このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
Ⅰ はじめに
『復活させよう袖師駅』数年前まで、JR興津駅と清水駅のちょうど中間に位置する踏切の近くにこんな看板が立てられていた。「何のことだろう?」私にとってこれは大きな謎であった。
プォー。今日も外国船籍の大型貨物船が袖師第一埠頭を出ていく。積まれているのは大量のコンテナ。大型のクレーンがそれらを見送っている。片や反対側では木材の搬入の真っ最中だ。山と積まれた木材。人々が忙しく働いている。袖師第一埠頭、それは現在、清水港の重要な一地区として、日本へ世界へ24時間休み無く動いているのだ。
しかし、今から40年ほど前、ここは今とは全く別の様相を呈していた。照りつける太陽、一面に広がる砂浜、100メートル進んでも足がつくという遠浅の海、おびただしい人の数とはしゃぎ声……。そう、まさしくここは、多くの人に愛され続けた『袖師海水浴場』だったのだ。
国鉄袖師駅。聞けば、これは海水浴客のために夏場だけ開かれた駅であったという。人々の声や、様々な資料と共に私たちの年代では知るよしもない当時の面影を求めて、さらに、海水浴場から、港の一大拠点へ、どのように変わっていったか、袖師第一埠頭における意味と役割を見つめていきたい。
それではまず、袖師という地域の歴史から足を踏み入れてみよう。
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