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知多半島殺人事件 〜南吉の涙〜


第一章  海水浴とバーベキュー

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 竹内正典は目覚めた。この熱気の中では目が覚めるのもいたしかたない。七月も梅雨が完全に明け子供たちの夏休みが始まった。近所の神社で夏休み恒例のラジオ体操を行っていたらしく、ラジオ放送の記憶がまどろむ頭に残っていた。普段の休日の日ならばもっと眠っていたのだが、この暑さでは寝続けることは常人には無理な話だ。部屋にはエアコンがあるのだが、クーラーの風、特に就寝中の風はあまり好きではなかったのでタイマーで切れるようにしてあった。でも今日はどのみち起きなくてはいけないので目覚ましより先に起床できて好都合だった。まだ眠い目をこすりながら朝の身支度を簡単に済ませ、適当に台所のパンをかじって家を出た。
 神社の駐車場に止めてある愛車スカイラインは、既にサウナのような蒸し風呂状態になっている。黒に近い紺ではしょうがないが、濃紺系の車は恰好がいい割りに夏の暑さには弱い欠点がある。エンジンをかけクーラーを全開にして五分ほど待った。やっとこ、車内がひんやりしだしてからサングラスを引っかけ車を進めた。大野方面に北上した。先輩の枡田信秋を迎えにいくためだ。
 今日はトリオの仲間たちでバーベキューを兼ねた海水浴を催すのだ。アウトドア派の社員が多いので、冬はもっぱらスキーばかりだが、春から夏にかけてはキャンプや野外のバーベキューがメインになる。桜の季節などは花見を兼ねて行うこともあるし、梅雨前の初夏にどっかの川原へ行ったこともあった。今は真夏、この暑い中でバーベキューとなれば当然海水浴がセットになる。海水浴もトリオの年間におけるプライベートスケジュールでは、毎年行われる催しで梅雨が開けた週末に開催されていた。場所はいつもと同じ内海近くの海水浴場で、恒例のこの行事には多くの人たちがいつも参加していた。誘われた側の竹内には誰それが参加するのかよく把握できないが、スキーのようにメンバーを限定する必要もないし、スキーが出来ないという個人的な嗜好にも左右されないのでたくさんの人が来ると聞いていた。竹内も当初誘われた時は、海辺に住んでいていまさら海水浴もなんだなんと何となく面倒くさい気がしていたが、折角のお誘いだし、バーベキューも兼ねているのでいいかなと二つ返事で回答した。それに、出向中の身なのでたまには会社のメンバーと接しておかないと存在がなくなりそうだし、“海水浴”という言葉に秘められた、男らしい助平心が大きく働いたのだ。うちの女性社員も参加するというのは大きな楽しみの一つだ。
 竹内は車を出すように頼まれ、同じように誘われた枡田を迎えに行くことになったのだ。先輩に頼まれては断ることもできない。それに、枡田には世話になっているしその人柄からも快く承諾した。彼の家は幾度となく同じタクシーで帰ったことがあるのでよく知っていた。時間を決めておいて彼の家の前に行くと、水着を入れたバックを肩に下げ微笑みながら竹内を待ち望んでいた。
「おはようございます」
「おはよう、悪いね、竹内君」
「いえ、いえ、じゃ、行きましょうか」
 枡田を助手席に乗せ、最発進した。枡田は車の中を眺めフロントシートの間にある自動車電話に気付いた。
「竹内君、自動車電話なんか付けたの、豪勢だね」
「いえ、知り合いの人が安く分けてくれたので。恰好いいかなと思って」竹内はこの先の仕事のことを考え購入したのだ。
 車は竹内の家を通り過ぎ南へ向かった。今度は、名鉄の常滑駅を目指していた。トリオのメンバーは愛知各地もしくは近隣の岐阜や三重に住んでいる。そのため適当にまとまり誰かの車で集合場所に集うのだ。今回はひとまず、常滑駅のロータリーに集まることにした。竹内は常滑線沿いの県道を進み駅に乗り入れた。
