このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

人事システム殺人事件 〜複雑な連鎖〜


第三章  電子手帳の謎

         1  11月14日、木曜日、午後8時46分

 七時前に銀行を出発し、人と車がごった返すネオン街を抜けて心斎橋から地下鉄御堂筋線に乗り梅田へ。梅田から大阪駅へ乗り入れ、今はJRで大津へ向かっている。新快速に乗ったが大阪始発ではないので座れなかった。朝のラッシュほどではないが、帰りを急ぐサラリーマンやオフィスレディ、学生たちでほどほどに混んでいる。土田のアタッシュケースがうっとうしかったがいたしかたがない。
 結局、竹内は大津で泊まることになったのだ。佐藤が大津の滋賀F社にいる加藤に連絡し、加藤が自分の泊まっているホテルへ問い合わせたところキャンセルが一つあり、シングルルームに泊まれることとなった。折り返し加藤の連絡を受けてから竹内は慣れない大阪の道を教えてもらい、一路琵琶湖へ向かったのだ。
 さすが新快速だけあって二十分もすると京都が見えてきた。といってもすでに真っ暗、見えたのは京都タワーの明かりだけだった。先日テレビで京都駅ビルを高層化するという問題を取り上げていたが、竹内も高層ビルには反対の気持ちであった。折角の古都、京都なのだから、千年のままの歴史を残したほうがいいと思う。戦後に建築されて何十年もたった京都タワーでさえよく考えれば古都にそぐわない気がする。しかし、そのタワーも今では京都のシンボルの一つになっている。もし駅ビルができ、何十年かたてば受け入れられてしまうのだろうか?戦争時米軍でさえ日本の歴史は残すべきと空襲を控えた都を日本人自らが破壊してしまうのはどうしても理解に苦しむ。もちろん、竹内自身それほど京都や古い寺院に興味が有るわけでもないが、全国各地に発生している乱開発に疑問を持つゆえに、京都に関しても納得がいかないのだ。また反対する寺院関係の人々も大人げない気がする。駅ビルの構築以前にあったホテル問題で、拝観停止とかの処置を取っていたが、本当に道徳的な考えで反対しているのだろうか?はっきり言って仏教の悟りに反していないのか?そもそも寺や神社に参拝するのになぜ金を取るのだろう。確かに、観光客が多いだけあって、それなりに経費はかかるかもしれないが、自分の近所の寺や神社では拝観料なんか取るところはない。第一、それだけ多くの人々が訪れるのだから賽銭だけで十分ではないのだろうか。それでも足りないのなら国や行政がカバーできないのか。近頃各地で巨大な大仏や観音様を作って金儲けをしようとする施設がある。それらは、完全に宗教の道から逸脱している気がする。こんなところにもバブル経済の余波が来ているのだろうか?まあ、竹内自身威張れるほどの信心深い人間ではないが、同じ日本人として悲しくなる。
 京都を過ぎると長いトンネルに入り出た途端大津に着いた。大阪から三十分あまりで着いてしまった。思ったより早い。大津駅は滋賀県の県庁所在地としてはとても小規模な駅である。名古屋近郊の普通しか止まらないローカル駅と変わらない。大津自体がそれほど大きな町ではないのだ。街としてもはなやいだ感じもないし、どちらかと言えば、草津市の方が大きな町になっている。草津と言っても「草津よいとこ一度はおいでジョイナ、ジョイナ(古いギャグ)」の草津ではない。土田など温泉の町・草津と勘違いをして大恥を掻いたことがある。また、滋賀県自体あまりメジャーとは言えない。昔、ニュースステーションでやっていた地図上で場所探しをするコーナーを滋賀県でやってみたら半数以上の人が間違えるだろう。まあ、滋賀県を知らなくても琵琶湖ぐらいは誰でも知っているだろう。滋賀県は面積はほどほどにあるのだが、実際の陸地は少なく面積の六分の一を湖に取られ、周りはすべて山地(滋賀に海はないのだ)、その山と湖の間の狭い平地に人々住んでいる。そのためか、京都・大阪に近いわりに発展が遅れている。新幹線だって大津には駅もなく、北陸本線利用のためだけに米原に停車するぐらいだ。米原がなければ新幹線は名古屋から鈴鹿山脈を突き抜けて京都へ至ってただろう。(岐阜羽島などもともとなくてもよかった駅なのだ。地元政治家のごり押しの力だけで作られた駅だからだ)滋賀県と言えば後にも先にも琵琶湖だけ。それゆえ、観光しかやっていけない面もある。竹内はやはり滋賀は琵琶湖のイメージしかない。大津という町もこんな事件さえなければ、思い出さないような土地なのだ。確かに最近では信楽鉄道の脱線事故やお化けビルの爆破など記憶に新しいものもあるが、印象の乏し町だ。
