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Ⅳ 砂浜から港へ… 〜姿を変える袖師海岸〜
繁栄を極めた袖師海水浴場。しかし、その時は、それからまもなく訪れた。『袖師海水浴場閉鎖』それはまさしく、40年前ここに袖師海水浴場が移ってきたのと同じく清水港拡張が大きく関わっていた。

ⅰ長い歴史に幕が下りた
昭和35(1960)年。袖師海岸に一本の道が通った。中部横断道路と名付けられたこの道は、横砂(袖師)海岸に大きな変化をもたらした。海岸の様子は一変したという。その後、砂浜は、徐々に埋め立てられていく。長年、海水浴客のために夏場の開業を続けてきた国鉄袖師駅も昭和39年廃止。袖師海水浴場の廃止は、昭和37年とも、昭和41(1964)年ともいわれ明確ではない。というよりも、何をもって海水浴場を廃止とするかがはっきりしていないのだと思う。
・知らないうちになくなっていた。(清水市・51才) 〔アンケートより〕
この言葉にも象徴されるように、袖師海水浴場は一気に衰退への道を駆け下りたのである。
では、なぜこのようなことになってしまったのだろうか。
話を聞いたり、資料を調べていく中でいくつかの理由が浮かんできた。

(1)砂浜の減少と急深になってきた海
袖師海水浴場は、広い砂浜(波打ち際まで30〜40メートルあった)と遠浅の海(100メートル進んでも足が軽くつく)で有名でした。しかし、徐々に特に海が急深になっていったんです。
〔話:橋本龍夫さん〕
このように、橋本さんはおっしゃっていた。では、なぜ海岸線は削れていったのか?

 清水港湾事務所工務課の柴田さんに清水市三保・砂浜の減少状況の資料をいただいた。(資料38・三保の砂浜の移り変わり参照)それを見ても分かるように、かなり削られていることが分かる。また、昭和2(1927)年の調査によると安倍川の河口で投入した12㎡の石の固まりが、一ヶ月の間に直径数センチの石ころとなって有度山(清水市南部の山・海に面している)から三保にかけて散在していたという。さらに様々な調査によって海流は静岡市方面から清水市三保に向かっていることが判明した。
 また、海流は三保の方から袖師の方へ流れているらしい。というのも、橋本さんの話によれば、昔、三保の方で波にのまれた人が、数日後、袖師の浜に打ち上げられるのだという。それから察するに、海流は三保の方から袖師が浜の方へ向かっていると言っていいだろう。

 一般的には、上流の方にダムが出来たため土砂の供給が少なくなっているといわれる。科学的根拠には乏しいが、三保の現状と同じく『河川または海岸地域からのからの砂の供給が少なくなっていったからである』という事は言えるのではないだろうか。

(2)港の拡張計画のため
清水港は、今年で開港100周年を迎える。その長い歴史は後の項に回すとして、ここでは、海水浴場のあったところを、なぜ埋め立て、なぜ港として組み込まれていかなければならなかったのかを見てみよう。そのためには少し歴史をさかのぼる必要がある。

