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人事システム殺人事件 〜複雑な連鎖〜


第二章  女の影

         1  11月14日、木曜日、午後12時56分

 祐子との話が途絶えた後、竹内は少しウトウトとしてしまったが、トンネルに入るような轟音が耳に響き目を覚ました。まだ、山の中を走っているのかと思ったら、列車は大阪に到着し、難波駅に近づいたため、地下に入っただけだった。
 二時間の短い旅が終わり列車は終着駅に着いた。竹内は二・三回大阪に来ていたが、まだ不慣れな土地である。右も左も分からないまま、早足で歩く祐子の後について行った。駅の改札口を出ると、そこは地下街になっていたが、まるで異国に来たような気分だ。周りの人がすべて関西弁で話しているからだ。確かに名古屋には名古屋弁というタモリや山田まさが有名にした方言があるが、街中を歩いていてもほとんどが標準語で語られていた。まあ、自分が名古屋弁に親しんでいるから気にしないだけかも知れないが、ここ大阪はもろに方言で会話しているような気がする。東京へ行っていた時には、何も感じなかったが、やはり大阪は違うのである。
 地下街を出ると大阪のメインストリート・御堂筋に出る。難波から心斎橋までの間には大手デパートやレストランが乱立している。その御堂筋を一本東に入るとそこは大阪一の繁華街・道頓堀へと出る。平日の昼間だというのにアーケード街は人でごったがえしている。祐子が気を利かしてくれたのか、彼女は繁華街を進み、戎橋へと至った。別名ナンパ橋と呼ばれるこの橋には若者が既にたむろしている。映画「ブラック・レイン」にも登場したグリコのネオンとそのロケ地、キリンプラザ大阪が目に入った。そういえば、ブラック・レインのビデオをまだ土田に返していないとふと思い出した。短い道路を信号待ちしていると、トヨタ・セルシオのタクシーが通過した。さすが大阪だ。三ナンバーもすでに五まで来ている。
 幸徳銀行はこの繁華街の東の端にある。昼間だからまだきらびやかさがないが、夜ともなればこの辺りは眩しいネオンと三ナンバーの車、そして綺麗なネーちゃんがうようよと出ているのだろうなと、竹内は不純なことを考えてしまった。それを見透かされたのか祐子は「今度落ちついたら夜行きましょうね」と振り返って言った。
 祐子は幸徳銀行の表玄関から入らず、裏口にあたるパーキングからビルに入っていき、玄関で受付の女性に軽く会釈してからエレベータに乗り込んだ。
 三階で降り開けっ放しの扉から中に入るとざわめきとたばこの煙らしい煙たさが目に入った。ここは銀行のシステム部に当たる。銀行員のシステム部の人たちもいるし、システムを管理しているF社関係の人間も大勢いる。SFLをはじめとする人事システムの一団はその広いフロアーの一角に席を占めている。祐子が「こんにちは」と挨拶をして荷物を置いたので、竹内も軽くうなずいて祐子の後ろについた。
「竹内さんじゃない?」という女性の声に竹内は祐子の向こう側をのぞき見た。
「東さんだっけ」同期で入社し、大阪支店に配属された東佳代がいた。一年ほど前の研修以来である。
「久しぶりじゃない。どうしたの、竹内さんもこの仕事に加わったの?」
「いやね・・・」竹内は東の方に近づいたが、間にいる祐子が軽く首を振っていたことに気付いた。どうやら、大阪支店の人間は土田の失踪を知らないようだ。
「ちょっと見学というか、僕も別のところで似たような仕事をするもんでね」と、咄嗟に嘘をついた。
 祐子は滋賀F社の人間らしき男と女に小声で話をしていた。胸の名札には日野林公美と林清孝と印刷されている。
