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江戸初期から続く船宿。 維新の史跡。
1862年(文久2)4月、薩摩藩の尊王攘夷派と公武合体派が、ここで乱闘、
9人の尊い犠牲者を出した。
これを薩藩九烈士といい維新史幕明けの事件とし伏見の事変ともいう(寺田屋騒動)。
1866年(慶応2)1月には坂本竜馬が止宿中、幕吏に襲われたが、
女将とせの養女おりょう(のち竜馬の妻)の機転で難をのがれた。
今も旅館を経営。
建設:1597(慶長2)年
寺田屋(てらだや)
幕末当時、このあたりは伏見港といい淀川を上り下りして旅客を運んだ
三十石船(さんじっこくぶね)や、高瀬川を往来する高瀬舟でひしめき合い、船宿をはじめ、
問屋、倉庫が界隈に軒を並べていた。
そのようなことから、このあたりは京都と大坂を結ぶ交通の要として、諸国の大名や志士たちで
昼夜を問わず喧騒を極めた。
現在では、”伏見みなと公園”として整備されている。
”寺田屋”もこのあたりに多くあった船宿のひとつだが、現在となっては、往時をしのぶ史跡は、
”寺田屋”のみとなった。
伏見みなと公園
京都市伏見区葭島金井戸町
高瀬川を開削した角倉了以(すみのくらりょうい)の顕彰碑が建つ
文久2(1862)年4月、この寺田屋で尊皇攘夷派の先鋒であった薩摩藩士9名が殺傷された。
世にいう「寺田屋騒動」である。
当時、薩摩藩主島津久光は1000余名の兵を率いて京都へ入洛し、幕政改革を企てた。
これを知った尊皇攘夷派の志士たち35名は、この機に討幕の命令を久光に下させ、
一気に京都で討幕ののろしを上げようと意気込み、文久2(1862)年4月23日、関白九条尚忠、
所司代酒井忠義を殺害すべく、薩摩藩の船宿である寺田屋伊助方に集まった。
薩摩藩士有馬新七らも、この企てに参加していた。
これを知った久光は、薩摩藩から暴挙を起こす人間は出せないと激怒し、
新七らの計画を断念させ、藩邸に戻るよう説得させるために、
藩士奈良原喜八郎ら8名を派遣したが説得に失敗、ついに乱闘となり新七ら7名が斬られ、
2名は重傷を負い、翌日切腹した。
これら尊皇攘夷派薩摩藩士9人は後に、「薩摩九烈士」と呼ばれた。
説得側もまた、真っ先に抜刀した道島五郎兵衛が斬り倒されるなど、
双方に多数の死傷者を出した。
この「寺田屋騒動」は、薩摩藩士の同士討ちだったが、勤王派と佐幕派が戦う維新への道の
始まりを告げる事件であった。
寺田屋 1階 乱闘の舞台となった部屋
乱闘の舞台となった部屋は現在も寺田屋に残るが、「寺田屋騒動」後、
薩摩藩が”藩の恥”として、直ちに大工を派遣し寺田屋全体を修復したため、
血に染まったこの部屋なども、元どおりの姿に戻され、「寺田屋騒動」をしのぶ
傷跡は残されていない。
寺田屋の玄関を入って突き当たりの左側の壁も、もちろん薩摩藩によって修復されたが、
その壁には、次のような逸話が残る。
”壁際で有馬新七は、説得側藩士を抱え込み、同志たちに向かって「俺ごと刺せ!」と叫んだ。
新七の同志によって突かれた刀は、説得側藩士・新七の体を突き抜け、この壁をも貫通し、
壁の外側に刃先が2センチほど出ていたといい、新七は文字どおり串刺し状態で絶命した。”
寺田屋の庭にある「寺田屋騒動記念碑」
寺田屋の玄関横にある「伏見寺田屋殉難九烈士之碑」
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