袖師地区の近代工業地帯への変革は、周智郡森町出身の秋山一祐が、大正6(1917)年、当時の袖師村の将来性に着眼し、横砂の滝惣兵衛ほか数名の所有地(現在の和信化学工業及び合同酒精付近の敷地)であった約17,000坪(56,200㎡)を買収し化学豆油株式会社を設立したのが最初であった。また袖師海岸を埋め立てて、3,000トン級の船が接岸できる岸壁をつくり、袖師村を港湾地帯とし、化学豆油株式会社を東洋一の大工場にしようと計画したが経済恐慌のため会社は倒産、夢は消えてしまった。その後、埋立事業は、松山政太郎、飛鳥文吉が計画し、興津町の佐野容造が埋め立てのための許可をとり飛鳥組が継承し、昭和2(1927)年11月8日、埋め立てを開始した。同6(1931)年6月から庵原川河口から清水市島崎の市町村境界までの埋め立てが開始され、昭和8(1933)年5月に完成した。
この工事には沖合300メートルまで埋め立てられ、総面積14万坪(46 )の
埋立地と約2万5千坪(8.3)の船溜まりが新生し、地名を飛鳥、昭和、月見、日の出、若松とし、同時に道路、運河、橋梁などが建設された。
この埋立地には、東亜燃料清水工場の近代的設備と共に石油会社の油槽タンクと清水港木材生産の過半の能力を誇る10数社の製材工場が立ち並ぶにいたった。海には外国航路のマンモスタンカーを始め、大小の油槽船が出入りし、清水港第一の工業地帯となり、この一帯からの税金は、当時の袖師町財政を大いに潤した。このようにして地頭林の連なっていた嶺海岸はその様相を一変し、袖師町近代工業化への源泉地となった。
 その後、太平洋戦争で一時清水港の機能は麻痺したが、昭和27(1952)年2月、清水港は「特定重要港湾」の指定を受け、袖師興津間の港湾道路工事に着工し、港湾能力を向上させた。
同39(1964)年、日本経済の発展、入航船舶の大型化などにより、港内施設の増強は緊急を要する事態となり、公共埠頭計画、防波堤計画を基本方針とした港湾整備計画を策定した。この計画により、横砂海岸は埋立てられ、52万平方メートルに及ぶ袖師第一埠頭、以前埋め立てた嶺海岸沖をさらに埋立て袖師第二埠頭となり、かつての風光明媚な「袖師が浦」は、完全にその風貌を変え、県内屈指の工業地帯となった。

このように、以前から、袖師地域は工業化が図られていた。袖師地域が港の一角となっていくのはさけられない運命だったのかもしれない。

(3)衛生状況の悪化
 衛生面でも取り上げたが、年が経つにつれ、少しずつ衛生的に悪くなってきたということもあげられる。周辺の工場排水、家庭からの生活排水。『重油が流れた』という記事もみかけた。今なら全国版ニュースのトップにあげられるようなことだが、これもあまり大きくはならなかったようである。また、蛤が油臭くなってきたともいう。
これに関して、アンケートからもあげられる。
・昭和40年までだと思うが、私が3年生の時に袖師海岸の汚れ(大腸菌)がひどくなって閉鎖された。
・大腸菌で汚れたんだなという理由が小学生の間では広まっていた。事実なのかはわからないが、いやに「大腸菌」というひびきが子供を納得させていた。(清水市・43 才)
 環境問題が取りざたされている今日、これは、多くの海水浴場がかけている問題なのかもしれない。

このように3つ上げてみたが、確かに1,3も理由の1つとして、『海水浴場に適さなくなってきた』ということが上げられるが、やはり一番大きな理由は2の港拡張計画であろう。『清水港が世界の重要湾港として発展するためには、さけて通れない事だったのだろう。』この、山崎さんの言葉にもあるように、急ピッチに進められる港の拡張にいつの間にかのみこまれてしまったといえるのかもしれない。
 