 東はもう少し話をしたそうだったが、祐子が腕を引っ張ったので、「また後で」と言ってその場を離れた。
「佐藤君と古田さんを呼ぶから」と祐子は言ってエレベータを呼び七階まで登った。三階とはうって変わって静かで整然としている。そこがどうやら、人事部のようで、二人は会釈して人事部の一画に仕切られているマシン室に入った。そこにはF社のオフコンや大型プリンターが並んでいる。竹内が見たこともないマシンやマウスなども置いてある。
 佐藤寿晃と古田美和子は作業をしていたが二人に気付き席を立った。
「竹内君、君が来てくれたのか。よかったよ」と佐藤は感慨深く竹内の両肩に手を置いた。
 竹内は少し苦笑いをした。美和子も同じようなことが言いたいのか、安堵の笑顔をで浮かべている。
「ここじゃなんだから、食堂の方へ行きましょう」と祐子が三人を誘導した。
 人事部の部屋を出て隣にある社員食堂へ入った。竹内は入口のドアに「先日、当食堂で食中毒毒をおこしたことを深くお詫びします、云々」とかいう掲示を見て「ゲッ」と思ってしまった。なんちゅう食堂なんだ。
 四人は食堂の奥の窓際に座った。気を利かしてか、佐藤が自販機で缶ジュースを買ってきてくれた。
「いや、本当に、竹内君が来てくれるなんて思ってもみなかったよ。だけど、これで千人力だな」佐藤はまたさっきと同じようなことを言った。
「そんなにおだてても、何もおごりませんよ」四人とも心から笑った。今の陰鬱な気分を吹き飛ばすかのように。だが、いつまでも浮かれていてはいけない。
「それで、その後何か進展はありましたか?」竹内は単刀直入にきいた。
「いや、今のところ何も。相変わらず土田君からは連絡がないし、もう四日目だろ心配だよ。それで、会社の方はどうだい?警察には連絡したの?」
「まだですよ。だから、僕がここへ来たわけなんです」
「あんちくしょう、早野のバカやろう。まだ、届けていないのか、人一人が行方不明だっていうのに」
「僕もそう思ったんですけどね。早野部長が言うには、失踪の原因がはっきりしないからだって言うんですけどね。それに、何かもう一つあるとか言ってましたけど」  その言葉をきいて佐藤は美和子と目を合わせた。
「順を追って話してもらえますか?土田さんはいついなくなったんです?」
「月曜日なんだけど、僕と古田さんは一緒に朝ここへ来たんだ。土田君は滋賀の方へ寄ったらしく、三時ぐらいに来たのかな」
「ほう、土田さんは滋賀、つまり、大津に寄ったんですね」
「そう、それで六時ぐらいになって、夕食でも食べに行こうかなと思って土田君を探したんだけど、マシン室にも下にもいないんだ。一人で行ったのかなと思って、僕も一人でいつものうどん屋へ行って、三十分ぐらいで戻ってきたけど、土田君はまだ戻っていなかった。それで、古ちゃんにもきいてみたんだけど、そういえば、全然見ていないって言うんでおかしいなと思い始めたんだよ」
 美和子もそこでうなずいてみせた。
「それじゃ、先に帰ったのかもしれないと思ってホテルに電話してみたんだ。その時気付いたんだけど、荷物が無くなっていたからね。ところが、ホテルではチェックインはしたらしんだけど、部屋にはいないって言うんだ。どっか遊びにでも行ったのかなと思って、この忙しい時にって少し憤慨したんだけど、妙に気になってね。真野さんにちょっとききたいことがあったから、電話してついでにそのことも話したんだ」
 今度は祐子が軽くうなずいた。