 駅前もやはり寂しい。小さなロータリーとバスターミナル、また、パルコ的なファッションデパートが一件あるだけだ。佐藤が書いた案内のメモに従い駅を線路沿いに京都方向へ向かって、小路に入る。すると、小さな看板だが明かりのついた「湖月」というビジネスホテルが目に入った。外側から二階に上がるとフロントがあり、男のフロント係が、やけに愛想のいい顔で迎えてくれた。
「いらっしゃいませ」
「あの、さっき加藤という者から連絡があったと思うんですけど。竹内と言いますが」
「竹内様ですか、承っております。恐れ入りますがこちらにお名前と御住所だけで結構でございますので、お願いいたします」
 係は宿泊表とボールペンを渡した。竹内がそれを書いていると
「加藤様のお知り合いということは、土田様と同じ会社の方でいらっしゃいますか?」
「ええ、そうですけど。土田を御存じなのですか?」
「はい。いつも土田様にはお世話になっております」
 係が土田の名を知っているというのはすごい。土田はこの湖月というホテルがとても気に入っていた。仕事場の滋賀F社からは少し距離があるし、他に同タイプのビジネスホテルはいくつかあるのだが、土田はいつもここに泊まっている。後から来た佐藤や加藤にもここを勧めていた。ホテルにとっては土田様様だ。
 竹内は宿泊表を書き終え、係に手渡した。
「はい、有り難うございます。朝食はお付けしますか?」
「いえ、結構です。自分で食べますから」
「はい、承知いたしました。三階の五号室でございます。こちらがキーでございます。あちらのエレベータを御利用くださいませ」
「あっ、どうも」
 エレベータに乗り扉が閉まりかけると係は「お休みなさいませ」と深く一礼した。礼儀作法が素晴らしいホテルで土田が気に入るのも分かる。
 部屋は狭いながらもこざっぱりしていて清潔感がある。竹内はスーツを脱ぎ捨てすぐに浴室に入りシャワーを浴びた。着替えは持ってきていないから、気持ち良くないが今日のをそのまま着なくてはならない。ここは浴衣ではなく最近の健康ランドによくあるローブタイプのものがあった。一服してからテレビをつけた。まだ時間的にローカル番組は放送しておらず、名古屋で見るものと同じだった。ただ、CMだけは大阪のもので、笑福亭鶴瓶の「うまいものはうまい」という焼肉屋のCMが何度も放送され頭にこびりついてしまった。Hチャンネルもあったが、今はそんなものを見る気にはならなかった。どのみち、帰り際フロントで料金を払うのは恥ずかしい。昔の百円玉ちゃりんが懐かしい。フロントに電話をかけ、加藤が戻ったら連絡をくれるようメッセージを言づけしておいた。
 竹内は廊下の自動販売機でオレンジジュースを買い、ニュースにテレビのチャンネルを合わせた。土田が関わっていそうな事件などあるわけもない。ふと思い出したように土田のアタッシュケースを持ってきて中から電子手帳を取り出した。
 コンピュータ業界にいるのにこの手の機械は少々苦手だった。今ではワープロぐらいは打てるのだが、最初はてんてこ舞いの状態だった。その上、説明書もないのにこの小さな機械を扱うなんて、よく使いこなせるものだなと感心してしまう。自分はもっぱらシステム手帳で書いている。その方が使いやすいのだ。電子手帳のふたを開けると上部にスクリーンと横長のキー、下部は数字、アルファベット、平仮名や記号などのキーが並んでいる。どうにかごちゃごちゃ触っているうちに操作も理解できた。スクリーンの下に機能を選択するキーがある。
「電話」というのを押すと、青山真治・伊藤賢司・荻須克也の三人の名前だけが縦に並んで表示された。試しに「表示切換」というキーを押すと、思った通り青山真治の名だけが残って、その住所・電話番号が表示された。右側にあるスクロールキーを押すと次々と名前が変わっていく。佐藤寿晃や加藤共生、自分の名前が現れた。どうやら同期や会社の人たちの名が登録されているらしい。もちろん、竹内の知らない土田個人の友人の名もあった。
 続いて「名刺」のキーを押す。今度は会社の名前が表示され、「切換」を押すと、住所、電話番号、相手先の名が現れる。F社関係や銀行、小西砕石等が流れた。
「メモ」にはバスや電車の時刻表、大阪・大津・福島のホテルと電話番号等が記されている。それ以上気になるものは何もなかった。