 常滑駅は最近改築されたきれいな建物だ。この近辺も名古屋から一時間弱という通勤圏にあたるので急速に発展してきた。知多半島の沿岸部は古くからの住宅地だが、内陸部の丘陵地帯は土地開発のラッシュになっている。常滑駅はそんなウィークデーの乗客と目の前にある常滑競艇場へ出かける人たちとで週末も賑わっていた。駅のロータリーで一番目立つのは巨大な招き猫の置物だ。数年前の名古屋デザイン博のために地元、常滑の陶器で作られた展示物だった。博覧会が終わった後、どうするか問題になったが壊すのも偲びないので駅前に永久保存することになったのだ。まあ、常滑市民にとっては嬉しい配慮だと思えた。
 ロータリーに車を入れると既に待っているトリオの面々がいた。主催者の青山や桑原美香に、藤井といういつもの常連、真野祐子や松浦美砂、渡辺裕予もいてそれぞれ談笑していた。誰も夏らしい、涼しげな恰好をしているが、既に額には汗がにじんでいる人もいる。久しぶりに見かけた白井(竹内はいつもの癖で一瞬名前が思い出せなかったが)が意外にもバイクで来ていた。珍しいことに、遅刻常習犯の山田悦子が既にいて少々奇異に感じたが、迎えにいったのが常習犯仲間の伊藤ではなく古井だったので納得した。秋山や寺村という普段会わない人たちもいる。向こうもそうなのか竹内が近づくと、「お久しぶり!」とか「元気にしてた!」とか出向者定番の挨拶になる。全く名前を思い出せない今年入った新入社員の男たちも先輩たちの輪には入れないのか離れたところにたむろしている。一つ下の渡辺史子や榊原香織も前沢や谷口たちといて、竹内も安心した。同期の佐藤真里や古田美和子もいた。彼女らに会うのも何か久しぶりな気がする。竹内は全く記憶にない人物が視界に入った。最初知らない人かと思ったが、トリオの人らしく、昔名古屋にいて一時期東京にいたが、また戻ってきた人だ。名を田岡といい、昔亡くなった片岡を彷彿させる。佐藤寿晃がいつもとは違う小型のバイクで到着した。後ろにはバイクのなのにやたらと荷物が積んである。
「まだ、来ていない人がいるんですか?」と竹内は美香に尋ねた。
「そうね、あと伊藤君と土田君くらいかしら」美香はいつも決まっているじゃないという表情で答えた。
 そんなことを話していると。噂の主が登場した。二人ともバイクに乗り颯爽と乗り付けたが、土田の方はどことなくぎこちない。
「遅いよ、私が既に来ているというのに」と悦子がたまに優位にたったものだから、偉そうに言い寄った。
「だって、伊藤君がぐずぐずするんだもん」と土田が言ったが、伊藤も「本当は間に合う予定だったのにさ、ツッチーがとばさないからだ」と反論した。
「しょがないだいろ。まだ乗り慣れていないんだから」
 これには、深い理由があったのを竹内は直ぐに察した。西知多産業道路を突っ走れば間に合っていたのだが、トリオの人間にとって特にこの二人にとっては過去の辛い思い出から、産業道路は鬼門となっていた。
 バイク好きの前沢が土田に近づいた。「あれ、土田さん、このバイク前と違いますね。バイク買ったんですか?」
「ああ、そうだよ。最近買ったばっかさ」
 土田が以前何に乗っていたか竹内は知らないが、いま乗っているバイクは明らかに新しい。どうやら今はまりこんでいる滋賀の仕事の残業手当てを当て込んで買ったようだ。真っ赤なバイクに赤いジャンバーと赤いヘルメットでいっちょまいに決め込んでいる。伊藤の方も走り屋らしい、カウリングのスポーツ車だ。物珍しそうに覗き込む悦子が、土田のバイクにまたがり、土田みたいに足が地面に付かないことを妙に悔しがっている。「何でツッちゃんが両足着いて、私は片足だけなの」小さいことにこだわる人だ。