「真野さんは心配しなくて一日見てみたらと言ったんで僕もそうすることにしたんだけど、十時過ぎにホテルに戻ってね、僕も土田君と同じホテルを予約してあったから、彼の部屋にも行って見たんだけど、返事がなかったんだ。まだ、遊んでいるのかな、それとも、眠ってしまったのかと思って、その日はそのままだったんだ。ところが翌日、朝、ここに来ても一向に土田君が姿を見せない。もう一度ホテルに連絡したらチェックインしたまま昨日は戻っていないっていうんだ。これは、只事じゃないと思って、真野さんに連絡し、その後は部長に全部話した。そういうわけだよ」
 竹内はじっと佐藤を見つめ、話に聞き入った。
「それで土田さんがいなくなった原因とか、思い当たるものはないんですか?」
「実は・・・それがね・・・」佐藤は急に口をすぼめ、美和子の方を見た。
「何かあるんですね」竹内身を乗り出して佐藤を急かせた。佐藤は意を決し思い口を開いた。
「実はね、土田君がいなくなったのに気付く少し前に、彼宛に電話があったんだよ」
「電話ですか、それで一体誰からです?」
「それがね、知らない人なんだけど」
「知らない人?」
「うん、女の人からね」
「女!?」

         2  11月14日、木曜日、午後1時32分 

 竹内は意外な言葉に絶句した。祐子も初めて聞かされた事実に驚いている。
「女からというのは本当なんですか?」
「ああ、本当だよ。と言っても電話を受けたのは古田さんだから」
 佐藤が美和子に話を振るような表情を見せた。美和子はいつものように小首を少し傾けゆっくりした口調で話し始めた。
「私はたまたま下にいて電話を受けたんです。そうしたら、そちらにトリオの土田さんは見えますかと相手の人が言ったんです」
「相手の名前は?」
「それが言わなかったんです。もちろん、どちら様ですかとうかがったんですけど、急用なのでつないで下されば分かるとだけ言うもんですから、そのまま七階のほうにつないで、土田さんを呼び出してもらったんです」
「佐藤さんはその時どこにいたんですか?」
「マシン室だよ」
「それなら、電話をつないだ時はそこにいたんですね。土田さんはどんな様子でしたか?」
「そうだね、僕もちらっと見ただけなんだけど、相手が誰か分かったら少し厳しい表情になってたみたい」
「何を話していました?」
「さあ、それが小声で話していたし、プリンターが動いていたからよく聞こえなかったよ」
「そうすると、その後いなくなったというわけか。古田さん、電話の人ってどういう感じの人?若い感じの人だった?」
「若い人でしたよ、二十歳ぐらいの」
「若い女ね・・・。話し方はどうだった?訛りとか方言はなかった。特に関西弁みたいなのはなかった?」
「そうですね、なかったと思いますよ。普通の話し方で、はっきりとしたよく通る声でした」
「何時ぐらいだったの?」
「五時少し前くらいじゃなかったかしら」
「そう。あの、佐藤さん、女の事は早野部長にも話したわけですか?」
「ああ、一応。隠していくわけにもいかないんでね」佐藤はわずかに渋い顔をして答えた。
 これで早野たちが届け出を渋っていた理由が分かった。女が絡んでいたとなると、職務放棄以上にスキャンダルなことになってしまう。それではそうやすやすと捜索願を出すわけにはいかないはずだ。
「ツッちゃんに女性がいたなんて意外よね」祐子が呆れたように言った。
 それは竹内にとっても思いがけないことだった。竹内は土田とちょくちょく互いの事を洩らしあっていた。いま、土田は特別に付き合っているような女はいないはずだ。全てを竹内に話してないだけかもしれないが、竹内の感触からいってもそんな感じはしない。だが、その女が今のところ唯一の手掛かりである。たぶん、土田はその女に呼び出されたのは間違いないはずだ。その後消息を絶った。一体何があったんだ?何者なのか?