「スケジュール」には土田が、いつどこへ行ったか細かく書かれている。大阪と福島を行ったり来たりというのがよく分かるし、随分昔まで逆上るとスキーの予定や飲み会の予定までも記されていた。
 あとはカレンダーに時刻、世界時計などあまり意味がないものしかない。ただ一つ気になったことがあった。カレンダーの日にちの隣に小さな印が表示されているものがある。どうやら、その日のスケジュールがあると表示されるらしい。午前に予定があると日付の数字の右上に、午後だと右下に現れる。時間をスケジュールに登録していなければ両方現れる。しかし、数字に印が表示されているのにその日のスケジュールを見ても登録されていない部分が二箇所あった。なぜだろうとしばらく考えて、あることに気付いた。機能選択のキーの右下に鍵のマークのものがある。それを押すと「パスワードは?」と表示された。この電子手帳にはシークレット機能があるのだ。あるパスワードを入力しなければ見ることが出来ないデータがあるのだ。つまり、スケジュールの中にシークレットのデータがあり、カレンダー機能の時にはスケジュールがあるという表示だけされているのだ。となると、電話や名刺、メモにもシークレットのデータがあるのだろう。竹内は興味本位もあってそれらが見たくなった。試しに「土田」とか「土」とか「道」などを漢字・平仮名・片仮名で入力してみたが、どれも「パスワードが正しくありません」と表示されるだけだった。まあ、会社の人間が分かるようなパスワードを土田が設定するはずはない。いつ誰が見せてくれと手帳を奪うかもしれないからだ。パスワードはあきらめて、さっき見た「電話」に登録されている人物のうち一人気になった人があったのでもう一度探してみた。それは、林英樹という人物で気になったのは彼の電話番号が他の人とは異なって数字が縦に小さくなり二つに分かれていた。一つは「052」から始まり、もう一つは「06」から始まっていた。「06」は大阪の市外局番である。住所は名古屋なので多分土田の同級生で、今は大阪にいるのだろう。もしかしたら彼が何かを知っているかもしれないというわずかな期待を持ちながら、電話をかけてみることにした。電話はすぐに出た。
———もしもし、林ですけど。
 大阪訛りがあるようなないような話し方だ。関西系以外のの人でも大阪に住めばそれなりに影響されるのだろう。
「あの、私、竹内と申しますが、突然何ですけど、土田さん御存じですか?」
———土田?ああ、知っていますけど、高校時代の同級生ですが、彼が何か。
「ええ、私は彼と同じ会社に勤めている者なのですけれど・・・・・・」竹内はどう説明しようか迷った。あからさまに行方不明になったというのも何だし、嘘をつくのもいい口実が見つからない。仕方がないので本当のことを大げさにならない程度に話すことにした。さすがに林も土田が失踪したことには驚いていた。
「それで、林さんが大阪にいるというのを彼の手帳で知りましたんで、何か連絡などはないかと思って電話をしたんですけど」
———そうですか、私の方には何も・・・ん・・・チェリーがね〜。
「えっ、今何か言いました?」
———あっ、いえ、こっちのことです。
「チェリルとか言いませんでしたか?」
———はっは、すいません。ついあいつのあだ名を言ってしまったんですよ。高校の時ずっとチェリーって言われていたもんですから。今でもついついそう呼んでしまうんです。
 土田は高校時代、当時流行っていた高橋留美子の「うる星やつら」に出てくる“錯乱坊”に似ていると一人の友人に言われたために、それから皆に「チェリー」と言われるようになってしまったのだ。あだ名などたいした理由もなく付いてしまうものだ。今、会社で呼ばれている「ツッチー」でさえ伊藤賢司がふと言いだしたために広まってしまったのだから。
「夜分遅くすいませんでした。もし、何かありましたら、土田さんの会社まで連絡を下さい。会社の番号は・・・」
———ああ、知っていますよ。名刺をもらってますから。
「そうですか、それでは失礼します」
 結局何もなかった。竹内は今日はこれ以上考えることをあきらめ、眠ることにした。

         2  11月15日、金曜日、午前0時9分 

 ホテルの裏はJRの線路が走っているので少々うるさかったが、徐々に眠りに入りかけウトウトとしているといきなり電話が鳴った。頭の上にある受話器を手で探し、ベッドの中まで受話器をもぐり込ませた。
———もしもし、竹内さんですか、加藤です。寝てました?
 怒鳴るような大きな声が受話器から響いた。
「ああ、・・・加藤君か・・・今帰ったの・・・いったい何時なんだ?」竹内は寝ぼけた声で答えた。
———十二時過ぎですけど。
「何、そんな遅くまで働いているのか?」
———そうですよ。ほんとに、毎日、毎日、こんな時間まで働かされて、いやになっちゃいますよ。
「大変なんだな。それでさ、明日、もう今日か、滋賀F社に行くから、朝、下で待っててよ。何時ぐらいに行くの?」
———いつも九時に着くように出かけてますけど。
「それじゃ、話したいこともあるから、八時半ごろロビーで待っててくれ、いいか?」
———いいですよ。それで、土田さんの・・・・・・。
「おやすみ」竹内は今は眠ることに専念したいので、加藤との話を中断して受話器を置いた。そして、再び深い眠りについた。

 翌日竹内は七時に目を覚まし、シャワーを浴びてスーツに着替えてから外に出た。今日の新幹線の時刻を調べるのと、朝食のパンを買うのが目的だった。昨日は夜遅かったので止まっていたのか、今は駅前に音楽が流れている。昔行った富良野と同じだ。それは、加藤登紀子が歌っていたと思われる「琵琶湖周航歌」だ。こんな小さな町にも全国に通じるような有名な歌があるのが竹内にはうらやましかった。竹内の住む常滑はもちろん、名古屋にも有名な御当地ソングなどほとんど無い。天知茂が広小路何とかという歌を歌っていたが、メジャーな歌ではない。
 駅の構内に聞いたことのない名前のコンビニがあった。国鉄からJRに民営化された時に作ったものらしい。竹内はパンとおにぎりを買った。朝食らしいと言えばそれまでだが、要は金の問題なのだ。トリオは出張に対し、一律八千円の宿泊費しか出さず、日当はない。普段会社にいるときは、弁当でも外でも個人の勝手だが、出張に行けば必ず三度三度の食事は外食にしなければならないのだ。全く納得がいかない。第一、会社はF社などに請求書を出す場合、日当という項目でちゃんともらっているのに、その金は一体どこへ行くんだ!とにかく、今は安いホテルで質素な食事を取らなければならないのだ。
 ホテルに戻りいつものようにズームイン朝を見た。毎日見ているのと変わらないが、唯一天気予報の時だけは近畿地方の天気となり、シンボウちゃんとかいうアナウンサーが今日の天気をリポートしている。大阪にいるんだな思ってしまった。
 八時半になったので二階のロビーへ降りた。ちょうど加藤がチェックアウトの手続きをしているところだった。今日は金曜日なので加藤も名古屋に帰るのだ。今朝は体格のいいおばさんがフロントにいた。竹内もチェックアウトして、二人は「有り難うございました」という声に送られ外に出た。京都に近いせいなのか秋の早朝は少し肌寒い。コートを持ってきていなかったのでなおさらだ。
 ホテルから滋賀F社へは駅前から続く商店街の道を真っ直ぐ行ったところだ。都会の名古屋と比べても仕方がないが、朝の割にはそれほど人が多くない。
 加藤は何かききたそうな顔だったが、竹内は黙っていた。しばらく歩いて「少しぐらい遅れてもいいんだろ?どっか喫茶店でも入って話をしようか」と切り出した。
 名古屋に比べると非常に喫茶店が少ない。やっとのこと十字路の角にあるプランタンという店を見つけ中に入った。
 今で言うカフェというよりは純喫茶と言った方がいいような少々古めかしい喫茶店で、麻雀のテレビゲームや見たこともないテーブルゲームが置いてある。客も三人くらいで寂しいものだ。二人はモーニング付のコーヒーを頼み、向かい合って座った。
「で、どうなんです。土田さんは見つかったんですか?」
 竹内は両手を上げるジェスチャーをした。
「またまたまたまたまた、竹内さんのことだから、もう何か見つけたんでしょう」加藤はいつもの口調で言った。
「それが全くないからここまで来たんじゃないか」
「そうなんですか。竹内さんが登場したって聞いたから、もうこれで解決と思ったんですけどね」
「そう、俺を買いかぶるなよ、人捜しなんて、素人なんだから」
「何を言っているんですか。そんな謙遜しちゃって、竹内さんは名探偵じゃないですか。夏の内海の事件だって見事に解決したし、吉田さんも竹内さんのこと尊敬していましたよ」
「あれは、まあ、まぐれだよ。吉田さんがいたから解決できたんだよ。そのことはさておき、月曜日の土田君の行動は知っているかい?」
「いえ、僕は火曜日にこっちに来ましたから、朝、出かけていく土田さんを見たのが最後ですけど」最後という言葉が竹内には気に食わなかった。
「最近、変わった様子はなかったの?」
「まあ、様子が変と言えば、この仕事をしてからずっと変ですけど最近は普通でしたよ」
 この加藤という男、典型的なB型気質の男で、陽気であかぬけた奴だ。それゆえ、祐子たちのように最近の土田の変化に気付くような繊細な心は持っていないようだ。体はでかく髪もいつもさっぱりしていて、いつも眼鏡を気にし、少しでも緊張すると額に汗をかいている。スキーとマンガと食べることが大好きで、この三つさえあれば生きていけるらしい。だが、今回の仕事に関してはかなりダメージを受けていた。いきなり早野から仕事をするように言われ、土田と打合せした後、その日名古屋に来た滋賀F社の州崎に会って、わけの分からないまま幸徳銀行の研修を担当する羽目になった。その時から連日連夜、悪戦苦闘の末、今日まで何とかやってきたのだ。 竹内は電話の女のことをどう話したらいいかここでも迷った。相手が加藤なのであまりはっきりとは話したくないのだ。
「あのさ、土田君はこっちに知り合いはいなかったのかな?」
「知り合いですか?さあ・・・、よく土田さんは冗談で京都と大阪と福島に女がいるとか言ってましたけどね」
「そう」これ以上加藤にきいても仕方がないと思って、話を切り上げることにした。
 コーヒーとトーストが来たので話を中断した。加藤は手近にあったマンガ雑誌を取り、読みながら食べはじめた。テーブルのゲームが同じ動きを繰り返している。竹内が今日まで見聞きしたこともすべて同じ繰り返しのような気がしてきた。

         3  11月15日、金曜日、午前9時15分 

 竹内は加藤に付いて滋賀F社の分室に入った。本社はさっきの喫茶店の斜め向かいにあるビルの五階にあるが、銀行関係の仕事を受け持っている人たちはS銀行の敷地内にある別棟のビルの三階で仕事をしている。
 事務所は絨毯のひいてある明るい清潔感のある部屋だが、机の上は資料や書類が積まれて雑然としているが、書類棚等の管理はきちんとなされていて乱雑さは感じない。十人ほどの人が仕事をしている。キーボードをたたくカタカタという音が伝わってくるが、ソフトハウス特有の無機質なイメージはない。それは、女性社員が制服ではなく私服なのも、その理由の一つだ。部屋の広さはトリオの七階と同じぐらいだが、机がぎっしり詰まっており、その奥に端末が十台ほど並んでいる。端末のデスクもコンピュータの作業に適した機能机だ。端末の本体とプリンタはここからは見えない奥の別室にある。F社関係だけあって環境的にはトリオと比べ物にならない。加藤はいつも座っている席に行き、荷物を置いて座った。顔なじみなのか周りの人に挨拶をしている。そのうちの二人が近づいてきて、かたわらに立つ竹内にも会釈をした。
「竹内さんですか」一人の男が尋ねた。
「ええ、そうですが」
「私は州崎といいます。こっちは野田といいます。日野林から話は聞いていますので、向こうで話をしましょうか。加藤さんは?」
「私はいいです」加藤には珍しい遠慮深さだ。
「そうですか、では、あちらへ」二人は竹内を奥のガラスで仕切られた部屋へ案内した。その部屋からは線路と道路をはさんで琵琶湖が一望できた。一望と言っても日本一の湖である。向こう岸まで見えるはずもない。曇った霞の中に琵琶湖大橋が望めた。琵琶湖大橋は湖の西側と東側を結ぶ有料連絡橋で琵琶湖の最も狭い部分、大津市堅田と守山市今浜を結ぶ、長さ千三百五十メートルの橋だ。
 琵琶湖の景観、美しさというのは古くは、室町時代に中国・洞庭湖の瀟湘八景にならって選んだ近江八景、近代ではその近江八景が時代とともに崩れたため昭和二十五年に琵琶湖八景を選定したことからもうかがえる。(ちなみに近江とは奈良が都のとき、都から近い淡い海から近江となった。ついでに遠き淡い海、遠江とは浜名湖のことである)だが実際の湖、特に目の前の浜大津港付近の水質は見るに忍びない。ゴミと赤潮、底に溜まるヘドロのせいで、名古屋の堀川と大差なくなってきた。琵琶湖から流出する川は瀬田川のみでその瀬田川が宇治川、淀川となり大阪方面の水瓶になる。これでは、加藤千尋たちが、水が不味いというのも納得できる。
 その港には巨大な船が停泊していた。ミシガンとビアンカという外輪汽船を模した遊覧船で琵琶湖の南側を一周する。また、夜はミシガンでナイトクルーズが運行され、近江牛をメインにしたフランス料理の豪華なディナーが味わえる。
 三人は席につき、あらためて名刺を交換した。今回、何枚名刺を交換しただろうか、そろそろ持ち合わせが乏しくなってきた。二人ともかなり体格のいい大きな男である。野田の方はがっしりした感じで、人の良さそうな優しい雰囲気があり、特に目がそれを物語っているようだ。髪も短めに刈っていて座禅でもすれば大仏様のようにも見える。性格ものんびり者のようで、上方芸人のようなはやしまくる大阪弁とは違い、スローな話し方だ。後から聞いた話によると見た目とは違い体が弱いそうで、今も空気のいい滋賀の田舎から通勤しているそうだ。名刺には「亮」と名が印刷されていたが、ローマ字の振り仮名には「たすく」と書かれていた。たすくと言う人がコンピュータ業界で働いているなんて冗談みたいな話だ。
 一方、州崎英喜の方はがっしりしているというよりは、太っているといったほうがよく、少々威圧感をおぼえる顔つきだ。普段は陽気に振る舞っているのだが、仕事となると結構厳しいところを突いてくる。そのギャップの凄さに加藤も苦慮しているそうだが、二人とも親切で冗談の通じる人物だ。
「早速ですが、土田さんの件はどうなっていますか?」州崎のほうが質問した。竹内のことを知らない彼らにとって、なぜトリオの人間が調べ回っているのか不思議に思っている表情が竹内には読み取れた。
「今のところは何も。所在はもちろん手掛かりもほとんどありません。当然、連絡などもまだありません」
「そうですか」野田は悲しそうな顔をした。
「それで、確か月曜に土田はこちらに見えたと聞きましたが、その時変わった様子とか、何かありませんでしたか?」
「あの日はいつもと変わりありませんでしたけどね。十時過ぎに見えて打合せとかした後、一緒に食事に行って別れたんですけど。野田はどうや?」
「ええ、私もこれといって気が付いたことはありませんが」
「その時、どこかへ寄るとか、誰かに会うとか言っていませんでしたか?」
「いえ、別に。これから大阪へ行くだけだと」
「あの、土田はしばらくこっちで仕事をしていたんですよね、知り合いとかいなかったんですかね」
「まあ、そのへんのプライベートなことはよくわかりまへんけど、いつも遅うまで仕事をしてはったんで、出かけるような時間はなかったと思いますよ。ただ、うちが水曜の定時退社日の時なんかは、京阪で三条ぐらいにはいってはったみたいですけど」
 大津から京都の繁華街・三条まで京阪京津線が通っている。一部路面を走る二両編成ののんびりした電車だ。
 ここでも、それほどの収穫はなかった。結局、土田は誰にも何も話していないのだ。
 二人との話を終え、竹内は加藤のところに戻った。加藤はまだ年若い、おぼこい感じの男と話をしていた。
「ああ、竹内さん、話は終わったんですか?」
「ん、ひとまず」
「あなたが竹内さんですか、日野林から話は聞いています。こちらへは土田さんのことで?」こてこての大阪弁でしゃべっている。
「ええ、そうです。土田を御存じで?」
「はい、いろいろ今回の作業ではお世話になっていますから。あっ、申し遅れましたが、私、大西と申します」
「それなら、月曜日、土田が来たと思いますが何かお気付きになったことはありませんか?」
「そうですな、あの日はあまり、土田さんとは話をしなかったんでこれといって気になることはありまへんでしたな」大西は、何か複雑な表情をしていた。
「それでは、早く土田さんが見つかることを願ってますわ。それじゃ、加藤さん、また後で」大西は軽く笑ってその場を去った。
「今の人もMTS関係の人?、随分若い感じだけど」竹内は加藤に尋ねた。
「ええ、そうですよ。大西さんは州崎さんたちよりも若いんですけど、入社が先でハードなんかには詳しいんですよ。MTSでもその変の環境周りや難しいシステムを見ているんです」
「そう」竹内は加藤の仕事を覗いてみた。竹内にはさっぱり分からないプログラムだ。一年にもなっていない加藤がここまで出来るなんて大したものだと思う。
 その時、野田が竹内に声をかけてきた。
「すいません、うちの佐藤がお話したいってゆうてますんで、申し訳ないですが、もう一度あちらへお願いします」
 ついに元締めの登場である。祐子から話を聞いていたが、佐藤こそこのプロジェクトと総責任者で、悪の権化、諸悪の根源と言ってもいい。彼の思いつきの一言でどれだけの影響が出たか、本人は全く気にしていない。彼のエピソードはいろいろある。その中でもすごいのが、山田悦子が夜中に打合せした話だ。悦子が夜遅くホテルについたところ、銀行に呼ばれたのだ。悦子はその日そのまま寝ようと思ったのに、まさに寝耳に水だ。十二時になると銀行は閉めなければならないので、その打合せは夜中の二時まで宿泊しているホテルのレストランに席を移した。その場でも酒を多少飲みながら、最後にはメモするものがなくなり、レストランのナプキンに書く始末となった。なんちゅう人や。仕事の面では厳しい佐藤もオフの時にはわりとラフな感じらしいがかえってそれが中年のいやらしさをかもしだしていて、女性陣は一歩離れる思いであった。早野との繋がりも彼がその一端である。
 竹内がさっきの席で待っていると眼鏡をかけたパーマの髪形をした男が入ってきた。さすがに責任者だけあって今まで出会った人よりも年配だ。とは言っても三十をちょっと過ぎだぐらいだろうか、これで肩書きのないいわばヒラの人間である。トリオに入社していたら、とっくに部長扱いになっているのだが、一流、いや一般の会社ではこれが常識なのだ。
「佐藤と言います」と、名刺を取り出した。竹内も最後の名刺を差し出した。
「竹内さんですか、今、野田のほうからききましたけど、土田さんの消息は全くつかめないということなのですね」低い響きわたるような声だ。どうよら関西出身の人ではないらしく、なまりがあまりない。
「ええ、そうです。今のところ何も手掛かりはありませんが」
「ん、このままですと、大変問題なんですけどんね。まあ、幸徳のほうは何とかなるでしょうけど、北邦のほうがまだこれからですから。今、土田さんがいなくなるということは非常に困るんですけど」
 そんなことを言われても竹内にはどうすることも出来ない。どうやら、この佐藤という人物、他の人とは違って土田の身のことをあまり気にしておらず、作業の進捗状況に目が行っているようだ。
「以前にもトリオさんではいろいろあったらしいですけど、今回の仕事までそうなってしまうというのは、お客さんに対してもいい印象を与えなくなってしまうんでね。今後MTSのほうも大きく展開させていきたいんで、何とかしなければいけないんですがね」
 過去にトリオで起きた事件についてはマスコミでも多く取り上げられていたので、知っていてもおかしくないが、この場であからさまに言われるとさすがの竹内もムッとしてしまう。相手はそれに気付かないのか話を続けた。
「この先、どうなるかわかりませんがなんとかいい方向に持っていってもらいたいのですが、メドは立つんでしょうかね」
「メドと言われましても、私のほうももう少し調べてみないと何とも言えませんが」
「そうですか、まあ、来週早野部長さんにこっちへ来てもらうことにしたので、その辺はその時に話すことにしますか。まあ、とにかく竹内さんは土田さんを見つけることに努力してください。他に何か?」
 竹内はこの男には質問する気が無くなってしまったので「別にありません」と答えただけで話は終わった。
 土田たちの気持ちが少しだけ分かり始めた。もし、土田の失踪が仕事が原因だとしても、責められないような思いになっていた。

         4  11月15日、金曜日、午後12時3分

 竹内がSFLにいたところで何もすることはない。午前中、加藤の仕事を見ているふりをしながら、土田の電子手帳をなぶったり、SFLの人の様子をなにげなく見て無為な時間を過ごした。昼食は州崎、野田、加藤と共に「かど萬」という焼肉屋へ行った。この店は一階は肉屋で二階が食事処になっており、近江牛を食べさせてくれることでガイドブックに乗るほど有名な店である。夕食ならステーキでもいいのだが、昼間と金銭的な問題も考えて、ランチタイムのハムステーキを注文した。加藤は当然ライスを大盛りにしてもらい、いまこそ至福の絶頂という表情でむさぼり食べていた。州崎は野菜が駄目なのか、添え物のキャベツや漬物にはいっさい箸をつけずにいた。後で聞いたところ、彼はナマモノが全く駄目なそうだ。それでよくそこまで大きくなれたなと不思議に思ったが、人間の好き嫌いなど成長に関係ないようだ。そういえば、大阪の東も生物が駄目だといっていた。特に湯豆腐は食べれて冷奴は食べれないという話には開いた口が塞がらない。もし、この二人が結婚でもしたらどんな食生活になるのだろうか?
 SFLに戻るとまだ昼休みの時間が残っているので、州崎たちは事務所に置いてあるパソコンでゲームを始め、竹内もそれを覗き込んでいた。「コラムス」というテトリスを発展させたゲームだ。
「今、こんなものが有るんですか。知らなかったな」
「ああ、これは作ったんですよ」
「すごいですね、州崎さんがですか?」
「まさかまさか、こんな複雑なもの私には作れまへんよ。今は辞めなはったんですけど、前にここにいた人が作って、あとは大西さんが手直ししはったんです」
 いつの間にか後ろに大西が立っていた。あまりスーツが似合わない、まだ青年という顔つきで微笑んでいた。
「そうなんですか」竹内が敬服しているような眼差しで大西を見つめると、大西は「たいしたことないですよ」遠慮がちに首を振っていた。
 こういうものが作れる人の脳味噌を見てみたいものだ。きっと自分とは違う複雑なメカニズムなんだろうと竹内はひねくれた思いを考えた。
 竹内は昼休みが終わると州崎たちと別れ一人名古屋へ向かった。大津から京都まで戻って、新幹線のこだまに乗った。こだまは空いていて余裕で座れ、一時間ほどうたた寝をしてしまった。名古屋というアナウンスに飛び起き名古屋で降り、会社には三時過ぎに着いた。
 早野はいなかったが、野尻が在席していたので一応今までの経過を報告した。手掛かりなしと言ったところ「ごくろうさん」と言われ、あとは「今後も頼む」と付け加えられたので、竹内は女のことで文句でも言おうかと思っていたが、何も言わずに退いた。ただし、来週の月曜日になったら、捜索願はきちんと出すよう念を押すことだけは忘れなかった。
 退社時間まで六階に居すわってたが、桑原たちがいろいろきいてきてのんびり出来なかった。ただ、答えは「手掛かりなし」という、一言の繰り返しで通した。
 退社時間となり竹内はさっさとタイムカードを押して、土田のアタッシュケースを持ったまま駅へ歩いた。まだ家に帰るのは早いような気がした、というよりは、早く帰っても飯の用意など出来ていないので、少しデパートをうろつくことにした。ユニモールから地下鉄の南改札へ周り、名鉄の地下街へ入った。そのまま近鉄百貨店を通ってメルサでも行こうかと思ったが、名鉄の改札口前であるものが目に入った。少々季節遅れのサクランボの特売セールだった。それを見た時、“サクランボ = チェリー”という言葉が脳裏を過った。今年の冬の「乗鞍高原偽装心中事件」の時にもニックネームが重要な鍵だった。そして今回もかと、そういう思いが竹内を急に帰路へ急がせた。列車はほぼ満員でアタッシュケースを開けることが出来ない。三十分もの時間が焦れったかったが、家に着き着替えるのも惜しんで、土田のアタッシュケースから電子手帳を取り出した。
 最初に「チェリー」と片仮名で入力したが「パスワードが正しくありません」と表示された。続いて平仮名で入れたがだめだった。やはり駄目なのかと疑念を感じながら、今度は英語の大文字で「CHERRY」と入力してみた。その時の喜びというのは、先日の菊花賞を当てた以上の喜びだった。ついにパスワードが開いたのだ。スクリーンに、「正しくありません」とは表示されず、今までとは違う人の名前が表示されていた。
「電話」には女性の名が連なっていた。といっても、トリオの人がほとんどである。何もシークレットにいれなくったっていいのに、馬鹿じゃないかと思ったが、それが土田らしいと思える面もある。ただ二人、知らない女の名前があった。住所はどちらも名古屋市である。これがあの大阪の女性だろうか? 「名刺」には聞いたことのない横文字名の会社が並んでいた。たぶん、転職のつもりで登録しておいたのだろう。そして、「メモ」には次の訳の分からないものが三つ表示された。何かの記号なのだろうか?
  MEDIT O8726S
  JNJCJ13S
  800121 902384 851296
 これに関しては竹内にはさっぱり分からない。続いて最も気になる「スケジュール」を見てみた。スキーの予定やクリスマスに誰かに会うとかという予定があったが、最近の過去のところで目がいった部分は三つで、そのうちの二つはカレンダー機能の日付に表示されていたものだ。もう一つは、通常のシークレットでない部分にもスケジュールがあり日付が重なっていたので気付かなかったものだ。
  10月19日、20日 ———「磐梯山 山田 渡辺」
  10月25日     ———「東京 東 銀の鈴 PM5:00」
  11月2日、3日   ———「仙台 松島」
 この三つが竹内の興味を引いた。ついに手掛かりらしきものを見つけた。しかし、これらが本当に今回の事件と繋がるのだろうか?喜びと不安が交差し、激しく入り交じっている。

第四章へ     目次へ     HPへ戻る


このページは GeoCities です 無料ホームページ をどうぞ

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください