このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

幕末の背景を知る手がかりとなる「尊皇攘夷」について補足します。

このあたりを理解していないと、幕末史はとても複雑になるからです。

ここでは、ちょっと詳細に触れることにします。

これを読んで理解を深めれば、この「新選組探索」がさらにおもしろくなると思いますよ。

尊皇思想の起りは、水戸藩・水戸光圀(みとみつくに・お茶の間では、水戸黄門として有名ですね)の
「大日本史」編纂事業によって形成された。

これは、水戸藩にある水戸学(天皇を尊び、封建社会を確立することを説く。 中国伝来の朱子学から
生まれた「すべての行いは国を治める大君のため」という大義名分論や、国学や垂加神道などを
総合した学問)の基本となったもので、天皇を頂点とする国家や、その天皇から征夷大将軍という
役職をいただき、政治を任されている幕府とその家臣の階級や節度を史実から明らかにして、国民の
自覚を高めるのが目的だった。

つまり、朝廷を尊ぶことが幕府の権威を高めることに繋がると考えたのである。
(さすが、徳川御三家のひとつである水戸藩!)

ところがペリーの黒船来航に代表される外国の脅威にさらされるようになると、国の存亡に関わる
外圧を目前にして、尊皇思想に激しい攘夷思想(外国勢を武力によって打ち払えという思想)が
加わってくるようになる。

水戸藩9代藩主・徳川斉昭らは強硬な尊王攘夷論者として、「難局を乗り切るためには朝廷を介し、
有力大名も加えた挙国一致体制で国事にあたろう」と主張した。

しかし、この主張は、井伊直弼らの「従来どおり幕府単独で政治を運営し、そのために幕権を強化
しよう」とする保守派と対立する。

この対立は、ちょうど黒船来航の時期と重なり、さらに将軍の後継ぎ問題が浮上したことにより、
徳川斉昭ら”一橋慶喜(後の15代将軍・徳川慶喜)”を推す、いわゆる「開明派」と
紀州藩主・”徳川慶福(後の14代将軍・徳川家茂)”を推す「保守派」との政争となった。

結局、「開明派」は敗れて失脚し、彼らを支えた尊王攘夷思想の者たちが、世にいう「安政の大獄」に
よって弾圧がおこなわれることになった。
その処罰は大名やその家臣・公卿・学者・志士ら、合計100余名におよんだ。

諸外国の強硬姿勢に抗しきれず開国に踏み切った幕府だったが、朝廷の勅許を得ずに不平等条約を
締結したことや、開港による貿易の輸出超過のため国内物資の不足が起り、物価が高騰するなど、
庶民生活は圧迫された。

そして、尊皇攘夷思想は、天皇をないがしろにした幕府の横暴と政策の失敗を批判し、政権の打倒を
唱える倒幕思想、さらには討幕思想へと結びついていく。

さらに、井伊直弼の強硬手段は大きな反発を招き、直弼は江戸城の桜田門外で暗殺されてしまう。
世にいう「桜田門外の変」である。

この事件によって幕府の専制的な政治体制は崩れ、その権威は大きく失墜してしまうことになった。

そして、その後の政治路線は、朝廷と一体化することによって幕藩体制を再編成し、強化していこうと
する「公武合体」政策に転換していくことになる。

公武合体を唱える藩の中には、薩摩藩や会津藩もあった。

薩摩前藩主・島津斉彬は文久2(1862)年、勅使を護衛する形で江戸城に入り、朝廷からの要求を
突きつけた。

その内容は、
①将軍上洛
②薩摩・長州・土佐・肥前・安芸の5大藩主の国政参加
③一橋慶喜の将軍後見職および松平慶永(春嶽)の大老職就任

という以上の三つであった。

幕府は、将軍上洛や一橋慶喜の将軍後見職就任を実行し、それに伴い幕政の改革もおこなわれた。
世にいう「文久の改革」である。

この「文久の改革」によって、とみに政情不安となっている京都に「京都守護職」が設置され、
この要職に、会津藩主・松平容保が就任することになった。

補足 尊皇攘夷について

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください