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乗鞍高原殺人事件 〜見えない糸〜


第一章  乗鞍道中

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 風もなく空は澄んでいて星がきれいだった。時間は午後十時になろうとしている。
 竹内正典は、コンビニから土田道幸に電話をかけた。いつものように陰気な土田の母親が電話口に出て、———みちー、竹内さんから電話。と大きな声が受話器から洩れた。しばらくすると———もしもし、竹内さん、いま何処?と土田が挨拶もなく切り出してきた。
「いまは、メモに書いてあるサークルKの前からだよ」
———あっそう。じゃさあ、そこから斜めに上る細い道があるから、そこを頂上付近まで来て。そこで待ってるからさ。
「わっかたよ、そんじゃ」竹内は電話を切って、スカイラインに乗り込んだ。
 今日はシステムプランズの人たちとスキーに行くことになっていた。トリオの社員にはアウトドア派の人が多く、夏は海やキャンプ、冬はスキーと頻繁に仲間同士で出かけている。
 竹内は高校のころからスキーをやっていて、今ではうまい方の部類に入っていた。土田の方は高校の修学旅行でスキーをやっているものの、その後はスキーにはあまり興味を持たなかった。しかし、トリオに入社してから、アウトドア派の佐藤や青山に感化され、スキーを始めるようになっていった。今では、自分のスキーを一式購入し、車に付けるキャリアまで買って、二週間に一回位の割合で出掛けるようになっていた。回数をこなしただけあって、他人に迷惑をかけない程度には滑れるようになっている。
 竹内はトリオの人とスキーに行くのは初めてだった。以前土田と二人きりで鷲ヶ岳方面へ行ったことはあるが、団体で行くのはこれが最初である。つまり、竹内の滑りは土田しか知らず、すごく上手だという噂だけが広がり、なかば伝説のスキーヤーになっていた。
 今回のスキーはトリオ恒例の乗鞍高原スキーである。スキー大好き人間の佐藤寿晃を中心として毎年それなりに滑れる人同士で一泊二日、車の中で眠るので実際には二泊二日でスキーを楽しむという企画である。今回は民宿の大部屋が予約できたので、今までの八人より四人多くして十二人で行くこととなり、車三台が必要となった。集合場所は国道十九号に近く十一人の住んでいる中心にあたる青山真治の家であった。竹内は青山の家も知らないし、スキー板を乗せるキャリアも無いので、何とか車の中にスキー板を押し込んで、土田の家まで行くことにした。とはいっても、土田の家もよく分からないので、簡単な地図を書いてもらい、近くまで行ったら電話することになっていたのだ。土田は名古屋市天白区の高坂荘という団地に住んでいる。指示された坂道を登ると頂上の手前で紺色のハーフコートを着る土田が立っていて左へ曲がれと合図した。しばらく進むと駐車場らしき空地があり、そこにスキーを積んだスプリンターカリブがあった。
 竹内がドアを開けると土田が寄ってきて「よっ、ようわかってね」と言葉をかけてきた。
「何ー、車換えたの」
「ああ、ついこの間、買い替えたんだ。トヨタの人についついのせられてね」
「そうすると、トレノは車検も出さずに売ったんだ」
「そういうこと」土田は嬉しそうに答えた。
「よく金あるな」
「そんなことないよ、これでまたローンが三年続くんだし。そういやあ、竹内さんだってFXから替えたばっかじゃない」
「まな、なあ」竹内も嬉しそうに答えた。
竹内はスキーと荷物を土田の車に移して彼の車庫に自分の車を入れた。
 土田の車は、まだ新車の匂いがしていて気持ち良い。土田は青山の家へ向かったが、途中で美砂を拾っていかなければない。八事から今池を抜け大曽根を過ぎると大通りから小道に入った。 「よくこんな道知っているな」竹内は半分呆れて言った。
「いやあねえ、よく松浦さんの家には迎えにいくんでね」
 松浦美砂の住むマンションの前に着くと、既にスキー板を持っている彼女が立っていた。
「どうも、お待たせしました」
「いえいえ、いつもすいませんね」美砂はおどけて丁寧な言葉を使った。
「竹内君、久しぶりじゃん」美砂は、竹内に気づき言った。
「はあ、どうも」実際には竹内の方が年上なのだが入社順という上下関係は拭えない。
 美砂は荷物をトランクに入れ、マンションの階上に向かって手を振った。どうやら彼女の母親が見送っているようだった。
 土田は車を四一号線に繰り出し、豊山町にある青山の家へ向かった。
 青山の家の前には佐藤の車、軽四ディアスといつもは遅れてくるのが当たり前の伊藤賢二のフェアレディZがあり、佐藤に迎えにきてもらった林田恵と伊藤に乗せてもらった山田悦子、加藤千尋がウロウロしていた。土田が車を停めると皆寄ってきた。
「土田さん、土田さん、車換えたの?」早口で千尋が尋ねてきて、他の者も異口同音な質問をしてきた。
 土田が何度目かの返答をして騒いでいると、青山が玄関から出てきて、またしても同じような質問をしてきた。
「なんだ、お前もカリブ買ったのかよ交換しようぜ」とでかい声で駆け寄ってきた。青山の車も土田と同じカリブで型は同じだが土田の方はマイナーチェンジしたものであった。
「藤井さんたちは、まだですか?」と土田が問いかけたとき、噂をすれば何とやらで、桑原美香と渡辺史子を乗せた藤井幹弘が到着した。
「お待たせ」と美香が詫びる態度もみせず降りてきた。
「遅いぞ」と青山が文句を言うと「だって、藤井さんがぐずぐずしているんだもん」と駄々っ子のように答えた。どのみちトリオの人たちは集まりが悪いという定評があるので誰も気にはしていない。
 美香が一宮の駅まで史子を迎えに行き、藤井の家まで行って、彼の車に乗り換えてやって来たのだった。史子はスキー板を持っていなかったので、藤井のレビンには二人分のスキ−が無理矢理詰め込まれていた。
 やっとのこと全員揃ったので、土田のカリブには竹内と千尋と史子、青山のカリブには悦子、藤井、伊藤が、佐藤のディアスには美香、美砂、恵が乗ることとなったが、いざ出発と思ったとき、さい先悪いことが起こってしまった。藤井のレビンが駐車しようとしたら、エンストしまったのだ。どうやらバッテリーの調子が悪いようだった。レビンは古い型なのでそろそろガタがきていた。藤井は既に次の車の手配はしてあったが、まだ納車まで月日があったのでなんとかここまでレビンで来たのだが、ついにダウンしてしまったのだ。青山のカリブのバッテリーからコードを引っかけて、スターターを回してみたがうんともすんともいわない。そこで、最終手段として、カリブからロープを引っかけてレビンを押しがけすることにした。その方法はうまくいき、レビンのエンジンが甦った。「やっぱり、マニュアルよね」と千尋が歓声をあげた。十一時に出発する予定が既に零時をまわろうとしていた。時間はたっぷりあると同乗者たちは思っているが、運転者たちにはもったいない一時間であった。三台の車は国道十九号へ向かった。

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 青山の車についていくと、いつの間にか十九号に出ていた。さすが、地元の青山だけあって道を良く知っている。後ろの二台は、夜ということもあって、何処をどう通ったのかさっぱり分からなかった。佐藤と美香はハムの免許を先日取得し、二人とも小型の無線機を携帯していた。美香の無線を竹内が借りて、土田と佐藤の車同士で会話が楽しめた。土田の車の中ではいつものように最近のヒット曲のテープが流れていた。土田は小まめにCDなどを借りたり、買ってきたりしては、自分で気に入った曲をテープに録音しているのだ。竹内にはよくそんな面倒くさいことができるなと思えてならなかった。とはいうものの、車内は既にカラオケボックスと化している。後部座席の千尋と史子が歌いまくっているからだ。
 千尋と史子は土田たちの一年後輩にあたる。彼女たちの同期は、佐藤の車に乗っている恵と今日は来ていない神谷、榊原、それに男が五人である。年齢からみると、土田は千尋たちと同じ歳になり竹内が一つ上となる。千尋は髪を短くしている多少ボーイシュな感じで、史子は髪の長い女性らしさが溢れている。一見、対照的な二人だがフミちゃん、チヒロちゃんの仲でいつも一緒だ。二人ともB型人間で陽気な女の子である。特に千尋の方は超うるさ型で、仕事中に奇声は出すは、何処に行っても騒いでいるはと、今まで山田悦子が典型B型の不動の地位にあったのをあっさり奪ってしまった。その上、この二人は気が合ううえに同じ出向先に行っているものだか ら、二倍うるさいと仕事先でも有名になっていた。一方、史子の方は、B型とは思えない物事にこだわる気質があるが根っからの陽気なタイプである。とにかく、そんな二人が後ろの座席で歌いまくっているので、竹内は少し唖然としてしまった。
 竹内は社内にあまりいないながらも後ろの二人やその同期とは、割りと話をしているほうであった。たまに会社に戻って「いらっしゃいませ」と、言われてはたまらないので、顔を覚えてもらうためにも、飲み会がある時は積極的に参加していた。が、竹内の方も、人の名前を覚えるのが下手なのか、単に忘れっぽいのか、よく相手の名前を思い出せず、土田にきくこともあった。彼女たちが入社して間もないころ、竹内や土田の同期で近場に一泊旅行に行くと決まったとき、親睦という形で新入社員の五人も連れていこうということになった。もちろん、女の子だけである。彼女たちも快く同行すると言ってくれたので、新人五人と友人の結婚式で来れなかった荻須を除いた先輩六人で、長島スパーランドと湯の山温泉、御在所を回った。その時の旅行はお互いを知るいい機会でそれぞれの人柄を理解できた。例えば、史子たちは、土田は真面目で怖い人という印象を持っていたらしかったが、結構下らない冗談を言う変な人だと一遍に見る目が変わってしまった。また、竹内も温泉で起こったちょっとした事件を見事に解決してしまったので、彼女たちは尊敬の眼差しで見るようになったこともあったのだ。
 青山の家を発ってずっとがやがやと賑やかだった。無線を通して佐藤の車の中でもカラオケ大会が始まっているのが分かる。竹内は、その中から聞こえる恵の声に気がついた。彼女はB型ではないが、明るくてさっぱりした感じのいい子だった。髪はうなじぐらいのショートで、背も高い方である。ただ、今までのトリオの社員とは少し違う感じがしていた。それは、多少化粧っけがあるかなというところだ。とはいっても、世間一般からみれば普通の化粧なのだが、なにせ、他のトリオの女性があまり化粧をしないので、恵が逆に目立ってしまったのだ。もう一歩間違えるとイケイケギャルになりかねない雰囲気もあり、かわいいというよりは美人という感じだった。性格ははきはきしていて勝気なタイプ。名前は「めぐみ」だが、同期や女性社員からは「ケイちゃん」と呼ばれていた。竹内は少し他の女の子よりも恵にひかれるものがあった。
「しかし、竹内さんが来てくれてよかったよ」土田が唐突に声をかけ、竹内の脳裏から恵の姿が消された。
「えっ、どういうこと?」
「だって、Y君が来るよりはね〜」土田は後ろの二人に同意を求めるように言った。その二人も苦笑しながらうなずいた。
「ああ、そういうこと」Y君とは山田浩司の陰の呼び名である。
 山田とは史子たちの同期の男で、どちらかと言うと、同期・先輩からは敬遠されている人物である。決して嫌われているわけではないが、親密にはなりたくないとも思われている。誰もが共通して「悪い奴じゃないんだけ、ちょっとね」という感じを持っていた。一言でいえば図々しい、または、馴れ馴れしい奴となる。性格的には陽気なタイプなのだが、彼は「人見知り」という言葉を知らないようで、誰にでも気軽に話しかけるのだ。それならそれで、いいのだが、上下関係とか控え目さというのも知らないから困る。一目会ったその日から誰でも友達。先輩であろうと本人は友達気分で付き合おうとしている。例えば、山田悦子を「悦ちゃん」、竹村和子を「竹ちゃん」と、さすがに本人の前では言わないが、陰では平気でそう呼んでいる。しかし、一年先輩の土田にいたっては、彼のニックネーム「ツッチー」を聞いたとき、本人に対して「ツッチーと呼んでもいいですか」と言ってきたぐらいだ。土田をはじめ他の人達も唖然としてしまった。当然土田は「いいわけないだろ」拒絶したが、本人の居ないところでは、たぶん言っているのだろう。
 性格もそういうふてぶてしさがあるのだが、体格もどっぷりとしていて、顔、特に笑ったときの顔にふてぶてしさ感じてしまう。ぼさぼさの髪の一部にまるでメッシュのように白髪が有るのが不思議でしょうがない。そういうタイプなので、割りと目立ってしまい、顧客先にでかけても注目されてしまう。それがいいのか悪いのか判らないが、後から客に聞くと土田たちと同じ思いだったことが分かり苦笑してしまうこともあった。
 そんな男がこの乗鞍ツアーに参加することになったのは、参加者としては寝耳に水だった。たまたま、ツアーの話をしている時、出向先から戻っていた彼が、それを聞きつけ「僕も行きたい」と言いだしたことが始まりだった。佐藤たちも無下に「お前は駄目だ」とも言えず、仕方なく参加させることにした。
 しかし、天は見放さなかった。一週間前になって、突然山田は「ちょっと用事が出来て行けなくなった」と言ってきた。それには佐藤たちも「それは残念だな」と口では言っても内心では「ラッキー」と歓喜していた。一番喜んだのは土田かもしれない。土田は佐藤や青山に「お前の車に乗せろ」となかば強制的に言われていたからだ。土田は山田と仕事もしたことがあり、彼の裏話や実際に見た行動など熟知しているので山田に対する嫌悪感は人一倍だった。
 竹内は山田の評判についてはそれなりに知っていたし、新入社員の歓迎会で会った時にも「なんて、図々しい奴なんだ」と思っていた。だが、社内にいない竹内にとっては、土田たちほどの感情は持っていない。
 山田が突然参加出来なくなったのは吉報だったが、誰を彼の代わりにするかというのが問題になった。ツアー一週間前なので、他の社員たちは各々、他のスキーに行く予定があったり、用事があったりとで誰も空いている人がいなかった。そこにたまたま、出張の旅費精算のため会社に戻ってきた竹内に白羽の矢が刺さった。竹内は暇を持て余していたし、スキーにも行きたかったので、二つ返事でOKした。竹内なら誰も文句を言わないので万事解決となった。
「山田君って、そんなに嫌われているの?」竹内がきいた。
「別に嫌いっていうわけでもないんだけど、少しつきあいにくい奴なんだよね」
「渡辺さんたちもそう思っているの?」竹内は後ろの二人にもふった。
「ええ、そうですね。ちょっと困るタイプだと思いますけど。香織ちゃんなんかは毛嫌いしていますからね」史子が答えた。
「僕なんか、一応先輩だからまだいいけど、同期の連中なんかは大変だと思うよ。年齢でいえば僕と一緒だけど、ほんと一年早く入って良かったよ。専門卒で良かったというところかな」
「彼は大学出なんだよね?」
「そうだよ、意外や意外、南山っていうんだから驚いたよ。南山も変わったもんだね」
「南山!」竹内は反芻してしまった。南山大学は名古屋では都会的な大学で通っていた。
 その時、竹内は左側を走っていた赤い車が急に交差点を左折したのに気が付いた。
「無茶するな」と竹内はつぶやいたが、土田はその車に気が付かなかったようで「何が」と聞き返した。
 国道は夜中のわりには混雑していた。週末ということもありスキーを積んだ車や4WDが走っている。三台の車もそれらに紛れ峠のトンネルを抜けていった。

         3

 国道十九号は名古屋市の中心地を起点に、岐阜県、長野県を通って長野市まで続く主要幹線国道で、中京圏と信州を結ぶ重要道路である。中央高速道路が並走しているものの、長野自動車が松本あたりまでしか完成しておらず、その先は十九号を使うことになる。しかも、中央道は霧の発生や冬の積雪には弱く、十九号はトラックや旅行者にはかかせない。岐阜県に入り中津川を過ぎると北アルプスと中央アルプスに挟まれた木曽川沿いをうねうねと進む。峠を越え長野県に入ってからは千曲川の支流犀川沿いを進み長野市に向かう。谷間を走るとあってほとんど一車線だが、市街地では二車線化やバイパスが進んでいる。
 そうした理由から、冬場ともなれば木曽、蓼科方面、遠くは志賀高原まで行くスキーヤーにとっても重宝な道で、スキーを積んだ車やツアーバスが昼夜を問わず利用している。佐藤たちもその同類であるが、なるべく安く仕上げるのをモットーにしているので、往路は高速などは使わずひたすら十九号を突っ走る。さすがに帰路は疲れているのと、渋滞に巻き込まれ時間を浪費するのは堪らないので、臨機応変に高速を利用している。
 三台の車は岐阜県の瑞浪に入ったあたりで一度休憩した。コンビニエンスストアーのサークルKとファーストフードのモスバーガーあったからだ。モスバーガーで夜食を購入し、サークルKの方で朝食のおにぎりや、宿で飲み食いする酒やつまみを買っておくこととなった。各人の注文をきいて、適当に二班に分かれ、それぞれの店に入った。同じような事を考えるスキーヤーが多いのか、どちらの店も深夜というのに結構混んでいた。
 佐藤たちは次に元越で停車することに決め再び動いた。車に乗ってからは早速買ったばかりの温かいモスバーガーを食べはじめた。土田もテリヤキバーガーを頼んでおいたが、ドライバーなのでゆっくり食べることができなっかた。しかし、女性というのは細かいところによく気づくものだ。後ろの千尋は何も言わないのにバーガーの包装紙をむいて、食べやすい状態にして渡してくれた。土田はそういうちょっとした優しさが嬉しかった。隣の竹内ではこっちが言わなければやってくれそうもない。
 前述したように十九号は一車線になったり二車線になったりするので、所々で頻繁に渋滞が発生する。特に中津川に入りインターを過ぎたあたりからは、元越渋滞と呼ばれる長い渋滞がよく起こる。「元越」とは、岐阜県と長野県の境にあるドライブインである。出発地とスキー場とのほぼ中間地点にあることからほとんどのドライバーはここで休憩をとる。しかも、ツアーのバスも停車するのでいつでも駐車場が無いくらい混んでいる。それは、冬のシーズンは深夜にもかかわらず、うどんやラーメンはもちろん土産や飲物類まで売っているからだ。道中このような店が他にないので、皆ここに集中してしまう。そのための渋滞が中津川市街に入ってから始まっている。また、運の悪いことに中央道の恵那山トンネル付近が濃霧のため通行止めをくらって、高速の車が全て流れ込んできてしまった。名古屋を出てから既に二時間が経とうとしていた。佐藤は信州方面によく行くことから裏道を熟知していて中津川に入ってから旧十九号を通りしばらく県道を通って十九号に再び戻った。多少なりとも時間の短縮は行えたが、ここからは元越まで我慢するしかない。どうにか、元越に到着して休憩を取ることが出来た。ひとまず、皆、トイレまで早足で歩き生理現象をしたためた。モスバーガーだけでは足らないのか、伊藤や藤井はうどんを食べることにしたらしい。美砂や美香にいたっては、この寒い中アイスクリームを買っていた。竹内は缶コーヒーでも買おうと思い、外に並んでいる自動販売機の前をお目当てのコーヒーを探すため歩いていった。その時、前方の赤い車に目がいった。車は、フロントを向こう側にして止まり、バックライトが点灯しているのが見える。ちょうど、竹内から見て右側のシートに人が乗るところで、ドアを閉めようとしていた。車を後ろから見ているし、電灯の加減でその人物の容姿ははっきり 見えず、ドアを閉める手が見えただけだったが、その手にグローブをしていることには気付いた。よっぽどの走り屋なのかと思ったが、それはスキーを積んでいないこともあったからだ。かといって、スキーぐらいはレンタルかもしれない。車は三菱のエクリプスだったので雪道を行くには問題がないはずだ。竹内は、その車がさっき春日井付近で急に曲がった車のように思えた。確かに車種は同じだったが、先程の車のナンバーは見ていなかったので同じとは判断できなかった。ただ、名古屋ナンバーなので可能性はある。エクリプスなどそんなに走っている車ではない。時間的にも符合するし、誰かを拾うために曲がったのかもしれない。エンジンは掛かっていたが動く気配はない。
 ボーッと車を見ていると、土田が肩をたたき「そろそろ行くよ」と声をかけた。竹内は目の前の自販機でコーヒーを買い土田の車に戻った。その時にはエクリプスの事は念頭から消えていた。しかし、この時、あの車についてもっと注意していたら、特に誰の車かということを竹内が知っていれば悪夢のような出来事は起きなかったかもしれなかったのだ。
 元越を出発して長野県に入ってから土田はカーステレオの音量を下げた。眠くなってしまうし、音が無いと少々寂しいので消すことは出来なかったが、後ろの二人が眠そうだったのでそうしたのだ。案の定、先程とはうって変わって後ろは静かになった。竹内は助手席の同乗者という責任もあり(土田の車は、基本的に禁煙・禁眠なのだ)、土田を眠らせないという使命もあるので、眠ろうとはせず土田と会話を交わしていた。とはいっても後ろの二人が聞いているかもしれないので、いつものような際どい話は出来ず、当たり障りのない近況などを話していた。
 道は高速の通行止めのせいで、トラックなどが多くあまりスピードを上げる事ができない。登り道の登坂車線があれば一気にトラックを追い抜いていった。昼間なら風光明媚な木曽川の渓流を望めるのだが、今は真っ暗で何も見えなかった。寝覚の床を過ぎ木曽福島に入った。この辺にもスキー場が多いのだが乗鞍よりは雪質が落ちる。人工雪の所もあるのだ。だが、その方面に行くスキーヤーもいるのか、トラックを除いた車は少しずつ減りはじめた。藪原に入って十九号から別れ、野麦峠に向かう県道に入る。当然、国道よりも狭く峠に近づくにつれて路上にも雪が残りだした。三台とも4WDなのでチェーンを付ける心配はなく、他の車がチェーンを付ける作業を横目に見て峠越えの紆余曲折の道を進んだ。境峠を越えてからもう一度、トイレストップした。乗鞍まであと一息だが、寒いこともあって生理現象は抑えられない。寝ていた後ろの二人も車の停車とともに起きだした。ここは、土産物屋のようなドライブインなのだが元越のように夜は営業していない。そういうわけで、トイレは電気が付いておらず真っ暗だ。男たちの方は別に気にもせず用をたしたが、女性たちの方は困惑していた。特に、暗闇とお化けが苦手な悦子などは、キャーキャー言いながら、ペンライトを持って入っていった。最後の休憩も終わって三台は一路乗鞍へ向かった。
 その数分後、赤いエクリプスもここにやって来た。もちろん、竹内はその事に気付くはずもなかった。

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 車は野麦街道に入り、奈川沿いを進んだ。途中有料道路の案内があった。そちらからも乗鞍へ行けるのだが、冬期は雪で覆われて通れるわけがない。梓湖をせき止める奈川渡ダムまできた。ここで松本方面から至る一五八号線に道は合流する。高速を通って、松本インターから乗鞍へ向かうのが普通で、わざわざ峠を越えてくる車は少ない。一五八に入ってから少しだけ車が増えた。
 奈川渡ダムのトンネルに入ってから千尋が話始めた。以前に乗鞍へ行った時、このトンネルの中で幽霊を見たと言うのだ。その時は、伊藤の車に乗っていて臆病者の山田悦子も乗っていた。千尋は工事をするような作業服を着た男が歩いているのを見たと言うのだが、伊藤や悦子は誰も見ていなかったのである。悦子がパニックに陥ったのは語らずにしても明らかだ。千尋という少女は多少霊感があるタイプで、以前にもいろいろ経験しているらしい。男たちの間では彼女と伊勢神トンネルにだけは行ってはいけないという噂もあった。
 いくつかのトンネルを抜け一五八号と分かれ、前川渡大橋を越えると、もう乗鞍高原は目の前だ。乗鞍高原は北アルプスの山々の一つ乗鞍岳の中腹にある。乗鞍は、冬はスキー、夏はハイキングやドライブ、そして一年中登山で賑わうところである。それに、近くに水芭蕉で有名な大正池のある上高地もあることもさながら、乗鞍スカイラインという公道では日本一高い所を通る道路がある。そのスカイラインの展望台からの風景は晴れた日には素晴らしいという一言しかない。また近くには、平湯や白骨、新穂高などの温泉地も多く、穂高岳や焼岳など登山のメッカでもあり、人々が絶えることはなっかた。乗鞍高原もそんな観光地の一つで当然温泉もある。
 うねうねと坂道を登って行くと、比較的道が真っ直ぐになり民宿がぽつりぽつりと見えはじめてきた。そして、“歓迎乗鞍高原温泉”という看板が見えてくると、周りは民宿だらけの状態になった。三台の車は中心街に入りスキー場のゲレンデにぶつかると乗鞍スカイラインに続く山道へ入っていった。もちろん、乗鞍スカイラインは冬期通行止めである。三台の車は、もう少し先にある駐車場へと向かう。時間はとおに午前四時を回っていた途中の渋滞や藤井のトラブルが無ければ、もっと早く着いたが、ひとまず夜明け前には到着することができた。三台は駐車場に入ったが、既に駐車している車も多かった。深夜なのに交通整理のガードマンがいて、三台を駐車場の端へ誘導した。
「やっと、着いたね」と土田がホッとした顔で言葉をもらすと、「お疲れさま」と千尋は早口で、史子はゆっくりした口調で笑いながら労ってくれた。
 すると、佐藤がウィンドを叩いて合図した。土田がパワーウィンドを下げると、ワインの瓶とコルク抜き、紙コップとつまみを手渡した。
「いつも、すいませんね」と土田が嬉しそうに受け取った。
「いいの、いいの、これが楽しみなのだから」と佐藤も軽い調子で答えた。佐藤はスキーに行くとき必ずと言っていいほどワインを持ってきて寝る前に飲む習慣があり、他の人たちも影響されいた。
 竹内がワインのコルクを抜いて、四人の紙コップに注いだ。他の車でもすでに乾杯が始まっているようで、ルームライト越しに笑っている姿が見える。土田たちも乾杯をして一気にワインを飲んだ。
「美味しい」と千尋は、まるで財津一郎が「厳しい!」とギャグを言うのと同じ口調で歓声を上げた。
 つまみのするめを食べながら「やっぱりお酒はいいですね」と史子は酒好きの片鱗をのぞかせていた。
 土田も運転の疲れなど吹っ飛び、飲み食いに没頭した。あっという間にワインは無くなり四人とも寝ることにした。竹内はトイレに行くため車の外に出た。風は無いものの標高が一五〇〇メートルほどの高地なので空気は冷たかった。空を見上げれば、満天の夜空に星が無数に輝いている。街中で見る星とは比べものにならないくらいの美しさで、近く大きく見える。まるで科学館で見るプラネタリウムそのものだ。
 トイレに行くと藤井がいて「竹内か、明日はお前の滑りを楽しみにしているぞ」と言って出ていった。竹内は「へえ、まあ」と適当な返事をして藤井を見送った。
 車に戻ると後ろの二人は寝つきがいいのか既に眠っているようだった。土田が用意したらしい毛布を二人でまとって可愛い寝顔をのぞかせている。女の子の寝顔はいいものだと、竹内が見取れていると、「今日はいびきをかかないでよ。こちとら全然寝ていないんだから、じゃあね」と竹内はいびきに対する小言をくらわされた。
「はいはい、気を付けますよ」と竹内もしょうがないだろ、すきでかくわけじゃないんだからと思いつつ、目をつぶった。

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