このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

人事システム殺人事件 〜複雑な連鎖〜


第一章  失踪

         1  11月14日、木曜日、午前9時23分

 竹内正典はその日憂鬱だった。昨日突然、出向先に会社から電話があり、翌日の朝、社に来いと水野課長から直々に言われたからだ。竹内にとって社から戻って来いなどと、言われるのは滅多にないことで、嫌な予感がした。
 トリオシステムは派遣という形でF社関連の仕事先に社員を出向させている。会社は出向者に対しては存外冷たく、契約さえしてしまえば後は知らん顔という立場が多い。竹内が今の出向先の責任者に挨拶ついでに一度は訪問してくださいと、水野課長に進言しても、一向に実行してくれる気配がない。そのくせ、出向者に対しては個人の売り上げが契約の単価でしかないため、低い金額しか計上されず、給料やボーナスも社内にいる者より少ない。売り上げを上げるために、社に戻って他の人の手伝いでもしろと言われ、出向先で与えられたことをやっているのに、それ以上の仕事をしろなどと、全くもってでたらめな会社である。
 嫌な予感というのは、竹内には思い当たる節があるからだ。それは竹内だけの責任で起こしたことではない。出向先には竹内以外にもF社関連の人たちが派遣されている。竹内を含めたその人々があることでF社に損害を与えていた。あることとは、彼らが暇を持て余している時、NTTのダイヤルQ2のツーショットダイヤルをかけまくっていたことだ。莫大な電話の請求書が送られ、全てがばれてしまい、各人の上司に報告された。当然、竹内の上司である次長にも報告が届き、電話で怒鳴られた。一応始末書を書きそれ以上のおとがめはなしとなったが、一週間たって社に呼ばれてしまったのだ。
 ———こりゃまたいろいろ言われるのかな。と思いつつ竹内は思い足取りで地下街を歩いていった。
 名古屋は地下街が多いことで有名だ。多い上にその地下街がごちゃごちゃに繋がって分かりにくいのだ。方向音痴の人が地下に入ると二度と出られなくなってしまうほど、地方の人が入ったら全くメイズになってしまうだろう。竹内も名古屋の地下街は苦手なのだが、会社に行くことぐらいは出来る。今歩いているユニモールという地下街も、一年ほど前地下鉄の新線開通に伴い、リニューアルと地下街が延長された。それまでは今の半分ほどしか出来ておらず、途中から地上に出なければならなく、雨の日などは不便だった。今は国際センタービルまで繋がり、そこから会社まで百メートルほどになって、冬の時期のような時は有り難かった。
 その地下街も今日の竹内には長く感じられた。行きたくないという思いが出口を遠ざけているようだった。やっとのことでセンタービルの出口から地上に出た。どんよりとした曇り空がますます竹内を憂鬱にさせる。そのままだらだら歩き続け、トリオシステムのあるビルに行き着きエレベータに乗った。エレベータは一人だった。
 六階で降り事務所に入る。席には水野、桑原、松浦、江口、末国、酒井が座っている。セカンドバッグを置いて、デスクが並ぶ一番端にいる水野課長に近寄った。水野は何かの書類を作成している。
「お早うございます。お話って何でしょうか?」竹内は暗い顔で尋ねた。
「ん、ああ、ちょっと待って」水野は竹内を制すと、受話器を取り内線のダイヤルをプッシュした。
「水野ですけど、竹内君が来ましたが、・・・は・・・はい・・・わかりました」
 竹内は誰に電話しているのか疑問だったが、次の水野の言葉が最後通告のように聞こえた。
「竹内君、八階に行って!」そう言うと、水野は書類作成を続けた。
 ガーン。八階となれば、社長や是洞部長、山田部長までいる。これはとんでもないことになるかな、始末書だけでは済まないのかと、急激に不安感を抱いた。
「わかりました」と言って、竹内は八階へ向かった。部屋を出る時、松浦美砂をちらりと見たのだが、何の反応もない。彼女は今回の不始末について、詳しい内容は知らないが、次長が竹内に電話をかけ、怒鳴っていたことは知っているから、何か言うのかと思ったのだが。
 階段を登り八階に入ると、総務の榊原と目が合った。
「応接室に行ってください」と彼女は言い、竹内は無言でうなずいた。ふと、竹内は気付いたのだが、榊原の顔色が何か心配そうな様子に見えた。しかし、それは自分の今の状況を察しているふうには見えなかった。何かこの部屋に憂患という見えない影が押し迫っているようだった。それは、仕事をしている中嶋や光永にも見られたからだ。
 竹内は「失礼します」と言って応接室に入った。ソファには木下社長と早野部長、そして野尻部長が座っていた。竹内はここでおやっと思った。自分のことが問題なら、なぜ次長や水野がこの場にいないで、自分の課とは全然関係のない早野や野尻がいるのだろう?
