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乗鞍高原殺人事件 〜見えない糸〜


第四章  吹雪の惨劇

         1

 林田恵はひとまず彼女を見つけた男たちと青山、藤井に担がれ公衆温泉に運ばれた。土田は血に弱いせいか狼狽するばかりで伊藤もおろおろして後に付いていくだけだ。竹内は動揺しているものの冷静に周りを見ながら後に続いた。
 中に運ばれた恵の脈などを測ったが既にこときれていた。竹内は彼女の顔を見た。雪の中に放置されたため眉や髪の毛は凍っているが、刺されたにもかかわらず苦痛の表情などはほとんどない。目は穏やかに閉じ、まだ少しだけ温もりが頬や唇に残っていた。こんな時に不謹慎かもしれないが、雪をかぶった眠れる森の美女に見える。しかし、昨日までの彼女の微笑みはない。二度とは戻らない。
 温泉の人が警察に連絡した。藤井は佐藤と伊藤に宿まで戻り美香たちに連絡するよう命じた。二人が出ていくのと入れ替わりに、昨日宿を訪れた大沼巡査ともう一人刑事らしき男が入ってきた。大沼は竹内の顔を見るなりギョッとした表情になった。
 大沼と刑事は駆け寄り女が死んでいることを確かめた。ひとまず、周りの人々は隣の部屋に行かせた。近くの診療所から来たらしい医者も到着し簡単な検死が行われた。
 後からハッキリしたこともあるのだが、死因は心臓の下あたりをひと突きされほぼ即死状態であった。凶器はもちろん胸に刺さっていた小型の折り畳み式ナイフである。死後まだまもない状 態、時間として十五分位なのだが寒さの中にさらされ、急激に体温が低下したようで五分ほどの 誤差は出るようだった。
 この吹雪で足跡や犯人の遺留品になるようなものは何も発見されていない。むろん、犯行時の目撃者も今のところ見つかっていない。
 刑事が竹内たちのいるところに来て、松本署の天野部長刑事と名乗った。二十五を過ぎた位のまだ若い刑事で眼鏡をかけあまり刑事という感じではない。こんなに早く刑事が来ているので竹内は不思議に思ったが、たぶん昨日の転落事故のためなのだろうと推測した。
 天野刑事は第一発見者は誰かと尋ね、さっきの三人の男が手を上げた。男たちは地元の人たちで用事でスキー場の店舗へ行く途中、一人の男が何かにつまずき転んだ。何だろうと調べようとした時、藤井たちが来たのだ。
 次に藤井たちが呼ばれて、今までの事情を説明した。天野は竹内の名を聞くと当然興味を示した。竹内の考えたとおり転落事故の捜査で昨日から滞在していたのだ。その事故のことは後でまたきくこととなり、今は恵のことに質問が集中した。藤井たちの答えから引き出された事柄をまとめると次のようになる。
 竹内が恵がいなくなったのに気付いたのは午前十一時ごろ。恵を探していた時間と宿のおばさんの証言から考えて彼女が宿を出たのは十時半位となる。どこへ行くつもりかは分からなかったが、温泉の方向へ向かい何者かに刺殺される。現場まで吹雪と女性の足ということを考えて二十分位とすると、十時五十分に到着。発見者の男たちは十一時過ぎに彼女を見つけていたとし、藤井たちが十一時に宿を出て、早足で現場まで十分位となるので十一時十分に遺体発見となり死亡推定時刻ともほぼ一致する。
 なぜ、恵が出かけたのか、誰も分からなかった。推測されることは十一時位に温泉、もしくは、その先のゲレンデの休憩所で誰かと会う約束をしたのではというものである。この吹雪にもかかわらず出かけたというのは重要な用があったのか?その相手が犯人ということなのか?金品など奪われた形跡はなく物取りではない。また、この吹雪の中、通り魔的犯行とは、とうてい考えられない。
 警察は怨恨の線も考え、彼女を恨む者はいないかと藤井たちにきいたが、彼らでは思い当たるものはない。宿にはまだ七人いるということなので、そちらで話を聞くということになった。だが、こんなところまで、恨みを持つ者が来るだろうか。怨恨の線も薄いと思われ、何らかの事件に巻き込まれたのではという考えが中心となりつつあった。
 ひとまず、藤井たち四人は帰された。
 まだ吹雪は続いていた。いっこうに治まる気配はない。竹内はふと駐車場にある車を見て立ち止まった。車は雪に包まれその型や色は一目で分からなかったが、ちょうど雪が落ちている部分のナンバープレートに見覚えがあった。元越でみたエクリプスだ。わずかに見える色も赤で、雪が積もった車全体もエクリプスと思えば、その形に見えないことはない。ただし、周りの車と雪の積もり方が異なる。ついさっきまで、動いていたかのように雪は薄くしか積もっていない。ウィンドウもワイパーが動いていた形跡が見える。立ち止まっている竹内に土田が声をかけた。
「どうしたの?」
「いや別に、あの車がちょっと気になったもんで」
「ふん」といいながら土田も竹内の視線の先にある車を見た。

         2

 重い足を引きずり藤井たちは宿に戻った。時刻は正午を過ぎていた。佐藤たちから話を聞いているので、女性たちはあえて戻ってきた連中に質問をしなかった。千尋と史子はまだ泣いていたし、美香と美砂は目を真っ赤にしていた。悦子は眠るかのように目をつぶったままだった。
 佐藤は青山にどういう事態になっているか小声できいた。青山は後で刑事が来るからそのままにしていてくれと皆に告げ、宿の人にも事情を話に行った。
 一時ごろ天野刑事と大沼巡査が現れた。まず、最初に事件捜査に協力してほしいことを告げ、今日はもう一日こちらで泊まってもらうようにと指示した。もちろん、宿の方にも承諾を得ていて、もう一泊泊まるよう手配はしてあった。
 一人ずつ食堂で事情聴取が行われたが、さっき藤井たちが答えたのとあまり変わらない。時間に関する証言は皆ほぼ一致し、十一人のアリバイは保たれた。女性たちも恵がどこへ何のために出かけたのか誰も知らなかった。ただ、彼女が昨日の夕方から少し様子が変になり始めたことは皆気付いていて、警察はそのことに注目した。特に悦子が昨夜の恵と交わした会話については興味津々であった。
 昨日はほとんど皆一緒に行動していて、恵が誰かに会ったというのは目撃されていない。スキーを終える一時間ほど前には皆バラバラに行動していたので、その時に誰かと接触した可能性はある。
 竹内の番になり皆と同じような質問をされた後、転落事故のことについても質問された。
「大沼巡査から話はききましたが、竹内さんはあれは事故ではなく故意に行われたとお考えなのですね」
「そうです、山内さんでしたっけ、彼の最後の言葉が気になるもんで」
「オオシマノヤツですか、しかし、転落する瞬間を目撃されていないし、他に目撃者もいなくては、どうも、事件性を立証するのは難しいですな」
「でも、一応そのへんのこと・・・・・・」
「わかっていますよ。こっちも仕事ですからね。そのことについては捜査していましたが、今度は殺人事件でしょ、私としてはてんてこ舞いですよ。続けて二件も事件が起きるなんて、ついていないとかいいようがない」天野はつい本音を言ってしまった。
「失礼、まあ、ひとまずこれぐらいにしますか。何か他にないのでしたら、次の方を呼んでいただけますか」
 竹内は部屋に戻り伊藤を下に行かせた。部屋の片隅に座り込むと土田がゆっくり寄ってきた。 「竹内さん、さっきの車だけどさ、どこかで見たことがあるんだよ。ナンバーに記憶があるんだ」
「ほんとうか?」竹内は声を抑えて土田を睨み付けた。
「ああ、なんの車か分かる?」
「三菱のエクリプスだよ」
「そうか、じゃやっぱり、尾関君の車だ」
「尾関君?」
「今年入った三課の男でさ、眼鏡をかけて小柄の奴だよ。笑福亭笑瓶に似た」
 そういわれて竹内は尾関の顔や姿を思い出した。そして昨日、美砂とコーヒーを飲んでいる時に見かけたが男がその尾関だということに今気が付いた。
「偶然なのかな、それとも・・・・・・」土田の言わんとしていることは竹内にも感じとれた。同じ場所に、しかもこんな事件の起きた時に、同じ会社の人間がいるなんて、偶然とはとても思えない。すると・・・・・・」
 竹内の全身に戦慄が貫いた。
 目撃者のないこの殺人事件、難航が予想されたが、意外な展開で解決されようとしていた。しかも、最悪の事態で。

         3

 十一人にとっては悪夢だった。仲の良い友人を亡くした千尋、史子にとっては衝撃的な事件だが、他の九人にとってもあの専務殺害事件が思い出されて、身がきしむ思いである。特に竹内、伊藤、土田の三人は同期をその事件で亡くしているので心の苦しみを拭い去ることが出来ない。事件から一年が経ちトリオも元に戻りつつあったのに、またしても深い悲しみが覆いかぶさってしまった。最後の事情聴取の青山が部屋から出ると直ぐに戻ってきた。しかも、天野刑事と大沼巡査も一緒に。
「ええと、只今地元の消防団の方から連絡が入り、新たにもう一体死体が発見されたということです。今回は自殺のようなのですが、所持品の免許書から、尾関尚士という男性と判明しました」
 尾関という名前を聞いただけで、十一人に動揺が走った。そして、土田と竹内は他の人以上に驚愕した。
「心当たりはありま・・・・・・どうやらあるようですな、御説明願えますか?」
 青山が皆の代表となって、尾関の事を話始めた。
 尾関尚士は今年入社した新入社員で、当然、史子や恵と同期である。性格はいたっておとなしく、一見頼り無さそうに見えるタイプだ。土田が竹内に言ったように小柄で眼鏡をかけた目立たない風貌である。仕事の面はそれなりに勤めていて、社員の人たちとも付き合いのいい方ではないが、問題もなかった。ただ、今の仕事に馴染めない部分もあり、そのうち退職するのではないかという噂もあった。
 彼が乗鞍に来ていたことは、誰も知らなかった。だが、青山たちがここに来ていることは社内や出向先で話にあがっていたので、尾関が知っていたとしても不思議ではない。さて、尾関と恵の関係だが、そのことについても誰も知っていたり、気付いた者もいなかった。もっとも、ここにはいない会社の人に話をきかなければ分からないのだが、おおっぴらに二人のことは知れ渡っていないようだ。
 天野は竹内と土田が他の人以上に動揺しているのに気付き、何かあるのかと問いただした。竹内は今日までの車の事を、そして、今その事に気が付いたのを説明した。天野は早速大沼に車を見に行くように命令した。
 竹内は続けてこちらから質問した。
「さっき、自殺とかおっしゃいましたけど、どういうことなんです?」
「ええ、尾関氏はこの前の道、乗鞍スカイライン続く県道の鈴蘭橋のそばの林で縊死しているのが、たまたま除雪作業をしていた作業員たちにより発見されました。まだ詳細な解剖所見はでていませんし、この猛吹雪の中の寒さで多少の誤差はあると考えられますが、林田さんが殺された後に亡くなっているものと推定されます」
「刑事さん、結局はどうお考えなんですか?」
「まあ、今のあなた方のお話とこれまでの事情聴取の結果から、細かい理由や動機は分かりませんが、尾関氏が林田さんを殺害し、その後自殺を図った無理心中と見ています。たぶん、恋愛関係のごたごただと思いますが」
 誰もが信じられないという気持ちで、表情が強張り何も言えなかった。女性たちの中には再びすすり泣く者もいた。
 しばらくして、大沼巡査から連絡が入り、尾関の遺体が所持していた鍵が竹内が指摘した車のものと判明、しかも車内から遺書らしき手紙も見つかった。
 竹内はその遺書の内容を教えてほしいと頼んだ。天野は最初渋ったが、プライベートなことは書いていないし、たいして長い文ではないので教えることにした。
 内容は「トツゼンコンナテガミヲカイテゴメンナサイ。ワタシハシヌ」である。それを聞いた竹内は、確かに遺書らしいが妙に短くどこか違和感がある気がした。そう、何かしっくりしないものを感じていた。だが、今の段階ではこれ以上思考を働かす気にはなれなかった。
 三時を過ぎたころから雪は小降りになり、風も急速に弱くなってきた。松本署の捜査陣が大挙乗鞍に押し寄せてきた。竹内たちは再び事情聴取されることになり、恵や尾関の人となりや環境、仕事ぶりなど細かい事象を質問された。誰もがうんざりしながらも、しかたなくそれに対応していた。
 現場検証といっても、あの大雪の後では現場ではなにも調べようがない。尾関の車を調べるのが精一杯だ。二人の遺体は司法解剖のため松本へ向かった。既に家族には連絡がいってるようで、松本で悲しみの対面となるのだろう。
 その日、一行は白雲荘でもう一泊した。宿の人たちは一応食事の用意をしてくれたが、誰も食欲などあるはずもなくあまり箸は進まない。宿のおばさんは気をきかして残った御飯でおにぎりを作っておいてくれた。
 皆早めに床に入ったが眠れる状態でもなかった。誰かがすすり泣きをし、目の前の闇が心の奥底まで深く暗くしていく。竹内は前日までの恵の笑顔を思い出していた。普段のすました顔はどこか大人びていて、もう少し歳を取るとバリバリのキャリアウーマンに見えそうだった。だが彼女の笑顔は無邪気な子供のようだった。人の、特に女性の笑顔はその人の全てを表している気がする。笑った時の顔こそがその人の真の姿なのだ。
 “だった”という過去形を使わなければいけないのが辛い。そうもう彼女は過去の人となって
しまったのだ。彼女の笑顔もすました顔も二度とは見られない。それほど、親しい付き合いではなかったが彼女には人を引きつける魅力というものがあった。だが・・・・・・。
 一年前、竹内は全く同じ状況に直面していたのを思い出した。あの時も満身の笑顔を持つ男を亡くしていた。その痛みを忘れかけていたのに。恵の笑顔を忘れ去らなければいけない。記憶の中に彼女を残しておきたいという気持ちと葛藤しながらも、この心の情況を打破するには忘れることが一番なのだ。だが、人は忘れたいことは決して忘れることはできない。忘れたいと思っていること自体が記憶を鮮明にしてしまう。
 竹内には、乗鞍にきた面々には膨大な時間が必要なのかもしれない。

 翌日は朝早く一行は宿を発った。今日は月曜で当然出勤日であるが、前日に青山が野尻部長に連絡しておき、情況をすべて話しておいた。どのみち、会社のほうも今日は大変なのである。全てが一年前と酷似した状態だった。
 十一人を乗せた三台の車はまだ雪が残る道を下った。佐藤の車には寂しく一つの空席がある。美香と美砂はそこに見えない空気を感じ取っていた。暖かな明るい空気を。
 帰りの道中は行きとうって変わって通夜のように静かだった。会話もなくカーステレオも無言のままだ。国道一五八号線をそのまま松本まで下り、長野自動車道、中央道を通って名古屋に向かった。昨日までの雪のせいで高速も速度制限があり、ノロノロ運転であった。それが車内にいる彼らにとってはいたたまれなかった。
 途中、駒ヶ岳と恵那のサービスエリアに寄り、お金の精算をすることになった。そんなもの後でいいという意見もあったが、今後しばらくはごたごたするので、今のうちにしてしまおうということになり、十一人で精算した。
 東名高速道路に入りすぐ春日井インターから出て、青山の家に着いた。まだお昼を過ぎたばかりだが、解散ということになった。佐藤には辛い役目だったが、恵の荷物は彼が預かり後日返すことにした。どの人の顔も疲れと悲しみで苦渋に満ちている。藤井の車も今度は素直にかかった。
 土田の車には行きと同じように竹内と美砂が同乗した。美砂を降ろした後も竹内は土田と言葉を交わさなかった。竹内はずっと黙ったまま考えていた。何かがおかしい。何かが違う。それが何なのか。だが、今の悲しみがつまった頭では何の思考も浮かばなかった。

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