 ここで、アンケートの中から、袖師の海水浴場がなくなってしまったときの気持ちについての結果をのせたいと思う。
Ⅵ:海水浴場が無くなってしまった時、どんな気持ちでしたか?
結果:
・知らないうちになくなっていた。(清水市・51才)
・寂しく思いました(清水市・46才)
・交通に便利で三保にくらべれば行きやすかったので残念でした。(清水市・50才)
・大人になっていたため、寂しさは感じなかった。(清水市・70才)
・時代のがれで仕様がないと思うが、夏になって寂しさの一語につきます。今は倉庫となって昔の面影はありません。(清水市・75才)
・泳ぐところがなくなってしまい、寂しい気持ち。(清水市・50才)
・思い出が無くなって大変寂しい気持ちでした。(清水市・70才))
・とても残念でした。悲しかった。(由比町・47才)
・三保の海水浴場がありましたから別になんとも。(清水市・53才)
・特に何も思わなかった。(清水市・49才)
・三保の海水浴場まで行かなければならないと思った。(清水市・41才)
・寂しかった。(由比町・51才)
・中学3年生の時になくなりましたが、遠浅で貝なども取れて、すばらしい浜が無くなるのが残念でした。(清水市・52才)
・川遊びに変えた。(清水市・46才)
・身近な海水浴場が無くなり、とても残念でした。(清水市・52才)
・残念(清水市・47才)
・寂しくなった。(清水市・70才)
・当時は三保海水浴場もあったので特に何も感じなかったと思います。(清水市・42才)
・残念に思った。(蒲原町・41)
・そのころはもう、引っ越していたので閉鎖の時は分からない。(清水市・85才)
・残念だった。(清水市・44才)
・いつの間にか消えてしまった。(清水市・44才)
・寂しい。(清水市 44才)
・夏のあそび場所がなくなってしまった。(清水市 46才)
・砂浜がなくなり遊び場所がなくとても残念でした。(清水市 46才)
・さみしかった。今の東燃の場所の岸壁で泳いだ。(清水市 74才)
・残念だった。(清水市 43才)
・遊ぶ所とか泳ぐところが無くなり、江尻岸壁とか運河で泳いだが舟が通るので危険だ った。(清水市 70才)
・大変残念でした(清水市 70才)
・寂しかった(清水市 45才)
・残念だった(清水市 44才)
・自然が失われるという寂しさがあった(清水市 44才)
・いつ無くなったのか知らなかった(清水市47才)
・特に意識無し(清水市 51才)
・あそび場が無くなってしまい、つまらなかった。(清水市 42才)
・近くで泳ぐことが出来なく、寂しかった。(清水市 61才)
・非常に寂しかったという想い出があります。(清水市 72才)
・砂浜が無くなってしまったことの方が残念だし、寂しく思います。(清水市 44才)
・もう行けないと思うと寂しかったが、それも仕方がないと子供心にあきらめました。(清水市 40才)
・小学3年生だったがむなしいとか寂しいとかいう感覚が無かった。少しずつ学年があ がるごとに、寂しさを感じた。
・淋しいと思った。これから子供たちが泳げなくなるのかなと思った。(清水市・47 才)
・私達の子供の頃、夏の楽しみは海水浴でしたので、とても淋しく感じた。(清水市・ 49才)
・淋しかった。(清水市・51才)
・淋しくなった。(清水市・74才)
・遠浅の海だったし、近かったからとても良かった。プールだけしか知らない子供たち
 は残念だと思う。(清水市・48才)
断然、残念だったということが多いことはいうまでもない。この結果を見ても、多くの人々に愛された海水浴場の最後にしてみれば、かなりさみしいものを感じさせる。
文責・袴田





ⅱ埋め立てがはじまった
袖師海岸は徐々に埋め立てられていった(資料17〜20・写真参照)。
資料の写真を見れば分かるように、砂浜だった横砂海岸はどんどん埋め立てられていった。資料17の写真は昭和41(1966)年8月に撮られた航空写真である。建設中の興津埠頭のどっしりと構えた横で、ひっそりと構える横砂海岸は何か寂しさを感じさせる。そして資料18〜20の写真は、埋め立てられていった昭和40年代前半から後半にかけての写真である。徐々に埋め立てが進んで行っていることがうかがえる。砂浜から港へ、そのちょうど間を記録した貴重な写真である。その後、昭和40年代末から港としての機能を果たし始めていったのだった。
文責・袴田

ⅲ憩いの場所〜清見潟公園〜
埋め立てにより、消滅した袖師海水浴場。しかし、それ以前『砂浜を守りたい』こうして立ち上がっていた人たちがいた。『横砂を守る会』と銘打ち、現:清水市横砂にお住まいの杉山さんを中心とした方々である。(杉山さんにはお話を伺おうと思いましたが時間等の都合上、出来ませんでした。)この方々の運動で、埋め立ては阻止できなかったものの、その代償として昭和49(1974)年、横砂に大小のプールが設置され、同54年4月1日港湾管理者から約11万2千㎡の広大な敷地を占用し『清見潟公園』が設置された。現在では、プール・グランド・テニスコートなどのスポーツ施設、また噴水や遊具広場などが整い、スポーツの交流場また付近住民の安らぎの場として広く親しまれている。
文責・袴田