 まだ、来ないメンバーもいたが現地に来るということでひとまず出発することにした。バイクに乗る白井、佐藤、土田、伊藤が先発隊として飛び出した。海水浴シーズンなので既に渋滞は始まりかけている。こんな時はすり抜けし放題のバイクが役に立つ。先に現地まで行き場所取りと駐車場の確保を任した。

         2

 暑い夏は誰でも考えることは同じだ。人間はどうしてこう人が集まるところに密集するのだろう。適当にバラければいいものなのに、皆が皆同じところに向かえば混雑や交通渋滞が発生するのが当然のことだと分からないのだろうか。現代の都会人では短い余暇を安く近場でという最小限の範囲で我慢するしかないのだろう。竹内にしても同じことなのでどうこう言えないが、この渋滞はやはりいらつく。それに、同乗者が枡田と後輩の男たちなので華がないというか、はっきり言ってつまらなかった。夏のバケーションという雰囲気だけでも感じようと、TUBEのカセットをカーステで奏でた。TUBEの音楽を聞くと夏だなとしみじみ思えてくる。
 常滑駅を出て、国道に入ると直ぐに渋滞にぶつかった。途中狭い路地を縫う抜け道を通ったが、目的地に向かうルートでは避けようがない。今頃バイクの連中は着いているのだろう思っているころ、やっと半分の行程を進んだぐらいだ。どの車も若者や家族連れが多い。なかにはウィンドーサーフィンを積んだ車もある。
 陶磁器の町、常滑。特に土管の生産においては日本で有名なところだ。イナックスなどの大きな工場があるものの、零細的な小さな工場は最近では減りつつある。しかし、まだ陶器を焼く釜の煙突があちこちにあり、常滑の伝統を今に継承している。国道二四七号線を進み、市街地を出るとちらほらと海水浴場の案内が現れ、駐車場へ誘導する旗振りのおじさん、おばさんが道路に見え始めた。今までもちらほら海は望めたが、知多郡美浜町に入り、南知多ビーチランドや野間大坊を過ぎたあと、道路が急激にカーブすると、伊勢湾が右側に大きく広がる。既に水辺で遊ぶ人たちの姿もあり、夏の陽射しに照り返る海のきらめきがサングラスを通しても眩しく感じられた。
 何とかスムーズに車が流れはじめると、野間崎灯台が見え、その向こう側には海水浴場が一気に広がる。呼び込みの人たちも急激に増え、右に左に曲がる車が多くなった。
 知多半島は観光でもっているようなものだ。北部から知多湾に面した衣浦臨海は工業地域で、南部が観光の中心だ。南部は黒潮の影響で比較的温暖な気候がつづいている。平地がそれほど多くない土地なので田畑などの農業は愛知北部ほど盛んではない。地形条件だけでなく、本来水には不自由な地域で、現在では愛知用水の完成により木曽川から充分な水が供給される。そのため、灌漑に対しては問題がなくなったが、一昔前までは生活に逼迫した重要事項であった。半島全体では丘陵地でも標高百メートルほどしかない平坦地なので園芸野菜やミカン栽培が多く、冬から秋にかけてはみかん狩りでにぎわう。海に近いというだけあって、漁業は中心的な産業だ。あと、釣りに絡む産業も多い。釣り舟や観光舟、それに伴うホテル・旅館などだ。観光地としては南知多ビーチランドやフォレストパークなどのアミューズメント施設があり、杉本美術館という芸術の領域もある。近年、名鉄知多新線の開通に伴い観光は大いに飛躍した。知多半島の先端には三つの島があり、そこを訪れるのも最近は人気がある。日間賀島、篠島、佐久島だ。知多半島の先端・師崎から船で行ける。だが、何と言っても夏が一番の稼ぎ時だ。春の潮干狩りから始まり、 夏の海水浴がピークとなる。この期間に地元の人は稼げるだけ稼ぐのだ。
 知多半島も三河湾・渥美半島などを含め国定公園になっている。それだけの自然の美しさを誇り、保護しなければいけない地域なのだが、目と鼻の先には工業地帯が広がり、海の汚染も甚だしい気がする。目の前の伊勢湾も竹内たちが生まれる以前は今よりずっときれいだったはずだ。対岸の三重県には喘息で有名な四日市コンビナートが構えている。目に見えない速度でいまでも徐々に自然破壊は進んでいるのだろう。
