このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

ⅰ海水浴場がやってきた?!
袖師海水浴場は、古くから海水浴場として行われていたわけではなかった。ここも、前に記したように、一面の砂浜であったのだ。大正、袖師海水浴場から南へ少し行ったところ、現在のJR清水駅があったあたりには前身にあたる江尻海水浴場というものがあった。ここも多く人で賑わったという。(資料4・袖師の航空写真ー昭和30年頃ー参照)
しかし、大正9(1920)年、将来を暗示するかのように、この海水浴場も清水港拡張計画による移転計画が持ち上がった。そして大正15(1921)年とうとう江尻海水浴場は廃止。そこで、白羽の矢がこの横砂(袖師)海岸にたったというわけである。大正15(1926)年7月砂海岸へ海水浴場が移転され、名も『袖師海水浴場』と改められた。桟敷(海の家のようなもの)も7軒が軒を並べ、また国鉄袖師臨時駅も開設され、交通面もいっそう便利になった。
 こうして、短く長い袖師海水浴場40年の歴史がはじまった。
文責・袴田


ⅱ戦争・それは砂浜を変えた
袖師海水浴場はその後、順調にお客さんも集まり活気に満ちていた。
 また横砂海岸では地引き網が盛んで西舟、新もち舟、醤油屋舟の3網元が、鰯の漁獲を競っていた。砂浜の片端からすべり出た舟が網をすてて行き、沖合で鰯の入る袋を捨て、反対側の砂浜に到着すると、待っていた大人たちに交じって子供たちも腰ひもを網に巻き付けて、よいしょ、よいしょのかけ声とともに引き始める。長い網をひっぱったすえに鰯がいっぱい入った袋がたぐり寄せられると、浜辺に大きな歓声が沸き上がった。昼間の地引き網は、子供たちを学校に呼びに行く事もあったという。子供たちは地引き網による小遣い稼ぎを楽しみにし、大人は農業を営む傍ら、鰯漁で生活していた。この
ような一面もまた、海水浴場のあった横砂海岸では見られた。

ここからは、今年の夏から秋にかけて清水市内で行ったアンケートと取材の一部をおりまぜていきます。

・戦前、私の母の話によると(母・大正10年生まれ)富士宮から小学生のころ袖師の海水浴場につれてきてもらったそうです。ホームは今の山手線並の混みようだったそ うです。
 しかし、昭和10年代後半(1930年代末〜40年代初)には、世の中は、戦争という混沌とした世の中に突入していき、平和だった光景も…

・戦前は静岡射隊の軍人陸軍兵器学校の生徒が水泳に来た。静岡・清水の各中学商業(高校)も水泳に来た。(清水市匿名・75才)            
・この砂浜で、陸軍の上陸訓練も行われました。また、夏、泳いでいたときに空襲警報が鳴って、まもなく敵機が来て、私たちを艦砲射撃してきました。何とか逃げ切ることが出来ましたが、本当に怖い経験でした。          〔山崎兵吾さん〕
・海水浴場は一時停止に追い込まれました。詳しいことは、覚えていません。しかし、戦争が激化してくると、そんなことしていられなくなりました。〔橋本龍夫さん〕

このように、『娯楽』である海水浴場は、戦争により一時停止を余儀なくされた。これにともない、周辺の浴場業者にも大きな影響をもたらした(ⅳ④商業:奮闘する浴場業者ー対話ー『袖師水族館と… / 山崎兵吾さん』参照)。また砂浜自体が、軍事教練の場として活用されるようになった。
文責・袴田

ⅲ復活・新たな幕開け
 昭和20(1945)年8月15日・太平洋戦争終結。その次の日、すでに横砂海岸には海で泳ぐ人の姿が見られたという。
袖師海水浴場の復活を
願う声が高まった。そして、翌昭和21(1946)年。戦前と同じように、袖師海水浴場は夏場の風物詩として、見事に復活を果たした。袖師海水浴場第2期のはじまりである。
 しかし、戦争が終わって間もないとき、推測するに人々も遊んでばかりいられないはず。浴場業者をはじめ海水浴場としての再開はかなり大変なものであっただろう。
 そしてその後、再び以前の活気を取り戻した袖師海水浴場は、最盛期を迎えるのである。
文責・袴田

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