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Ⅱ 袖師今昔物語
 横砂海岸に発展し、栄えた袖師海水浴場。その本編に入る前に、まず背景にあった袖師の歴史をいくつかの項目に分けて見てみよう。(資料1・古地図 資料2・袖師町略図 資料3・袖師町町内図参照)

【略年表】
大正 9年 江尻海水浴場、袖師海岸への移転案
   10年 江尻海水浴場廃止
      袖師海岸埋め立て計画進む
   15年 7月、横砂海岸へ海水浴場移転
      国鉄袖師臨時駅開設
昭和4年 7月24日、静岡鉄道 相生町−横砂間 開通
   8年 静岡鉄道 港橋−横砂間 開通
  16年 袖師海水浴場一時閉鎖
  21年 袖師海水浴場再開
  23年 海水茶屋の小屋が桟敷に変わる 袖師村、袖師町と改名
  25年 海水浴場の権利と地割りを巡る漁業会、県、海水浴場組合の紛争が解決に向かう
  30年 4月、袖師音頭(資料30・袖師音頭)、袖師小唄(資料31・袖師小唄)が作られる
  32年 7月18日、一葉松の碑の除幕式
      一葉松音頭が作られる
  33年 袖師海水浴場最盛期
      海水浴場に町立救護所設置
  34年 臨港道路用埋め立て開始
      袖師海水浴場衰退し始める
  35年 袖師ヶ浜中央に中部横断道路設置
  36年 袖師町 清水市に合併される(以後清水市袖師・横砂となる)
  37年 海岸埋め立て
      興津埠頭工事計画
  39年 国鉄袖師駅廃止
  41年 袖師海水浴場閉鎖
  44年  9月25日袖師海岸水面埋め立て問題で市議会が紛糾。
       9月27日市議会建設水道委員会は公園緑地と公共地確保の条件付
      き袖師海岸埋め立てを可決。
  49年 七夕豪雨で静岡鉄道清水市内線庵原川橋、車両に損害
  50年 静岡鉄道清水市内線廃止


【道路】 (資料1・古地図 資料6・写真参照)
 袖師には、東海道跡が4本ある。これは海岸の隆起にともない、道路が海岸方面に4回にわたって移動したためである。
1,延暦年間(782〜805)、桓武天皇の時代に開かれた。山裾を回る道。

2,平安時代後期に開かれた道。戦国末期まで本道であった。

3,文治年間(1186〜1189)。当時、新道として軍略上重視され、今川氏が修築した。北街道とよばれる。

4,天正年間(1571〜1589)織田信長、豊臣秀吉の頃。慶長6年(1601)徳川家康のとき正式に東海道と定められ、道幅も広め屈曲を少なくし、道の両側に松並木を植えた。現在の国道。
【松林】 
 袖師海水浴場付近にあった松林は、昔、領主が防風のために植えたもので、「御林(地頭林)」と呼ばれていた。明治以降は保安林となる。明治7(1874)年には390本の松があったが戦後松食い虫の被害や伐採のため減少。現在は一葉松を中心に、わずかにその名残をとどめているにすぎない。
 また、嶺海岸にも「御林(地頭林)」が連なっていたが、明治42(1909)年解除払い下げとなった。その後、海岸埋め立てにより消滅。埋め立てられた浜には東亜燃料工業株式会社清水工場、東海造船株式会社などが建設され、袖師近代化の一端、工業化の源泉となった。
 ほかにも、明治3(1870)年には横砂に311本の松並木があったが、現在は庵原川付近に数本しか残っていない。

【鉄道】 (資料2、14・地図)
 明治22(1889)年2月、東海道線開通。大正15(1926)年7月3日には、袖師臨時停車場が設置され、昭和24(1949)年常設駅昇格が内定したが、国鉄の機構変更により中止となった。
 昭和7(1932)年、静岡鉄道清水市内線(港橋ー横砂)全線開通。昭和28(1953)年国道改修の際、西久保−庵原川間の路線を変更。昭和49(1974)年7月7日、七夕豪雨により被害を受け、それが原因となり同50(1975)年静岡鉄道清水市内線廃止。

【製材業】
 袖師海岸には大正11(1922)年より井手製材所が建設されていたが、昭和12(1937)年に至り高梨製材所と丸共製材所が移転してきて火力による製材を開始したのをはじめ、10社の製材所が軒を並べるようになり、明治初年は人家1軒と御堂と納屋しかなかった海岸は工場街となった。10社の業者は袖師最寄組合を結成、嶺海岸通りに鉄道貨物引込線を延長し、製品の発着の便をはかった。これは昭和中期まで続いた。
 また、昭和5(1932)年、従来所属していた庵原、安倍、清水材木商同業組合から脱退、清水市及び袖師村海岸の業者で清水港木材同業組合を結成。

【横砂海岸道路】 (資料5・地図参照) 
 大正3(1914)年、横砂海岸の潮除堤防工事が終了。ついでその内側に幅3.5mの道路が大正6(1917)年完成。昭和に入ってからは、この道に海水浴場業者の店が建ち並んだ。道路と松林の間の千坪余りの官有地は横砂区有地として払い下げ、終戦時に一般希望者に売却、現在は宅地となっている。

【災害】

昭和19年12月 7日 地震 家屋倒潰多し
昭和20年 1月13日 地震 中心地三河地方、余波有り
昭和22年 9月15日 キャスリーン台風 東海道一帯
昭和23年 9月16日 アイオン台風 被害甚大、東海道一帯、東海造船冠水
昭和24年 8月31日 キティ台風 東海道一帯
昭和27年 6月23日 ダイナ台風 神明川決潰
昭和33年 7月23日 大雨 駿河湾大雨
昭和34年 8月14日 七号台風 被害多し 


【伝説】
 「蟹田尻の白浪」、「秋葉山の火祭」、「愛染川の亀甲石」、「清見関の小糠山」「袖師が浦の一葉松」「嶺の権現湯」「鹿島の要石」。以上は昔から袖師の七不思議とされている。ここでは、袖師海水浴場のあったところの近くに生えている一葉松にまつわる伝説を取
り上げてみた。
一葉松前に残る記念碑(資料7・写真参考)

木曽義仲の子清水冠者義高は源頼朝の人質として幽閉さ
せられていた 頼朝は義仲を亡くして義高を武蔵国入間
川原に斬つた 都の愛人鶴姫は義高を慕って鎌倉へ下向
の途次浄見長者に身を寄せていたが この悲報をきいて

こころなき松も二葉に散るものを
なとてかひとり住みのこるへき

の一首を遺して袖師が浦に入水して果てた
姫の墓の傍にいつと無く生えた松の葉が奇しくも一葉で
あつたので人呼んで一葉の松といつて今も残っている姫
のこの美しくも悲しい物語を長く後の世に伝えるために
袖師町の人々この碑を建てたのである    

  昭和三二年七月    村松治平撰
                  一葉松顕彰会

 袖師にはこのような古い古い歴史もあった。そして伝説の舞台、袖師が浦はついに海水浴場として出発したのだ。

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