 野尻は最初、入社したころは竹内も一課で直属の上司であったから、それなりに話したことはあるし、それ以上に今の出向先に行かせたのはこの野尻と今は亡き松野専務なのだから、その時は談話したものだ。一方、早野の方は全くもって親しくない。早野は、一昨年の途中で大阪から転勤してきた。そのころ、一度エレベーターの中でふたりっきりになり、竹内は何か言わなきゃと思い「大阪から見えたんですか?」と言葉をかけてみたら、「はい、そうです」と歯切れのいいきっぱりした口調で答えられてしまった。あまりの、明快な返答にビックリしてしまい、この人とは合わないなと感じ、あまり接しないようにしていた。野尻は部長といっても、システム部全体を統轄しているのでここにいるのはわからないでもないが、早野に至っては、最近税金対策のためトリオの裏会社「東海コンピュータ」に出向という形で作られた企画部の部長である。竹内にとっては全く関係のない人物である。
 木下社長が口火を開いた。「竹内君、朝早くからご苦労さま。まあ、かけたまえ」
 その言葉から竹内は自分が考えていた状況と違うものを感じ取っていた。
「実は、トリオにとって困ったことが発生してね。竹内君なら、何とか出来るんじゃないかと思ってね」
 竹内は拍子抜けしてしまった。てっきり、今日ここに呼ばれたのは先日のことかと思っていたのにそれが杞憂に終わったようだったからだ。何か全く別のことだとはっきりした。でも、自分を呼ぶなんてどういうことなのだろう。そして、何が起こったのだろう。竹内は俄然興味が湧いてきた。
「君の噂というか活躍のことは聞いているよ。専務のことや乗鞍のこと、それにこの間の内海のこともね」
 竹内は驚いてしまった。専務殺害事件のことや乗鞍高原で起きた事件のことを知っているなんて。しかも、会社にはあまり関係のない知多半島の事件のことまで知っているなんて。誰かが洩らしたのだろうか。竹内は頭をかきながら答えた。
「はあ、まあ、活躍というほどでもありませんけど、少し事件に関わっただけで。それで、困ったことというのは?」
「んー、実はね、うちの社員が一人行方不明になってね、その、調査というか探してだしてもらいたいんだよ」
「行方不明ですか、一体誰が?」
「・・・・・・土田君だよ」

         2  11月14日、木曜日、午前9時56分

「・・・土田さんがですか」竹内はあまりの驚きにしばらく言葉を失った。あの土田が行方不明になるなんて一体全体どういうことなのか? 
「そうなんだよ」社長は眉間にしわを寄せながら少し首を振った。
「一体どうしたんです。何が、どうなっているんですか?」竹内は矢継ぎ早に質問した。
「私の方から説明しましょう」早野が社長を助けるかのように、初めて口を開いた。
「竹内君、君も土田君が銀行関係の仕事に従事しているのは知っているね?」
「はい」竹内は早野に視線を合わせた。早野の目が眼鏡の奥でキョロキョロしている。
「ん、それで、土田君は大阪の方に出張していたのだが、三日前に突然いなくなっんだ。そっちの方には真野さんや古田さん、佐藤君もいるのだが、彼らの話によれば、その日夕方までは銀行にいたらしい。しかし、夜になって、いっこうに姿を現さなくなった。夕食にでも行っているのかと思っていたのだが、いつもは佐藤君と行くらしいのにその日は一緒ではなかったんだ。誰も土田君がどこへ行ったのか知らない。少々心配になって、もしかしたら、ホテルに戻ったのかもしれないと考え、連絡してみたがいなかったらしい。その日は、まだそのままにしておいたのだが、翌日になっても銀行に現れなかった。そこで、これは只事ではないということになったんだ」早野は一気にしゃべった。
「いなくなった理由は何ですか?もしかしたら、何か事件に巻き込まれたかもしれないんじゃ?」
「うん・・・そのへんは、今のところ分からない。何も連絡らしきものがないんでね。それに単に・・・」
「単に・・・もしかしたら、その・・・すっぽかしたんじゃないかと?」
 トリオシステムのようなソフトウェアハウスでは時々ある話だが、仕事をしていく上で、いきずまったり、納期に間に合わなくなったりで残業が続くなど、いわゆる「はまってしまう」状態になった時、それまでの仕事を放棄して姿をくらます社員が一年に一人はいるのだ。そんなことをすれば、会社はもちろん客先や同じ仲間に多大な迷惑をかけることになる。本人は限界まで達してさじを投げてしまえうのだから、無責任で根性なしということになるのだが、中にはコンピュータの仕事に合わない人もいるのだ。当然、会社側はその社員を懲戒免職にする。社則には一応、三日以上正当な理由なく無断欠勤すると免職処分にすると記されている。竹内も一度支店の知らない者が貼りだされているのを覚えていた。