ⅳ現在の袖師路と海水浴場の想い出
袖師海水浴場が廃止され30年ほど。現在の袖師海水浴場周辺はどうなっているのか。当時の面影を探りながら、現在の袖師路を散策してみた。
(資料5・現在の袖師地図 資料22〜29・写真参照)

資料22 国鉄袖師駅跡①
この写真は是非、(資料12・写真)と対比させて見ていただきたい。当時、夏場多くの人々を乗せたホームはそのスペースすら無くなってしまった。

資料23 国鉄袖師駅跡②
現在、駅があったところには公園が出来ている。『ふるさとの路』の看板のみが当時を忍ばせる。

資料24 庵原川から
海水浴場の西の端から旧海水浴場方面を眺める。この道が、昭和35(1960)年に開通した臨港道路である。

資料25 静岡鉄道袖師駅跡
現在、静鉄の線路があったところは、庵原川から横砂保育所(旧静鉄横砂駅)まで『自転車歩行者専用道』として整備されている。

資料26 清見潟公園スポーツセンター
資料27 横砂庭球場
資料28 清見潟公園①
資料29 清見潟公園②
 これらの写真は、先に紹介した清見潟公園である。とても広く、また緑の木々がきれいで、休日には子供から大人まで、多くの人に『憩いの場』として利用されているのがとても印象に残った。