 先頭の車は目的の海の家に突き進んだ。毎年同じところに行くらしいが、竹内が海水浴に参加するのは今回が初めてであった。
 小野浦海水浴場という内海の手前で目的の海の家に入った。佐藤たちが伝言しておいてので駐車のスペースは余裕があり、ぎらつく太陽の下に皆繰り出した。長い砂浜が広がる。波も穏やかで、潮の香りが鼻についた。客の出足はほどほどといった感じでテレビで見た湘南の芋洗い状態には程遠かった。まあ、いっちゃなんだが、ここの海は泳ごうと意気込むほどきれいではない。もちろん、大腸菌などの検査にはパスしているが、基準値を下回っているだけで、全くいないのとは違うのだ。竹内が入社する前、トリオは十周年を迎え社員旅行を沖縄にしたそうだ。その沖縄の海を経験すればここの海など天と地の差はあるだろう。うらやましい、限りだが、愛知からきれいな海へ行こうと思えば、日本海側の若狭ぐらいまで行かなければならない(そういう竹内もグァムへ行く予定があるが)。
 皆荷物を取り出し、砂浜へ向かった。バーベキューも兼ねているので青山の車からはいろいろな道具が運び出され手分けして運搬した。どこに佐藤たちがいるか探したが、堤防の向こう側に一人寂しく座っている白井の姿があった。白井はバイク先発隊であったのに水着を車に置きっぱなしにしておいたので、泳ぐことが出来なかったのだ。藤井たちの顔を見て照れ笑いをした。水辺にはすでに着替えて戯れている佐藤、伊藤、土田がいた。こっちに気付きのこのこと歩いてきた。
「随分、遅かったですね。道、そんなに混んでました?」佐藤寿晃が顔をタオルで拭きながら尋ねた。
「ああ、割りとね。なーんだ、もうひと泳ぎしたみたいだな」青山真治がうらやましそうに言った。
 伊藤がそれを耳にすると「もう泳ぎ疲れてしまいましたよ、一服しようかなと思ったとこですよ。ビール飲みましょ。ビール!」と自慢げにのたまった。
 大きなクーラーボックスが森たちの手により運ばれた。欠かすことの出来ないビールは大量に買い込んである。それぞれが持ち合わせたレジャーシートを敷き荷物を置いてから泳ぐ人は着替えに出かけた。一部の女性は水着になるのがいやなのか日焼けが気になるのか、泳ぎはしないで飲み食いに徹するつもりらしい。伊藤たちは早速クーラーボックスをあさり、ビールやジュースで喉を潤している。
 着替えの早い男たちは女性陣が来るのを待つ間、浮輪などを膨らませていた。何かの景品でもらったようなイルカやでかいエアーマットがある。真野祐子は家が電気屋なのでその電化製品のキャンペーン商品がいろいろあり、それを持ってきたようだ。足踏み空気入れで森や加藤共生が空気を入れている。こういう時下っ端の後輩は便利屋に変わるのだ。
 一通り着替えを済ませ、まずはひと泳ぎすることにし、皆海へ向かった。浜は貝殻や海草で歩きにくいし、既に砂が熱されてつま先だちで歩かなければならない。海水はやはり冷たい。前述のようにあまりきれいでない水だが、体が浸かると気持ちいい。透明度もいいほうではないが潜り始めれば気にならない。浮輪につかまり漂う者、マジに泳ぐ人、シュノーケルで潜る人、水を掛け合い無邪気に遊んで童心に帰る。途中土田がサングラスを流したと言って騒ぎ始めた。水の中までグラサンを掛けている方が馬鹿なのだ。結局みつけることは出来ず、高いレイバンのサングラスを無くし、土田はしょげかえっていた。
 竹内も日頃の鬱憤を晴らすがのごとく水と同化した。それにもまして女性陣の水着姿が目に毒だ。んー、来てよかった。