 しかし、土田がそんな無責任な愚行をするとは思えなかった。土田も入社して三年目である。今では立派に仕事をこなしている。今回の仕事でもリーダー的な立場だと聞いている。確かに課長クラスの管理職でさえ仕事を放り出したこともあったのだが、竹内は土田の人間性を信じていた。土田は見た目優柔不断で頼りないところもあるが、仕事に関してはきちんとやるタイプだと思っている。
 早野は少し考えてから答えた。
「まあね・・・土田君は今回とても大変な作業をしているから、仕事を放棄するような状態になったとも言えないことはない。しかし、彼はそこまで無責任な人間とは思えない。ここまでやってきて、あと少しで作業も完了しようとしている時に・・・・・・」
 竹内は早野がそれなりに部下のことを見ていることに感心した。だてに管理職をやっているわけではないようだ。
「それにね、そうとは思えない点が二つあるんだ。一つは、彼はホテルに荷物を置きっぱなしなんだよ。当然チェックアウトもしていない。もし、仕事を放棄するなら荷物ぐらいは持っていくだろう。もう一つは、実家に全く連絡が入っていないということだ。家族の方にに電話してみたが戻った様子も連絡もないそうだ。家族の人が嘘を言っているようには聞こえなかったし、母親は本当に心配しているようだったからな。ああ、それともう一つあった。また、そのことは向こうで古田さんなりにきいて欲しい」
「それなら、やっぱり、何か事件に巻き込まれたんじゃないんですか」竹内はどうも事件と結び付けたがる傾向がある。
「我々もそういうふうに考えているのだがね」
「とすると、警察の方には、もう届けたんですよね」
「いや、それが、まだなんだ」
「えっ・・・人一人が行方不明になっているのにですか?」
 ここで野尻部長が言いよどんでいる早野の代わりに話しだした。
「つまりね、彼の失踪の原因が明白になっていないんでね。その、放棄したという可能性もないわけじゃないし、それに今回はF社からの銀行関係の大きな仕事だから騒ぎになるのもまた困るんだ」
「・・・体面ということですか?」
 竹内の心にさっきの感情とは裏腹に怒りがこみ上げてきた。社員が一人行方不明になっているのに会社は世間体のことを気にしているにか。今の仕事に支障がきたさないようにと、そこまで売り上げのことを気にしているのか?確かにトリオは社員に冷たい部分があるのだが、その現実をまざまざと見せつけられたような気がした。
 竹内の顔色に気付いたのか、野尻は落ちつかせるように続けた。
「まあね、それだけじゃないんだけど、もし届け出をしたところで、警察というのはたかが行方不明に真剣になってくれるとは思えないしね」
 確かに野尻の言うことには一理ある。警察というのは行方不明者をそれほど懸命に探そうとはしない。一年で何万人者の人が日本で行方不明になる。それは何かの事件に巻き込まれたり、子供がさらわれたり、中には自らの意志で姿をくらます者もいる。そんな行方不明者を届け出が出されるたびに捜査していたのでは人手が足りなすぎるのだ。子供が消えたとか、事件性がはっきりする、悪く言えば死体が見つかるなどの要件がなければ警察は動かない。ことに、今回の場合警察に届けても、関係者から話を聞けば、やはり仕事からのがれたと考えてしまうだろう。
「それで私にどうしろというのですか?その、土田さんを捜せと?」
「そういうことだ。今言ったように警察に届けるのはもう少し様子をみてからということにしたいんだ。しかし、何もせずじっとしているのも忍びない。そこで君の名が持ち上がったんだ」社長が少ない髪を頭になでつけながら言った。
「しかし、私なんかに人捜しなど。探偵じゃないんですから!」竹内はわざと困惑の表情をした。
「いやいや、竹内君の頭脳明晰さには感服しているよ。君のような社員が我が社にいて誇りに思っているんだ」何をいまさらお世辞いいやがって無理矢理だまして、入れたくせに、と心の底では思っていた。
「そう言われても、どこから手を付ければいいか、皆目見当もつきませんし、それに私の方にも仕事が」
 実際はやる気が満ちていたのだが、一応、社交辞令というか、仕事はさぼりませんよという表層を示した。
「まず、そうだな。土田君がいなくなった大阪へ行ってもらおうかな。仕事の方は今暇なんだろ」と野尻。
 暇と言われて、はい暇ですとは言えないので「仕事は今は落ちついていますが」と簡潔に答えた。
「それなら、水野君の方から出向先に連絡を入れておくから」
「はい、それでいつ大阪に行くんです?」
「ああ、今からすぐに行ってもらうから」
「今からですか、何も出かける用意なんてしていませんし、大阪なんてよく分からないんですけど」
「ああ、それは心配しないでいいよ。これから真野さんが大阪へ行くから一緒に行けばいい。それに日帰りすればいいし、なんだったら一泊してもいいけど」
「はあ、そうですか。でも、泊まるって言っても、お金の持ち合わせがないんで」
「その点は仮払いしておけばいいよ。また、特別の報酬というのは提供できないけど、宿泊費とか交通費は全額払うから」当たり前じゃないかとまた心の中でつぶやいた。
「とりあえず、何とか頼むよ。頼れるのは君だけだから」
「わかりました。出来るだけのことはやってみます。それから、一応警察の方にも届け出てくださいね。やはり、そうしたほうがいいと思いますから」
「むろん、その点は考慮しているよ。彼の御両親と相談して来週までには出すつもりだ」
 竹内は席を立ち応接室を出た。残った三人は扉を閉めると何か小声で話しているようだった。
 榊原香織がじっと竹内を見つめている。
「どうでした?竹内さんが捜すことになったんですか?」
「ああ、そうだよ、どうしたらいいかよく分からないけど。ひとまず、やってみることにしたよ。これから大阪に行くんだけどお金が足りないいんで、仮払い二万ぐらい頼むね。七階にいるから」竹内はクールに答えて総務を出た。
 六階へ階段で降りながら竹内は思いめぐらせていた。
 土田が行方不明なんてとても信じられない。しかし、実際に彼はいなくなっている。さっきも考えたように仕事上の問題とは考えられない。やはりどう考えても事件に巻き込まれたとしか思えない。なぜ、会社はすぐに届けを出さなかったのか。単に銀行との世間体を考えてなのかどうもそこが腑に落ちない。普通、今のような状況なら届け出をだすはずだ。何か裏にあるのか。そういえば早野がもう一つ仕事上のトラブルではないということを言おうとしていたっけ。現地で聞けと言ったがあれは何だったのだろうか。何かあるんだ。何か?
 竹内はいつの間にか六階にたどりつきドアの前に突っ立っていた。酒井がトイレに行こうとしてドアを開けビックリした表情で「どうしたんですか?」ときき、「いや別に」と我に返って部屋に入り席へ。
 今から大阪と言われても本当に何も用意していない。いつも持っているセカンドバッグを手に取り出かけようとしたところ、斜め前の桑原美香が声をかけてきた。 「竹内君、土田君の事だったの?」
「はい」どうやら、土田のことは会社内に知れ渡っているらしい。
「それで、どうなるの?」
「ひとまず、僕が大阪へ行くことにしました。どうなるか、分からないけど、出来るだけのことはしてみますよ」
「そう、頑張ってね」美香は竹内を見据えた。その瞳には竹内に対する切望の願が込められているように思えた。

         3  11月14日、木曜日、午前10時24分

 竹内は七階の事務所に入った。相変わらずガランとしている。席にはほとんど人がいず、マシン室にも青山真治しかおらず、後は課長に昇進した榊原が新人、森隆二と話をしているだけだった。「ちがうでしょ」、「そうじゃないでしょ」という榊原課長と「はあ」、「ええ」と言う森の小声が聞こえてくる。森と榊原のこの関係はしばらく続いているようで、土田たちの話の種にされている。森自身懲りないタイプなのか、毎度毎度同じことで怒られている。いつも頭をかいて「へへへ」と笑っているから怖い。
 竹内が真野祐子の姿を探していると、彼女はちょうど私服に着替え更衣室から出てきたところだった。紺色のワンピースと黒っぽいジャケットらしい上着を着ている。以前より髪も伸び、少しパーマをかけているようだ。祐子は竹内を見つけると手招きして呼んだ。
「それで、竹内さん、引き受けたの?」
「ええ、まあ」