この路を歩きながら、海水浴場在りし日の様子を思い浮かべていた。

それでは最後に、海水浴場の思い出をアンケートからあげようと思う。
Ⅶ:海水浴場の思い出などありましたらお書きください。 
結果:
・ミス水着コンテスト、花火大会があり楽しかった。(清水市・53才)
・耳が痛くなった(清水市・51才)
・子供なので小遣いが少なく、海の家に入るお金がなかった。海が汚かった。浮き輪が 欲しかった。(清水市・53才)
・34年頃、電車を降りて海へ続く道沿いに売店があったように思う(清水市・47才)
・地区の子供会で毎日いきました。今のように遊び道具がたくさん無い時代だったので、 大変楽しみでした。(清水市・50才)
・国鉄袖師駅から海岸まで100メートルから200メートル程度の道程でしたが、細 い道の内側に浮き輪や海水パンツを売る店や氷や食物を売る店がいっぱいに並んでい ました。(清水市・50才)
・袖師海水浴場は遠浅で泳ぎよかった。桟敷も大きいのが8件位、売店もたくさんあっ てこの近辺では最高だと思う。軍隊のあったころは、静岡射体の兵隊、各中学商業(現 高校)も学校で水泳に来た。夜もなかなか賑わった。(清水市・75才)
・初めてヨットに乗った(静岡市・65才)
・海水浴場に行くまでの道筋の楽しさ。浮き輪をもって駅から海辺までをうきうきして 歩く。(清水市・45才)
・無くなってからすぐ、青柳が大発生した。水族館がありました。売店のところに木の 風呂がありました。(清水市・70才)
・花火大会(清水市・51才)
・袖師は急深で防波堤ができたので、小学校のころは波が高く怖かった。(清水市・4 6才)
・昭和33年頃、海水浴場にタールが流れてきて水着が真っ黒になったことを覚えてい ます。(清水市・44才)
・電車(横砂駅まで)に乗ったのが楽しかったという記憶がある。(清水市・41才)
・(昭和16年頃)海岸は松林が連なっていて大変涼しくて小学5〜6年になると林間 学校と言って、午前中勉強をして午後から水泳をしました。夏休みにはいる前、だい たい一週間くらい行ったと思います。ほかにも中等学校、女学校等(現在の高校)テ ントを張って、多くの学校が来ていました(静岡市・清水の学校)。
 (売店のものは)子供の小遣いでは買えないので、時々しか買えません。そのかわり、 買ったときは帰りは(鉄道ではなく)歩いて帰ったものです。親と一緒の時は鉄道で、 子供だけの時は徒歩で行った。国鉄袖師の駅はよしず(葦の茎で編んだ簾)が張って あって大変涼しく、まっすぐに向かっていくと、海水着、浮き輪、ブリキのおもちゃ、 バケツなど子供の目を引くものがたくさん売っていました。別荘は左側の道路に沿っ て二階建ての家が並んでいて、東京当たりから来た人たちが華やかに暮らしているよ うに見え、うらやましく思ったことでした。(清水市・70才)
・私の小学校時代のクラスメートの家で海の家を開いていて、いつも『羽衣亭』に行っ ていました。ホームを降りて踏切がすぐあって、はやる気持ちでいっぱいで、踏切が とてもじゃまな物だと思っていました。海岸までの50メートルの道路の両側には色 とりどりの浮き輪を売っている店が並んでいました。小学生の私には、海までのこの 道もうろうろしました。(由比町・47才)
・随分、人が多く賑わっていた。(清水市・44才)
・スイカ割り。(清水市・44才) 
・砂浜で遠浅な海水浴場だったと思います。近くの民家を借りて(空き屋だと思う)海 水浴を楽しんだことがあります。(清水市・42才)
・波が高くてのみこまれた。波が強かった。(台風前の時)怖さがあった。(清水市・ 70才)
・遠浅で蛤がとれた。(清水市・47才)
・磯で魚をとって遊べた。(清水市・46才)
・「赤フン」皆そうであった。(清水市・49才)
・小学校にプールがなく、袖師まで学校の授業として行き、先生に沖に投げられ、怖い 思いをした。(清水市・52才)
・袖師の海岸は学校の水泳訓練で使ったので夏休み前の一週間位みんなで大きな樽に麦 茶をつめて通った。夏休みは毎日のように通い、小遣いでおでんや氷を買って食べた。 (清水市・ 85才)
・徒歩で行くとき、袖師のハス田の花が良かった。イワシの浜干しをたまにとって食べ た。(清水市 70才)
・遠浅で砂浜のいい海水浴場だった。台風のあとなど、貝や魚がうちあげられており、・バケツに2〜3杯ひろったことがある。(清水市 43才)
・息子の子供会で海水浴大会があった。海岸でかけっこ、つな引きをやった。(清水市 46才)
・国道一号線沿いの我が家の2階でも波の音、海水浴を楽しむ人々の声が聞こえました。(清水市 46才)
・三保の海水浴場まで夏場は舟が出ていました。(清水市 43才)
・ずいぶんたくさんの人達が海水浴にきていてにぎわっていました。(清水市 46才)
・近かったので、子供でもあり水着のまま行きました。泳いだ後は、国鉄袖師駅までの 通りに並ぶいろんな店でふかし芋、とうもろこし、パン、フライ、おでんなど毎日買 って食べました。(清水市 44才)
・砂浜が気持ちが良かった(清水市 45才)
・叔父が海の家を経営していたらしい(清水市 44才)
・子供会で行き、スイカ割りをして楽しんだ(清水市 45才)
・子供会の行事、浜辺で相撲をとっていた。
・100メートル沖に飛び込み台があり、友達とよくとびこんで遊んだ。( 清水市・ 42才)
・袖師駅があり、とても賑やかだった。(清水市・61才)
・ゴム靴の片方が波にさらわれ、二・三日後に波打際に打ち上げられて、非常に嬉しか った。
・育った家の前が砂浜で、小さいときは水着を着て浮き輪をつけてそのまま海へ遊びに 行っていたようです。(清水市・44才)
・昔は(三保の)羽衣の松の海岸でも泳げたが今は遊泳禁止になっているが、太平洋側
 の海岸が自然に消えていくなか、人工的に海水浴場をなくすのはどうかと考えたこと があった。
・赤はんばが波打ち際に打ち上げられよく食べた。(寒い時)
・海の家が並んでいた風景を思い出す。(清水市・48才)

文責・袴田



















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