 佐藤たちは仕事があるのでマシン室に戻ることにした。竹内は思い出したように佐藤に一つだけ尋ねた。
「土田さんの荷物はどうしたんです。佐藤さんが持っているんですか?」
「いや、今は大阪支店の方に置いてあるよ、ホテルの近くだからね。土田君の分のホテル代も払って、もうからっけつだよ」と余計なことまで言い残した。

 竹内は一人食堂の前にある喫煙所で一服していた。すると竹内と同じぐらいの背丈でほっそりした男が隣に座った。滋賀F社の林だった。彼もたばこを取り出し火を付けた。
「竹内さんでしたか。私、滋賀F社の林と言います」林は懐から名刺を取り出し竹内に手渡した。口もとが笑っているが目が笑っていないような印象がある。滋賀の人だが関西弁のイントネーションがもろに出ている。竹内も自分の名刺を渡した。
「竹内です」
「土田さんのこと調べに見えたんですか?」林もたばこを取り出して吸い始めた。
「・・・・・・」
「土田さんはよくやってくれはりましたよ。難しい仕事をここまで推し進めて、頭が下がりますわ」
「土田とは付き合いが長いんですか?」
「ええ、もう一年半ぐらいですかね。最初は早野部長さんと見えて、半年ほど一緒に仕事をした後、今の仕事も引き続きやってもらっているというわけですわ」
「林さんもお若いのに大変じゃないんですか?こちらの銀行さんの責任者なんですよね」 
「まあね、今はそうですけど、実際にはもう一人いたんですが、上の者と折り合いが悪くなって、辞めてしまったんで、結局のところ、私の方に回ってきたんですよ」
「そうなんですか」
「これは、つまらないことを話してすんません。とにかく、早く土田さんを見つけて下さい。お願いします」
 林はたばこを灰皿に捨て席を立った。林は仕事のことでなく土田の身を思っていることを竹内は感じ取っていた。

         3  11月14日、木曜日、午後4時5分

 竹内は地下鉄に乗っていた。土田の泊まったホテルに行くことと大阪支店に寄って彼の荷物を調べることが目的だ。銀行の間近、長堀橋から堺筋の下を走る地下鉄堺筋線に乗った。十分ほどで南森町に着いて降りた。大阪天満宮の案内が目立ったが案内表示を見ながら地上に出ると、その出口自体がホテルのビルの一部になっていた。東興ホテルという、典型的なビジネスホテルである。佐藤も言っていたが、建物もあまり新しくなく少し暗い感じがする。部屋も今の時代には少々合わない狭くて汚れた雰囲気なのだろう。
 ホテルのフロントへ行き、土田のことを尋ねてみた。たまたまその時の担当者がいて話をきくことが出来た。まだ三日前のことだし、客がいなくなったという出来事なので、その担当者もよく覚えていた。
「チェックインしたことは確かなんですね?」
「はい、そうです」フロントの男は自信を持った口調できっぱり答えた。
「その後、すぐ出かけたのですか、何時ぐらいですか?」
「そうでございますね、五時半ごろだったと思いますが。チェックインされてすぐ出かけられましたが」
「それで、もう土田は戻ってこなかったんですね。電話なんかもなかったんですか?」
「そうです。連絡は全くありませんでした。あとで他の者にもきいてみたんですが、そのお客さまのお姿を見た者はおりません」
「誰か土田を訪ねてきた人はいませんでしたか」
「いいえ、そのような方はいらっしゃいませんでしたが。ただ、佐藤様という同じ会社の方はいらっしゃいましたけど」
「そうですか、分かりました。お手数をおかけしてすいませんでした。どうも、有り難うございました」
「いえ、有り難うございました」
 竹内はホテルを出て、トリオの大阪支店へ向かった。ホテルでは手掛かりは何もなかった。土田に電話があったのは五時前、その後しばらくして銀行を出てホテルに着いたのは五時半。今乗った地下鉄で来たとすれば時間的には問題がない。途中でどこかへ寄ったり長時間人と会っていたことはないと推測される。やはり、ホテルにチェックインしてから出かけ、謎の女に会ったようだ。
 大阪支店はホテルから五分ほどの目と鼻の先にある。南森町を西の方角、梅田に向かい阪神高速の下をくぐって大通りから一歩路地に入る。オクタス天満ビルというまだできたてのきれいなビルだった。ビルの案内板を見てからエレベータで上り事務所に入った。外側もそうだが中もできたてのビルのため壁の白さが引き立っている。デスクや椅子も名古屋と同じように今風の新しいものになっている。当然のことながら名古屋の社員なんか知らない新入社員の女性が「いらっしゃいませ」と言って近づいてきた。
 どう答えていいか迷いながら「あの、名古屋本社の竹内っていいますけど、こちらに名古屋の土田って言う者の荷物が置いてあると思うんですけど・・・」ともどかしそうに尋ねた。
 するとデスクの奥から竹内の同期、稲垣克行がニタニタ笑いながらやって来た。稲垣は愛知県出身だがトリオに入社して大阪支店に配属された。竹内はあまり人嫌いをするタイプではないがこの稲垣だけはどうも好きになれなかった。うまが合わない人間の一人や二人はいるのである。もっとも、竹内だけではなく彼の同期はほとんど彼が好きでない。どうも自己中心的な性格で恰好付けの男で、土田経由の話によれば大阪支店の彼の評判もよいものではないらしい。彼の後輩もかんばしい印象を持っていないそうだ。仕事もやっているような振りをして、思ったほど成果を上げていない。
 稲垣は軽く手を上げて受付に出た社員を戻した。
「竹内君じゃない、どうしたの。大阪なんかにきちゃって」相変わらずねちっこいような話し方だ。
「ああ、土田君の荷物を取りに来たんだよ、あるだろ?」
「そう、わざわざ。でも土田君は突然帰ったりして荷物ぐらいもっていけなかったの?」
 大阪の人間は土田の失踪を知らないので、竹内はまた適当なことを言うことにした。昔に比べ嘘が上手くなった自分が少々恐くなったが。
「ああ、急に家のほうで不幸があったみたいで、銀行から直に帰ったんだよ」
「ふーん」稲垣は少し納得できないような顔をしていたが、そえほど深く物事を考える男ではないので竹内は気にしなかった。
「竹内さんは何しにきたの。ただ荷物を取りに来るために?」
「ああ、大阪に仕事があったから、ついでにと思ってね。土田君に頼まれていたし」
「そう、ちょっと、待って」
 稲垣はフロアーの奥に行き、そこに置いてある黒くて大きなアタッシュケースを運んできた。竹内はそれを手に取り近くの誰も座ってないデスクに置いて中を開いた。
 稲垣は竹内の後ろに回り「俺も見たけどたいした物はないよ」と厭味たらしく言った。竹内はその言葉を無視して荷物を調べた。ファイルに閉じた資料と着替え用の下着とカッターシャツ、靴下がたたんでいれてあり、あとはドライヤーと櫛に歯磨きなどが入っている小さなポーチ、それに紙のカバーがしてある文庫本があった。中身はスティーブン・キングの「シャイニング(下巻)」で土田が好みそうな本だ。ケースのふたの裏側にはボールペンとシャープペンシルがさし てあり、その左側のポケットには名刺が五、六枚ある。そしてそこに黒いケースのような物を見つけた。それは電子手帳だった。土田が半年ほど前に衝動買いした物でいつも身につけていた。黒い電子手帳は使いこなしているのか縁のラバーが少しはがれている。
 ———なぜ、ここに電子手帳があるのだろう。確か土田はいつもこれをスーツの内ポケットに入れ、肌身離さずにしていたはずだ。今は秋だからスーツは必要となる。それより出張で顧客のところにきているのだからスーツは必ず着ていくはずだ。だから、手帳は土田が持っていたはずと思われるのだが、なぜかここにある。たまたま、ここに入れておいて忘れてしまったのか?それとも、わざと置いていったのか?もし、故意に置いていったのなら、なぜとまた疑問が湧いてくる。
 竹内が考えこんでいるので、稲垣は「どしたの」と覗き込んできた。
 竹内は手帳をしまい、アタッシュケースを閉じた。
「それじゃ、これ預かっていくから」と竹内は足早に事務所を出た。
 土田のアタッシュケースは妙に大きかった。通常のケースより幅があるようだ。中身は下着類ばかりなので軽いのだが、いつもだと資料がどっさり入って重いのだろう。
 竹内は電子手帳のことが気になって仕方がなかった。もしかしたら手掛かりになるかもしれないからだ。しかし、いつもなら時々閃く光明というものが今回はまったく無い。いつも何かを忘れているのだが、今は忘れていることさえ忘れているようだった。

         4  11月14日、木曜日、午後5時32分

 竹内は再び地下鉄に乗り、もときた道を戻って銀行に帰った。
 長堀町の駅を出ると銀行の裏が警察署だということに気付いた。繁華街が近いため事件・事故の対応に忙しいのだろうか、制服の警官が往来し、パトカーも赤いシグナルが回っている。よっぽど、このまま警察署に行こうかと思ったが、まだ事態がはっきりつかめない状態なので会社の方針に従うことにした。
 竹内は途方に暮れていた。部長たちの言われるままにここまで来たが、行方不明になった人間を探すのは不可能に思えるからだ。突如姿を消しまったく連絡がない人間をこの大都会の大阪で探し出すなど、素人の自分には無理というしかいいようがない。やはり、警察のような機動力を駆使しなければ出来ないのだ。土田の足取りはホテルで消えている。そこからどこへどう行ったのか、皆目見当もつかない。もし、かれが地下鉄に乗ったと仮定し、改札の駅員が彼を見たと証言しても、どこで降りたか分からない。大阪の地下鉄の駅は百以上あり、また、各私鉄やJRにも接続している。こんな状況下では「ウォーリーを探せ」と同じ、いや、それ以上に難しい。なぜ行き先を誰にも告げなかったのだろうか?やはり、女が絡んでいるからだろうか?女とは一体何者なのだろうか?美和子の話から推測して大阪の人間ではない。いや、出身は他で今は大阪に住んでいるのかもしれない?土田の交遊関係をあたらなければならないのか?いくつもの?が頭を巡っていった。物思いにふけったまま銀行の三階に着くと、祐子たちが出てくるところに出くわした。
「竹内さん、いまから食事に行くんだけど一緒に行く?」まだ六時前だが、多くの人が繰り出す前にと早めに行くようだ。
 当然、この地に不慣れな竹内は「はい、行きます。ちょっと待ってください。これ置いていきますから」と土田のアタッシュケースを部屋のなかに置いてきた。
 祐子と美和子・佐藤、そして日野林という滋賀F社の人間だった。滋賀F社の林はまだ中で仕事をしていた。五人はエレベータに乗り裏口から出て行った。佐藤は前に行く三人から離れ竹内に話しかけてきた。
「どうだった?」佐藤は竹内がホテルへ行ったことの結果をきいた。
「いやー、これといって何も。あっ、そうそう、土田さん、月曜日、電子手帳を持っていましたか?」
「電子手帳?ああ、土田君がいつも持っているやつ。確かね、計算か何かに使っていたかな。そういえば、電話がかかってきたとき出していたような気がするな」
 となると、アタッシュケースの中にあるということは、やはり土田がわざと置いていったのだか。なぜだろう?
「電子手帳がどうかしたの?」
「いえね、さっきのアタッシュケースに入れてあったんでちょっと気になったんで」
「そう」佐藤は電子手帳の重大性をあまり気に留めていないようだ。
 外は薄暗くなりかけていたが、繁華街のネオンは輝き始め、道の遠くまでキラキラしている。歩道には見るからに水商売の女性たちが高いヒールに派手な衣装で歩いている姿と、仕事を終えてこれから景気よくやろうかというサラリーマンが交差している。道路にはすでに違法駐車が横行しだし、運搬用のトラックがいたるところに停車していた。いきかう車も高級そうな黒系のものばかりで、三ナンバーも目立っている。”なにわの33”などのベンツを見るとつい身がすくんでしまいそうになる。
 祐子たちはそんなネオンギラギラのビルの地下に降りた。どうやら中華料理屋らしい。ちょっと高そうなきがしたが今更どうすることもできない。五人は店員の案内に従い丸テーブルに座った。みな、なにがしのラーメンを頼み餃子も三人前注文した。ここで更めて竹内が日野林に紹介された。竹内はさっきまで”ひのばやし”を”ひらばやし”と勘違いしていた。本人もよくそう間違えられると笑っていた。日野林は人事システムのプロジェクトにおいて全体を把握するマネージャー的存在だ。それとともに異動のセクションを重点において各銀行とトリオや他の会社の仲介を行っている。見るからに陽気そうな女性で年齢的には祐子や悦子と変わりないようだ。祐子ともすっかり溶け込んでいて、他の会社の人とは思えない話し方をしている。今は髪を後ろで束ねているが、どこかで見たテレビの女性司会者のような感じがする。話を聞いているうちに彼女が既婚だと言うことを知り、竹内は驚いた。子供はいないそうだが、妻もしながらよくこんな仕事が出来るものだと畏敬の念を感じた。しかも、家は滋賀なのに、ここ大阪や東京、福島、遠くは青森までいくというのだからたいしたものだ。
 まだ仕事があるので当然ビールなどの酒類はお預けだったが、どうやら日野林という女性も相当いける口のようである。祐子の話によればトリオの酒豪・悦子にも勝とも劣らないというのだから恐れ多い存在だ。「今度落ちついたら飲みましょうね」と祐子と同じようなことを日野林は言って、竹内を笑わしてくれた。
 だがさすがに土田の失踪に関しては心中穏やかではなく、そのことに触れると急に深刻な顔になった。竹内の存在の意味も祐子からきいて理解しているらしい。
「真野ちゃんの話によると、竹内さんはなかなかのつわものという話ですけど、部長さんがここへ寄越したという人ですか相当な方とお見受けしますわ」と日野林はあらたまった態度で行った。
「えっ、そんなものじゃないですけど」と竹内は頭をかき照れた。
「それで、どうですか、今のところ手掛かりはあるんですか?」やはり関西弁のイントネーションで話している。
「いえ、それが全く・・・・・・」竹内は言葉を濁した。電話の女のことについてはまだ知らせていないからだ。
「ホテルからプッツリ消息が無くなって、それ以上見当もつきませんよ」
「そうよね。こんな大都会の中で人を探すなんて、並大抵とは思えませんけど」
「どうなんです、最近土田のことで何か気付いたことはありませんか、様子が変だとか?」
「そうね、様子が変と言えば、この仕事をしてからずっと変でしたけど、御免なさい」日野林は苦笑した。
「いいんですよ。みんなそう思っていますから」祐子が助け船を出した。
「でも、最近何か考え込んでいる見たいでしたね。何か心配事でもあったのかしら」祐子と同じようなことを言っている。やはり繊細な女性の目で見ると微妙な変化でも分かるのだろうか。
「土田との付き合いは長いんですか?」
「そうですね、もう一年近くなるかしら。私、最初滋賀に土田さんが来ていたころはほとんど知りませんでした。林君とずっと二人で仕事をしていましたからね。まあ、この仕事になってから一緒にあっちこっち行ったんですけど、私たちの我が儘をきいて、よくやっていただいていると感謝していますわ」
「でも、申し訳ないですね。理由はどうあれ土田がいなくなったことはそちらに多大な迷惑をかけているんですから」
「いえ、正直言ってそう言われるとそうなんですけど。竹内さんが謝られることはないですよ。それに、土田さんも何か特別な事情があったのだと思います。何も連絡無く姿を消す人とは思えませんから。仕事の方はこっちの銀行の場合だいたい詰めに入っているんでいいんですけど。それに佐藤さんもいてはりますから。ただ北邦の方がまだまだこれからですからね。でも、そんなことより土田さんの身の上のほうが心配ですよ。一年も仕事をやっていると気心が知れて、ビジネス上というよりも親しい友達という気がして、気に病みますわ」本心からそう言っているようで竹内は嬉しかった。
「それで、竹内さんはどうなさるおつもりですか?」
「そうですね、これ以上大阪にいてもどうにもならないような気がするんで。どうも土田はここ、大阪にいないんじゃないかと、そんな気がするんですよ」
「それはまたどうして」と古田がきいた。
「うん、これといって理由が有るわけじゃないんだけど、ただ漠然とそんな気がするんだ。特に連絡がないとうことは何か連絡をも取れない状況に陥っているんじゃないかと思うんだよ。だか、何か確証のある手掛かりをつかまなければならないと考えています。それで土田はここへ来る前、滋賀に寄ってきたといいますから、その間に何かあったんじゃないかと思うんで、明日は大津に行ってみようと思うんですが」
「そういえば、月曜日は土田さん大津にいたわね。何かの書類を佐藤さんに渡していたっけ」佐藤とは滋賀F社のチーフである。「昼ごろまでいてこっちへ来たのかしら」
「その時、何か変わったことはありませんでしたか?」
「いえね、午前中は会議ということであまり土田さんとは話していませんの。ただ、うちの佐藤とは随分長く話をしていたみたいですけど。向こうへ行ったらうちの州崎か野田にきいてみたらいいと思いますわ。二人とも土田さんとは仲がいいし、その日も一緒に仕事をしていましたから」
「そうですか、そうさせてもらいます」
「それじゃ、今日はどっかで泊まるんですか?」
「ええ、できれば」
「でも、大阪で宿を取るのは大変だぞ。俺もやっとのことで東興ホテルを取ったんだから。そうじゃなきゃあんなところに泊まんねえよ」佐藤は少し怒ったように言った。
「そうそう、私も美和ちゃんもこの近くの朝日プラザなんだけど何週間もまえから予約して何とか泊まれる状態なんだから、いまからっていうのはかなりきついわよ」祐子も呆れたように言った。
「そうなんですか。東京並ですね。それは、困ったな」
「JRの駅なんかでも予約を取れるけど、時間が時間だからね。なんだったら、大津で泊まったら。どっちみち明日は行くんだからさ、朝ラッシュに巻き込まれるのより、今のうちに、と言っても今も多少のラッシュか、まあ運がよければ大阪から座れるかもしれないし。向こうにしてみたら。加藤君がいるからさ、連絡して宿が取れないか後ですぐにきいてみるよ」と佐藤が提案してくれた。
「そうですね。その方がいいかもしれませんね。そうしますわ」
 五人のラーメンと餃子が運ばれてきた。しばらく食べることに没頭し空腹を満たした。やや、時を経てから竹内が日野林にきいた。
「林さんは一緒に来なかったんですか?」
「ええ、いろいろ忙しくて、後でいいと言ってましたから」
「でも、林さんはお若いのに立派ですね。私と同じくらいの歳なのに責任者なんて」
「いえね、恥ずかしい話なんですけど、林の上にもう一人山本というのがいたんですけど、真野ちゃんたちも知らないわね。土田さんしか会ったことないと思うんだけど。その山本というのが、その上の人とうまくいかなくてね、いきなり辞めちゃったの。それで、林君にすべて振りかかっちゃって、私も可哀相だとは思うんだけど、仕方がないわね」日野林は屈託の無い性格なのか身内の話をペラペラしゃべっている。
 竹内は遠慮がちに餃子を食べながら、土田はどこで何を食べているのかとふと思った。
   

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