「名探偵の登場ってとこね」祐子はおどけて笑ってみせたが、どことなく悲しそうな笑顔をだった。普段なら名探偵も迷探偵と聞こえるのだが、今回の言い方は「名」に力がこもっていた。やはり、土田のことが心配なのだ。
「えっ、そんなんじゃないですよ」竹内も哀愁をおびた照れ笑いを返した。
 総務の光永かおるが入ってきた。彼女は今年入社した社員で、中嶋が人材開発部に配属されたため、もう一人総務に入ったのだ。のんびりした性格なのか、どことなくほわんとしていて、よくボケをかますそうだ。彼女は二人を見つけ近づいてきた。いつもなら軽く微笑むのだが、今日は彼女も悲愁の色が濃い。
 切符を祐子に渡し、竹内に仮払いの二万円を手渡し、印を求めた。光永は帰り際「頑張ってください」と小声で言葉をかけていった。いろいろな人から声援を受け、竹内は自分に対する信頼とその目的に対する熱望が感じられた。その重圧に押しつぶされないよう心を引き締めたが、今はまだ不安と戸惑いの方が強かった。
 祐子は資料を入れた大きなバッグを肩にかけ、二人は出かけることにした。

 地下街を歩く二人。竹内にはどことなく違和感があった。竹内は今まで会社の人間と仕事に出かけたことがなかったのだ。入社して半年は社内にいたが、その後東京へ一人研修に行き、戻った後は今の出向先にずっと行ったままである。特に女性の社員と出かけるなんていうのは全くもってなかった。こんな時、何を話していいか迷ってしまう。スナックなどで酒が入った時には気楽に近くの女に声をかけているのに。状況が状況だ。土田のこともあるし、陽気な会話など出来ない。それに相手が祐子なので余計に一歩尻込みするものがある。祐子は親切で最後まで面倒みがいい、今まででもいろいろ御厄介になったことがあり、人間としても仕事上の先輩としても尊敬に値する。ただ、物事をハッキリさせるタイプなのかズバズバとストレートに明言する部分もあるし、冗談もあまり通じない。少々恐い面もあって、そこが、竹内にとってひいてしまうところだ。
「新幹線で行くんですか?」
「えっ、近鉄よ。会社は経費を節約しているから。はい、これ切符ね」と、近鉄アーバンライナーの回数券を一枚渡した。せこいと思ってしまった。新幹線ぐらい使わせろよ。しかも、この重大時に。
 地下街を早足で歩いて近鉄の改札口へ。座席の指定を受けて、特急列車「アーバンライナー」に乗車した。アーバンライナーは名古屋と大阪の難波を結ぶノン・ストップの特急である。今までの特急・ビスタカーよりデラックスにした車両で、車内もいたるところにサービスが行き届いている。大阪まで二時間。新幹線で行けば一時間だが、新大阪から目的地まで地下鉄を使わなければ行けないので、実際には三十分ほどの差しかでない。当然料金は近鉄の方が安い。
 二人は弁当を持って席に着いた。列車は十一時ちょうどの発車なので大阪へ着いてから食べてもいいのだが、祐子にとっては「時は金なり」、仕事が山積みなので、少しでも時間を有効に使おうとしているのだ。
 アーバンライナーは地下のホームを出発するとすぐに地上に出た。ますます雲は厚くなり始めている。このまま行くと大阪は雨かもしれない。窓の外をボーッと見ている祐子に竹内は声をかけた。
「真野さん、土田さんのこと詳しくきかせてください」
「ええ、いいわ。何から話しましょうか?」
「まず、失踪のことより、今の土田さんの状況というか、仕事のことについて教えてもらえますか。そのへんをきかないと全体がつかめないんで」
「なるほど、それじゃ、今の仕事の始まりから話すわ」
 普段の祐子なら察知したかもしれないが、落ち込み気味の彼女は竹内の質問が矛盾していることには気付いていない。竹内は土田が仕事上の理由で失踪したとは信じていないのに、仕事のことからきき始めている。それは、土田の仕事の中に失踪につながるものがあるのではと、思っていたからだ。あえて、理由はないが、これがいつもの竹内の感というものである。行方不明が何かの事件に巻き込まれた、銀行の仕事とは全く関係の無い事件、極端に言えば誘拐や拉致なら竹内の力が及ぶ範囲ではない。それこそ警察の領分だ。だが、仕事のうえで何かに巻き込まれたなら、竹内の力も通じるかもしれない。土田が今行っている仕事の中に何かヒントがないものか。もちろん暗中模索の状態である。だからこそ、暗闇の中に一点の光を求めたいのだ。
 祐子は土田がこの仕事に関わったきっかけから話し始めた。さすが、トリオの生き字引と言われるだけあって、細かいところまでよく熟知している。
 土田がとういうより、トリオがこの仕事を始めたきっかけは一年半前の春にさかのぼる。当時、早野部長は大阪の支店長から名古屋・一課の課長として赴任してきた。大阪での仕事の関係で滋賀県大津のF社グループの一つ、滋賀F社、通称SFLとの取り引きがあり、名古屋に来てからもその関係は継続していたのだ。F社はオフコンメーカーの最大手で各地に支店も多数ある。その支店とは別に各地域に一つぐらいずつ、F社とは独立した株式会社として○○F社というのが存在する。もちろん、本家のF社と緊密な関係を保っているが、各社独自で仕事をすることも多い。滋賀F社もその一つである。
 土田はその時たまたま暇だった。前の仕事が一段落していたし、時期的に長期の仕事がない時だった。土田は当時から部長の野尻のところへ行き、何か仕事はないかと尋ねた。野尻の方もこれといって土田にやらすような仕事はなく、隣に座っている早野にふってみた。早野はSFLと新しい仕事の話が進んでおり、誰か一人それに従事させるつもりで、タイミング良く(悪くかな)土田が登場したことになった。半年ほど土田がその仕事につくことになった。途中、短期間だけ、現在公判中の山田浩司が手伝ったが、ほとんど単独で名古屋と大津を往来した。その仕事が終了し、土田はやっと解放されるかと思ったが、そうは問屋がおろさない。SFL側が土田や名古屋のことをどう判断したのか分からないが、そのまま次の大きなプロジェクトもひきうけることとなった。
 それは銀行の人事をシステム化するという大きな仕事だった。今の世の中、人事の作業もコンピュータ化されてはいるが、コンピュータを銀行の貯金システム、いわゆる勘定系と併用していたため、負担や処理効率の点で問題があるため人事だけ切り離し、最新のシステムで改良するというのが目的である。その名も“MTS”。「人事システム」の「人」と「事」を「MAN」と「THING」で表記してその頭文字をとった名称で呼ばれた。SFL自体が既に滋賀の大手銀行・S銀行と取り引きがあり、そこの人事システムを完成させていた。それを土台にF社がこれから推し進めようとする新しいマシーンで、今まで以上に利用者に便利なシステムを製作することになり、各地の都市銀行と交渉を進めていた。
 その結果二つの銀行がそのシステムを取り入れることに決まった。(余談だが、当時Kという都市銀行の大手も興味を示していたが、S銀行との合併により御破算となった。今のA銀行である。)バブル経済の絶頂期、銀行も金余りの状態である。大阪を中心に近畿圏を網羅する幸徳銀行と福島を中心に東北最大手の北邦銀行がその顧客で、二つの銀行のシステムをほぼ同時期に作成することになった。
 秋から半年ほどはまだ土田だけが作業の準備を行っていたが、その準備も進み一人では抱えきれなくなり他の社員も関わるようになった。土田と早野の相談において、まず犠牲者にされたのは真野祐子と山田悦子だった。二人とも今回使用する新しいマシーンに対し以前作業したことがあるという理由で、土田が推したのだ。続いて古田美和子と渡辺史子、加藤千尋が選ばれた。それでも、人手がまだまだ足りないので、結局佐藤寿晃と今年の新入社員、加藤共生も仲間に加わった。加藤共生については森隆二とどちらにするか早野と話し合った結果、土田は課が違うが加藤を選んだ。土田は森より加藤の方がいいかとう思いがあり、その因果が今の榊原VS森の構図を生んでいる。これらの選考が各人の運命をどう変えるのかその時点では誰にも判別できない。 一言に人事と言ってもその中身は奥深い。当然、人事異動の作業がメインなのだが、職員の研修の割当や、考課の判断、そして最も重要な給与面の作業など職員に関することを全て扱うセクションである。それゆえ、トリオだけがSFLからの作業を請け負っているのではなく、トリオの大阪支店、仙台営業所や他のSFLと取り引きのあるソフトハウスが分担して仕事を行っている。
 名古屋のトリオは人事の要、人事異動と研修のシステムを担当することになり、前述の社員が各々、幸徳、北邦に分かれシステムを分担した。その中でも土田は今回の目玉、人事の端末システムの担当、しかも、両銀行となり過酷な労働を強いられる事になったのだ。
