状が進行すると、耳や鼻が顔からとれてしまう怖い病気です。

その恐怖心から逃れるために、あんなに酒をあおったともいわれています。

「死を覚悟していたのに、突然解放されても・・・、
しかも、どうせ梅毒なんだし、俺なんて、もうどうでもいいや」
と芹沢は思ったのではないでしょうか。

芹沢は、一度捨てた命をどうすることもできず、 浪士組に死に場所を求めたのではないでしょうか。

というのは、「芹沢鴨」という名前は、どうもふざけて考えたように思えるからです。

鴨と葱を一緒に煮込んで食べると美味なことから、
「複数のものが同時に手に入る」様を「鴨が葱をしょって来たみたいだ」などと言い表されますが、
この食べ方、江戸の方では、「鴨と芹」を一緒に煮込むそうです。

芹は、沼地で栽培されていると思うのですが、江戸のあたりには、
「芹畑で寝ている鴨が、ぐつぐつ茹でられている夢をみた」という川柳があるそうです。
やっぱり江戸では、このようにして食べていたのですね。

つまり、「水辺で栽培している芹を鴨と一緒に煮込んで食べると美味」というのが、
「芹沢鴨」の名前の由来の真相ではないでしょうか!

その2 だんだらの羽織を発注した隊士は誰か?

新選組のトレードマークともいえる「だんだら模様の羽織」。

この羽織は「大丸呉服店」に発注されました。

大丸呉服店というのは、京都の老舗百貨店・「大丸百貨店」の前身です。

さて、このだんだらの羽織を大丸呉服店に発注したのは誰なのでしょう? 
また、なぜ選ばれたのが大丸呉服店だったのでしょう?

だんだらの羽織の仕立てを大丸呉服店に発注したのは、もしかすると芹沢なのかもしれません。
それは・・・

芹沢の本名は、その1で述べたとおり、下村継次です。

大丸の創業者の名前は、これまた「下村さん」なのです。

もしかすると芹沢は、「あ、俺と同じ名前の店がある。 ここにしよう」とばかりに大丸呉服店に
だんだらの羽織を発注したのかもしれません!

その3 やっぱり頼りになる芹沢鴨

8・18の政変において、京都守護職より壬生浪士組にも御所警備の出動要請が出されます。

しかし、まだまだ無名の壬生浪士組、御所の門前で抜き身の槍を持った会津藩士たちに
刃先を突きつけられてしまいます。

近藤などは、ビビってしまって2・3歩後ろへ下がったといわれています。

ところが、芹沢は臆することなく、「我等は会津肥後守様御預かりの壬生浪士組である」
と一喝し、愛用の1キロもある鉄扇で会津藩士たちが自分たちに向けている槍の刃先を
はたいていったといいます。

「肥後守様といえば、我等の殿ではないか」ということで、会津藩公用方は京都守護職本陣へ
確認に走ります。

すると、京都守護職から、「確かに壬生浪士組へ出動要請をした」との返答が・・・

そうなると、もう「どうぞ、こちらへ!」とばかりに壬生浪士組は案内され、会津藩の袖章が
支給されたといわれています。

壬生浪士組は、隊列を整え、立派に役割を果たし、その活躍が評価され、会津藩の
取次ぎがあったとは思いますが、武家伝奏より「新選組」の隊名が与えられました。

ただし、公式文書をもって辞令が出たわけではありません。
口頭で「しんせんぐみ」といわれたわけです。

このことが、近年になって、「新選組」か「新撰組」かという討論を呼ぶ結果となったのでしょう。

きっと壬生浪士組は、隊名をもらえただけで天にも昇るようなうれしさだったことでしょう。

「選」か「撰」かなんて気にしていなかったと思います。

ところで芹沢は、剣の腕は立つ、頭はいい、正に文武両道の逸材なのです。

あの清河八郎でさえ、「芹沢先生」と呼んだほどですから、芹沢の影響力たるや、
カリスマといっても過言ではないのかもしれません!

その4 隊旗に「誠」の文字を採用した隊士は誰か?

「誠」というのは、武士道の中で、「言」と「成」からなり、孔子の中庸の教えです。

これは、「意識的に動かすことなく相手を変化させ、また意識的に働きかけることなく、
みずからの目的を達成する力」だそうです。

「誠」は、「知行一致」、「有言実行」、つまり、「言うこととやることが一致していなければ
ならない」ということで、水戸学の教えでもあります。

水戸学の教えというのは簡単に説明すると、「天皇を尊び幕府を敬う」です。

つまり、「天皇は尊ばなければならない。 幕府というのは天皇から与えられた役職で
あるため、幕府を敬うことは、そのまま天皇を尊ぶことに繋がる」といったもので、
儒学、国学、神道の思想哲学からなっています。

この水戸学の影響で、殉死した新選組の隊士はすべて神道で葬られました。

そのため、戒名というものはなく、墓石にもいわゆる俗名のままで名前が刻まれています。

新選組に水戸学の影響を与えたのは誰か?

水戸藩出身といえば、芹沢ですね。

近藤は京都守護職より、芹沢の処分を命じられます。

困った近藤は、幹部を集めて芹沢の処分について相談します。

二番隊隊長・永倉は、「浪士文久報国記事」という手記のなかで、
「芹沢鴨は新選組を創立した本人であり、まさか召し捕って差し出すわけにもいかず、
しばらくの間は一部屋に謹慎させておく以外にないだろうと相談した」と書いています。

芹沢は、新選組の結成において、やはり誰よりも影響力が大きかったのではないでしょうか!

その5 芹沢はなぜ「大和屋打ち壊し事件」を起こしたのか?

大和屋庄兵衛は生糸問屋で、和物・絹糸・縮緬などを買い占め、外国との交易によって財を
成したといわれています。

さらに大和屋は朝廷や天誅組へ多額の献金をしていたと伝えられており、これを聞きつけた
芹沢が文久3年8月12日に借金を申し込んだところ断られました。

断ったのは庄兵衛ではなく、向かいの西側の大和屋仙之介であったともいいます。

芹沢は同夜に両家の土蔵を焼き討ちしました。

そして、翌日の午前9時ごろになると、西陣の糸屋や織物屋が押しかけ、庄兵衛宅を
破壊しはじめたといいます。

大和屋は買い占めをおこなっていたため、どうやら関係業者から憎まれていたようです。

さて、この年、6月3日に、大坂で新選組と力士が乱闘になるという事件がありました。

この事件は、後に和解となりますが、その際、京坂合併の相撲興行をおこなう約束が
交わされました。

この相撲興行は、8月7日より祇園北林において、新選組立会いのもと実施されます。

8月12日には祇園から壬生へ場所を移し開催されました。

この日は先に述べた「大和屋打ち壊し事件」が起った日です。

近藤たちは観客をよぶために周囲に張り紙をして宣伝に回っていました。
芹沢が、こんな事件を起こすとは思っていなかったことでしょう。

永倉は、「芹沢は興行の後に力士たちに何かご馳走したかったが金がないので、
壬生寺の池で魚をとって力士たちに振舞った」と語っています。

芹沢が大和屋へ借金の申し込みに行ったのは、もしかすると力士たちへのご馳走代を
工面しようとしていたのかもしれません!

結果的にこの「大和屋打ち壊し事件」が朝廷サイドの怒りを呼び、朝廷が京都守護職へ
芹沢処分の沙汰を下します。

そして、京都守護職が近藤へ芹沢処分の命令を下すことになるのです。

さて、どうでしたか?

ここに記載したエピソードは確実な証拠があるわけではありません。

でも、やっぱり気になる存在ですよね。 「芹沢鴨」。

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