 岸へ戻ると先に上がった青山がコンロの準備をしていた。この日のためにガソリン用のアウトドアコンロを買ったようだ。青山はこう言った野外キャンプセットをいろいろもっていた。青山だけでなく佐藤寿晃も同じだ。青山、佐藤、そして、田岡の三人がいれば、バーベキューは完璧だ。サバイバルだってできるかもしれない。青山はガソリンコンロのような大型の道具を取りそろえている。佐藤は一人でキャンプツーリングに行くほどの人物なので、小道具それらに対するキャンプ知識は豊富なのだ。田岡は昔、レストランで働いていた経験があり、道具と材料さえあれば何でも、しかも美味しく作れる。今回この三人が揃い踏みしたので全てを任せることが安心してできる。美砂たちが材料を出してきた。昨日のうちにあちこちのスーパーで肉や野菜を買い込み既にカットしてある。二十五人ほどが集うのだ、量も並大抵ではない。ガソリンコンロだけでなく。本来のバーベキューをするためその辺で見つけたブロック(以前に誰かが使ったも)を集め大きな鉄板を置き、下に炭をセットして新聞紙に火を付けた。このへんは元ボーイスカウトの竹内の腕が見込まれ、期待通りに炭を発火させた。
「探偵能力だけじゃないのね」と祐子が感心して言った。
 火が回ると、鉄板の上に油が引かれ、待望のお肉達が並べられた。それに比例するがのごとく野菜達たちも登場した。
「肉、野菜、野菜、肉、野菜・・・」と焼肉のタレのCMを模倣して古井がはしゃいだ。見た目もそうだが、裸になると彼は実に細々としている。もうちょっと太ったほうがいいのではとあらぬ心配をしてしまう。
 ジューという独特の音を通して、空腹感のお腹も鳴っているようだ。いつしか周りには箸と皿を持った面々が取り囲んでいた。
「もういいですかね」と待ち切れなそうに加藤が舌なめずりをする。喰うことに関しては妥協しない男だ。
「いいんじゃない」と焼きに徹していた祐子が言うと一斉に箸が動き、あっと言う間に第一陣が消え去った。
 次から次へと肉や野菜が登場する。「キャベツ喰ってよキャベツ」と玉ねぎやピーマンものせて、祐子が催促する。隣のガソリンコンロでは田岡が適当な材料を選んでフライパンで炒め物を作っている。ビールも次々と開けられ、乾杯が何度も起こった。
 自分たちと同じようなことをしているグループも他にちらほらある。あとは家族連れや学生同士の海水浴客が目立つ。ハイレグギンギンのオネイちゃんはあまり見られないが、夏の楽しみはほどほどに満喫できる。
 食べることにも一段落して、皆パラソルの陰や堤防の上に座ってのんびりしていた。鉄板のうえには焼きそばも焼かれ始め、まだ、ものたりない面々が箸で突っ付いていた。折角の夏だから肌でも焼こうと背中を陽に浴びせている人もいる。女性はそろそろお肌の曲がり角の人たちも多いのでコパトーンなどは必需品だった。
 竹内は日陰にたたずむ土田のかたわらに座った。土田は去年の海水浴で肌を焼き過ぎ、ひどい目にあったので今年は控え目にしていた。度付きのサングラスを無くした彼は普通の眼鏡を掛けている。
「いや、喰った喰った、腹一杯だよ」
「ああ、僕ももういらない」そう言って土田は缶ビールを口にした。
「バーベキューに来たのも入社した時の長良川以来だな。その後はいろいろ忙しくて来れなかったら」
「そうか、そう言われればそうだね、花見の時はいなかったし。でもいいでしょ夏の海水浴・バーベキューも」
「まあね、いろんな意味を含めて」竹内は意味深な笑みを浮かべた。
 周りでは伊藤賢司が水鉄砲で遊んでいる。悦子や寝ている人に引っかけてはしゃいでいた。水鉄砲といっても駄菓子やで売っているような茶地なやつではない。一リットルもありそうな給水タンクを装備し、水の勢いも強烈な大型の鉄砲だ。新し物好きの佐藤寿晃が買って持ってきたらしい。
 堤防の上には今年の新入社員たちがたむろしている。
「あそこにいるのが今年の新人か?加藤君は覚えているけどあとの連中は名前なんていったけ」」竹内は尋ねた。
「相変わらず、人を覚えるのは下手だね。一番右側の森君、その隣が末国君、加藤君の隣が畦津君じゃない。末国君と畦津君は竹内さんと同じ二課でしょ。覚えていないの?」
「ははは、俺なんか出向の身だよ、会社のことなんか一々覚えちゃいられないよ。まあ、向こうも俺のことよく知ってないと思うけど」
 今年の新入社員はどうも違う。新入社員なのだから馴染むのには時間がかかるのだが、そろそろ、こちら側に入ってもいいころだ。彼ら四人はいつもいっしょにいて奇妙な雰囲気に見えてしまう。加藤共生はわりかし、B型の性格とあって人当たりのいい男で、話もし易い。竹内がスキーのことを会話に出したら、嬉しそうに今年の冬行きましょうと誘いをかけていた。
 森隆二はほとんど記憶がない。課が違うというのも理由だが、接しやすい男でもない。いつも視点の定まらない目付きで何を考えているのかよく分からないボーッとした表情をしている。仕事が出来るのかと不安に思えたが、予想どおり榊原課長と戦っているそうだ。竹内も入社当時まだ主任だった榊原みゆきに教え込まれていた。榊原は年長者としての責任感とリーダーシップを持って、一課の面倒をいろいろみている。新人の教育も彼女の役目となっていた。誰かかが、彼女の下に置かれ、いろいろ厳しく教え込まれるのだ。教えられる側にとって榊原の対応は閉口せざるものだが、彼女も好きでやっているわけではない。学生上がりが初めて社会に出る。その時点で甘やかし過ぎ、多少の厳しさがなければ一人前には成りえない。確かに榊原の教え方にもきつい面はあるが、それが結局二年目以降の時になってその意味が分かるのだ。竹内も土田も彼女にしごかれた口だ。当時は毎日顔を合わすのもいやだったが、今は有り難かったと真に思っている。榊原の方も月日がたつと、後輩の対応に変化が見られる。今までよりも接しやすい感じになり、他の先輩と同じような感覚になるのだ。竹内も最近では向こうから声を掛けてくれるので、気軽に会話できるようになり、更めて榊原の偉大さを感じ取った。毎年新入社員が入るたびにそれは繰り返される。ことしはそれが森に当たるのだが、どうも今までのように一筋縄ではいかないようだ。「懲りない森」が榊原と気軽に話す日は果たしてくるのだろうか?
 末国真一と畦津浩幸は同じ課ながら印象に乏しい、二人とも積極的に話すタイプではないし、仕事でも接しないので仕方がない。どちらも仕事の面でもいまいちで、末国は先輩の藤井や谷口によく叱られていた。畦津(これが最初読めないのだ)も声をかけると目尻に皺を寄せて不敵な笑いをしているのでちょっと気味悪くなる。
「今年の新人って彼らだけじゃないよね?」
「ああ、あそこにいる酒井君と脇田さんでしょ、あとは今日来ていないけど、吉田さんに井内さんに総務の光永さんがいるよ」
 パラソルの下にツーショットしている酒井明徳と脇田奈緒美がいる。二人は入社した当時から付き合っているようで、これほど公然と交際がはっきりしているペアーも珍しいし、今では誰もそのことを気にしている人もいない。でも、律儀なのか二人で会社から帰ることはせず、酒井は帰る途中の地下街にある本屋で彼女を待ち合わせているのだ。酒井は物事に動じないマイペースな男だ。がっしりした体格で男前なのだが、いつも淡々としている。甘い物が大好きなそうで、将来はきっと太るだろう。酒井は前述の四人組みとは一線を画しているようで、行動を共にすることはあまりない。
 脇田は今までの女性社員とは全く違う、新人類的な女の子だ。髪の長い細い感じの子で、人柄もよく皆とは溶け込んでいる。現代的な女の子でキャピキャピに近いが、言うことはしっかり言っている。二課には美香や美砂のような女性が伝統のようだ。だが、その美砂たちでさえ彼女が毎日のように違う洋服を来てくるので「すごい」と感心している。そろそろ、彼女たちもジェネレーション(歳の差)を感じだしているらしい。
「光永さんは総務の子だから良く知っているけど、吉田さんと井内さんって全然記憶にないな。どんな子だった」女性の記憶がないというのは竹内には珍しいが、それも仕方がない。
「吉田さんは一課だけど、目立たない感じの子だね。おとなしくて、きれいな子なんだけどね。今は渡辺さん、裕予さんとどっかで仕事しているよ。井内さんはたぶん覚えていないよね。彼女来た日から出向しているんだけど、こういった会社内の集いにはほとんど参加しないからね。同期の連中ともあまり付き合いがないみたいだよ。加藤君も井内さんにはかなわないって、嘆いていたから」
 と、言われても、竹内にはピンとこなかった。「んー、それじゃ俺が分からないのも当たり前だな」
 竹内は二年目の後輩に目を移した。前沢暁が榊原香織と渡辺史子のそばにいる。のほほんとしている前沢だが、よく観察すると彼女たちと離れようとはしない。結構したたかなやつかもしれない。榊原と渡辺は長い髪を束ねてオーソドックスなワンピースの水着を着ている。若いだけあってまだ初々しい。
 竹内はふと気付いた。ビキニが一人もいない。皆ワンピースのハイレグとは程遠い普通の水着ばかりだ。期待をしすぎた自分も愚かだが、そういった派手なスタイルをするような女性がいないことも物足りなかった。
 夏=海=水着という方程式が竹内の脳裏に算術されているが、今日はある程度の水着姿が見られただけでもよしとしておかなければいかない。夏はまだある、いつでも海にはこれるし、好き者の友達と今度来て、適当にウォチングでもしたほうがいい。あまり、会社の人たちの中で欲望をぎらぎらさせると、今まで培った自分のイメージが台無しになる(既にあるイメージが出来上がっているのを本人は気付いていないが)。
「あれ、あの子、神谷さんじゃやない。いつ来たの?」
「あっそうだね。僕も気が付かなかったよ。いつのまに来たんだろ。あとから来たみたいだね。家が近いから送ってもらったんだろ」
 いつの間にか神谷順子が日傘を指しながら渡辺たちのところにいた。相変わらずのんびり屋のようで、動きも緩慢だ。白いワンピースを着ているので泳ぐ気はないのだろう。
「お嬢様かよ」と竹内は皮肉っぽく言った。
 谷口文彦は藤井たちと談笑していた。小まめに動いているようで気のきく男だ。場を盛り上げることも決して忘れていない。
 竹内は誰か欠けているような気がした。
「そういや、加藤さんは?今日はいないの?」
「うん、彼女、夏休みでどっか行ったみたい。来たいとは言っていたけど、予定があるとかでね」騒々しさを作る要因の一人、加藤千尋がいないのは少々寂しかった。  竹内はこういった情報を土田から吸収し、出向の身分を癒した。土田は記憶力がいいのか社員の顔と名前を全部一致させている。それが普通なのだろうが、出向している人間にとっては至難なことなのだ。逆に言うと、自分が入りたての頃、出向に出ている先輩を覚えるのがまた一苦労だった。いきなり外から電話が来ても誰なんだといつも一瞬迷ってしまう。その迷われる立場が今の自分なのだと思うと多少出向の寂しさを感じてしまう。
 佐藤真里は日焼けをしないように長袖で完全防備している。古田や秋山と一緒にいて楽しそうに話していた。枡田と寺村は泳ぎから戻ってきたところで、またビールを取り出した。一体どれだけビールを買い込んだのだろう。四大メーカーの、しかもその中にも色々な銘柄が数多くあり、より取り見取り選べる。ジュースのペットボトルも無数にあるが、ほとんどがすでに空に近い状態だった。
 時刻はお昼を過ぎていた。肉に飽きた人たちが、海の家でかき氷やタコ焼きを買ってきた。夏にはやはり氷だ。青山が大きな鍋に湯を沸かし始めた。何をするのかと竹内が尋ねると「冷麦」という意外な返答が返ってきた。佐藤寿晃が冷麦の麺を準備している。スキーでスパゲッティを作るような連中だから、冷麦をつくることも納得できる。沸騰した湯に麺を入れる。湯があふれないように気を付けながら見守り、その間につゆの準備を佐藤がしている。そろそろ焼肉の満腹感も薄れ始めたのか、ちょっと腹の減った人たちが集まり始めた。青山が麺を一本すくい飲み込んだ。「O.K」と言って鍋をガソリンコンから取り上げ、土田に持たせたざるに入れた。ポリタンクに入れた水を流し、一気に冷やして大きなボールに移し、クーラーボックスの氷を入れた。こんなところで冷麦が登場するとは思わなかったが、夏の風物詩はいいものだ。二十人以上いるので一回ではまかないきれない。二回目の湯を沸かし、冷麦の供給が待ち望まれた。

         3

 喰って飲んで泳いで、暑い夏のひとときを皆充分に悦楽した。炭火もちょろちょろとわずかな残り火だけで、その上の鉄板には食い物の焼けかすと炭化した肉だけが残っている。タレの残った皿が散乱し、大きなビニール袋には無数の空き缶が放り込まれ、晩餐の終焉がこようとしていた。
 眠りこけてしまった藤井の背中は見るからに真っ赤で、しばらく入浴には苦悶の表情で入らなければならないだろう。青山は相変わらずちびちびとビールをあおっている。帰りも運転しなければいけないはずなのに、大した人物だ。白井と枡田は元気なのか、シュノーケルをくわえながら海から戻ってきたところで、タオルで体を拭きながら、まだ余裕の顔をのぞかせている。そのシュノーケルと水中眼鏡を受け取り、今度は田岡が海へ向かった。その反面、伊藤や古井ははしゃぎ疲れて、海の家の日陰で寝ていた。喰うのと泳ぐのに飽きた佐藤寿晃や寺村は砂浜に穴を堀り、そこに渡辺裕予を埋めて「砂風呂」だと笑い転げた。首から下は完全に埋め込まれた渡辺は身動きもできない。悪戯が過ぎるが、丁寧に胸の形に砂を積み上げ、海草まで付けるのは度の過ぎようだ。戻ってた枡田が「渡辺さんこれ、これ」と言って、捕まえた蟹を顔面にさらすと、びっくりした渡辺は強引に砂を盛り上げ這い出てきた。加藤たちの新人四人組みは砂の城などを作って寂しい遊びをしていた。最後にもうひと泳ぎしようと海へ繰り出す人たちもいた。
 忙しい、身の人たちだ。そうそう休みの度に遊びに行くことは出来ない。特に「滋賀グループ」と呼ばれる仕事をしている人たちは今日でさえ無理してきているのだ。それは、今までの仕事に嫌気がさしはじめ、今後もっとハードになるのは地球が回っている以上に明らかなので、少々手が空いているこの時期に遊べるだけ遊んでおこうという思惑だった。それは確かに正解で、それ以上に数奇な事件が待ちうけているのを彼らは知る術もなかった。もちろん、竹内も・・・・・・。
 そんな「滋賀グループ」の一人、山田悦子も再び海へ進んだ。彼女は既にトリオを退職していたが、前述の仕事のためいまだにバイトという身でトリオの生贄になっていた。今日はその鬱憤を晴らすがのごとく水に戯れた。彼女はトリオに入社し、ある意味では不運な目に合い続けている。仕事の面でもそうだが、トリオが巻き込まれた数々の事件にはなんらかの形で遭遇し、ショッキングな事や辛く悲しい出来事にも直面していた。そんな不運がまたしても彼女に振りかかった。
 比較的大きなその漂流物は遠目からは布に包まれた粗大ゴミのように見えた。工業地帯に近い近海である、何が流れていてもおかしくはない。その漂流物は遊泳区域を仕切るブイを通り過ぎ、海水浴場内に漂ってきた。その時、悦子は「ちょっと冒険」と思ってエアーマットにつかまりながら沖へ泳いでいた。一度水面に潜り、再び顔を上げた時、その漂流物にぶつかった。何だろうと思い顔にしたった水を拭って、その漂流物を直視してみた。
 目と目が合った。その漂流物の目と。漂流物には目があった。白くよどんだ二つの目が。その目に精気はない。それは既に生命をなくした亡骸でしかなかったからだ。
 悦子は悲鳴と共に沈んだ。

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