 今年の四月になってからMTSのプロジェクトは本格的に動きだし、各人が作業を開始した。しかし、社員の力になさか、管理職の判断の甘さなのか、作業はスケジュール通りにはいかず徐々に遅れをみせだした。そのため、前述のように人手を少しずつ動かしていくはめとなった。システム自体は土台があるものの新しく作っていくものが多い、特に端末のプログラム(帳票やバッチ処理ではなく、画面からの入力を制御するもの)に関しては、基本設計から掘り起こさなければならい。また、SFL側の注文や無理難題、突然の仕様変更など、最初の思惑通りには全く進まなくなった。
 そのため、徐々に社員の作業は密度を増し、残業の発生も頻繁になってきた。夜は十時すぎまで土・日も出勤という状態が続き始めた。女性は労働条件のため十時には帰宅しなければならないが、男たちは会社で泊まることも珍しくなくなってきた。土田など、ほとんど一泊二日の毎日で、残業時間は休日出勤も含めると二百時間を超すという驚異的な数字となり、警備会社で夜勤をしている彼の父親と三ヵ月も顔を合わしたことのない状態まで陥っていた。
 それだけの過労が続けば、肉体以上に精神面にも影響が出てくる。SFLの作業に従事する者たちはデスクを一か所に集め群れを作った。他の社員からは「滋賀グループ」と呼ばれ、特別な目で見られるようになった。
 滋賀グループの誰もがピリピリとし始め、いつも不機嫌か憂鬱そうな表情しかみせない。他の社員もあまり近づけない雰囲気が漂っていた。土田の精神状態はおかしくなり始め、年若い女の子たちは枕を涙で濡らす日々が続いた。アウトドアにいけない佐藤はストレスがたまり、スキー馬鹿の加藤共生はこれがもし冬まで続いたら気が狂ってしまうかもしれない。祐子は小声で不鮮明にしゃべる土田に対し「聞こえない」と叱咤した言葉は滋賀グループの暗影を物語っている。管理者である早野は、始めあまり彼らとは接触しようとはしなかった。全てを彼らに任せていたのだ。が、それは彼らの反発を買い、滋賀グループの不満は一気に早野へと向けられた。早野の不敵な微小と口癖「カンタン、カンタン」にあきれたためか、普段はあまり細かいことを言わない悦子までもが真剣に怒りだし、祐子と土田を加えてさんざん無責任、見積もりが甘い、とどやされ続けた。結局早野も研修の一部を手伝うはめになり、私たちの苦労が分かったかとグループの皆が思ったほどだ。
 一番の被害者は山田悦子だったかもしれない。彼女はその年の夏で退社し、知り合いの人の会社へ転職する予定だったのだが、それもままならなかった。退職の期日を延ばしたり、退職しても夏にはアルバイトという形で出社していて、その後完全に転職した後も度々電話で呼び出される状態が続いていた。彼女も自分の担当分を後輩の加藤千尋と渡辺史子に委託した責任もありほっておくわけにはいかなった。
 その千尋・史子の両乙女も二年目ながら苦労の連続で、たまに酒の席でも設ければ不平不満のオンパレードになっていた。早野部長に対してはもちろん、滋賀F社に対しても喧々囂々だ(特にS氏と呼ばれる人物には)。千尋は大阪の水はまずくて困ると衣食住まで持ち出した。むろん、滋賀グループ全員が同じようだったが。
 また、祐子は知らないことだが、土田の方も遂に嫌気がさしたのか九月の始め辞表を早野に提出していた。その日大津にいた土田のもとに早野はやって来て、土田だけを呼出し、近くの喫茶店で話し合った。この仕事のめどがたつまでということで、年末にもう一度話し合おうとその時はなんとか納めた。土田自身もこの時点で辞めれるはずもないと心の内では思っていたが、ある意味で事態の深刻さを示す牽制と脅しでもあった。
 滋賀グループのほとんどが夏休みもろくに取らず(当時、トリオは会社としての夏期休暇はなく、各人が有給休暇を利用して長期の休みを取っていた)、残業も土田を筆頭に軒並み百時間を超し、そのために始末書らしきものまで書かされた。史子と美和子を除いて、あとの者は企画部に所属していたが、企画部自身の売り上げもひどいものであった。部長自身上の方かきつく叱責されたらしい。(むろん、後から滋賀F社側でカバーしたが)
 最終的に、スケジュール・予算は大幅にオーバーしたものの両銀行ともなんとか山を越えて、後は細かい修正などの最終作業まで辿り着くことができた。そう、あと一歩というところまで来たのだ。
 そんな中、土田の失踪という大事件が起きてしまった。銀行側には何とか誤魔化しているが、トリオとSFLの人間はやきもきのしどうしである。
 いつしか近鉄は三重県に入り、桑名を過ぎ、四日市に近づいていた。竹内は祐子の話を真剣に聞き入ったので、今どこか全くわからなかった。木曽三川を越える時、鉄橋の音がかすかに記憶に残っていただけだった。
 土田が万が一仕事のことで失踪したとしても、その気持ちは分かるような気がした。確かに、今きいた状況では逃げだしたくなるのも無理はないと思える。竹内自身も今の仕事のため東京へ研修に行っていたのだが、全くの無知の世界へ入り込んだ竹内は、一人で行ったということも重なり、おかしくなりそうだったのだ。ただ、土田には仲間がいる。同じ気持ちを分かち合う先輩と後輩が。祐子も話していたが、一人じゃなかったからここまでやってこれたのだ、と誰もが思っていたようだ。その協力関係、同じ仲間という意識があったからこそ、土田が無責任に仕事を投げてしまうとは竹内には思えなかった。やはり、何かあるのだ。
 正午近くになり、二人とも弁当を食べることにした。列車は中川付近まで到達し、鳥羽方面と分岐してから関西へ向け布引の山系へ進んだ。最初のトンネルを抜けると窓ガラスに水滴がつき始めた。

         3  11月14日、木曜日、午後12時3分

 食事も一段落してから、竹内は祐子に次の質問を問いかけた。
「それで、今回のことはどういうふうに起こったんですか?」
 祐子はお茶を飲む手を休め竹内を見た。
「私、詳しいことは知らないんだけど、佐藤君からまず電話があったの。私は昨日まで会社で作業をしていたから、佐藤君と古田さん、そして土田さんだけ大阪に行ってたの。夕方、いや、もっと暗くなってからかな。佐藤君がどうしましょと言って電話してきたの。土田君が戻らないんですけどってね」
 祐子は一息ついてお茶を飲んだ。
「佐藤君が言うには、銀行にはいないし、ホテルにも戻っていないんで、困ったと言うんだけど、まあその日は様子を見てと言っといたわ。でも、翌日になっても朝から姿を現さないので、これはちょっとおかしいっていうことになって、部長に話してみたわけ。その後は部長と佐藤君がおって連絡しあっていたわ。まあ、詳しいことは向こうで佐藤君や古ちゃんにきいてみて」
「いなくなった原因とか、その時の様子とかも分かっていないんですね?」
「ええ、そうよ」
「話を聞いた時、早野部長は何かわけがあるようなこと仄めかしていましたけど、それも知らないんですね?」
「へっ、そんなのがあるの、全然知らないわ」
「最近、土田さんに変わった様子はなかったんですか?」
「そうね、さっきも言ったけど、変わった様子と言ったら、この仕事を始めてからずっと様子は変だったわよ。まあ、最近は峠も越えて少し落ちついたようだけど。そういえば、ここ二三日またちょっと様子が変だった気もするわね。妙に考え込んでいるみたいで。いつものことかと思っていたんだけど」
「土田さん、今までにこんなふうに突然消えてしまったことって以前にもあるんですか?」
「そうね、一回夏に納涼会を開いて、その後二次会まで行ったらしく、二日酔いで翌日休んだことがあるぐらいかしら。そうそう、そう言えば、一度休日出勤に来ると言っておいて、土日に来なかった事があるわね。悦ちゃんと二人でどうしたのかなと思っていたけど」
 その話はどちらも裏まで竹内は知っていた。二日酔いの方は朝起きれず休んだそうだが、本人は仕事の遅れを取り戻すため、その日の夜十一時過ぎに会社へ行き徹夜で仕事をしたそうだ。また、休日出勤の件は、息抜きに友達と東京ディズニーランドへ遊びに行ったというのを聞いていたが、目の前の祐子には口が裂けても言えなかった。
「そうですか、今回のこと真野さん自身はどう思っているんです?」
「さあ、そこまではよく分からないわ。ツッちゃん気が小さいし短気じゃない、よくここまでやってこれたと感心はしていたんだけど・・・・・・」
 祐子は始めて竹内の前で土田を「ツッちゃん」と呼んで、少し微笑みを浮かべた。その表情には土田への信頼が読み取れ、竹内もホッとした。
 山々の谷間を列車は突っ走る。雨が霧となり遠くまで見渡すことが出来ない。竹内の頭の中も霧がかかり始めた。そして、土田の顔がその霧の中に消え入った。

第二章へ     目次へ     HPへ戻る


このページは GeoCities です 無料ホームページ をどうぞ

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください