このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

知多半島殺人事件 〜南吉の涙〜


第二章  奇妙な死体

         1

 山田悦子は家族と食卓を囲んでいた。両親と兄、自分も含め皆B型の家族は好き勝手なものを食べている。悦子は焼魚を食べていた。ほどよく焦げた魚は白い皿の上で横たわっていた。死んだ魚の目は白く濁っている。その白い目が悦子の目と視点があった時、動くはずのないその魚がピクンと跳ねた。驚く悦子だが、身動きが出来ない。椅子に縛られたように動かせるのは顔だけだった。動く焼魚を避けようと顔を動かすと、白い目の焼魚はテーブルの周りをばたばたと踊りまくっている。焼魚の白い目がギョロリと動いた。濁って澱んだ目が。山田悦子は恐怖のあまり悲鳴を上げた。

 悲鳴を上げた悦子は自分に何が起こったのか一瞬分からなかった。眩しい光が瞳を貫きまばたきを何度も繰り返した。やっと、視力がハッキリすると周りにトリオの人たちがいるのが認識できた。瞬時の記憶喪失から直前の出来事が蘇った。
−−−白く濁った目。
 その記憶が脳裏によぎると、悦子はまたパニック状態に陥り、騒ぎだした。
「悦ちゃん大丈夫よ、もう」と祐子がなだめると悦子も現状が把握でき始め落ちつきを取り戻した。
 既に、海水浴場は大騒ぎになっていた。漂流してきた土左衛門は監視員に発見され浜へ運ばれた。周りには怖いもの見たさの野次馬が集まり、監視員たちもそれを払いのけるのに苦労した。悦子は死体発見直後、失神をし溺れかけたが、彼女を驚かそうとこっそり後を追っていた伊藤に助けられ、浜まで運ばれたのだ。美香たちも悦子の緊急事態に気付き、皆で救援に向かった。
 意識のハッキリした悦子に藤井が問いかけた。
「どうしたんだ、悦ボン?突然溺れたり、悲鳴を上げたりして」
「えっ、あの白い目が、その・・・・・」と嗚咽と言語の障害で意味不明のことを言っていた。
「どうやら、あの騒ぎと関係がありそうだな」と青山が人だかりを指さしながら言った。
 その人込みの中から白井と田岡が抜け出てきた。
「何があったんです?」早速、古井が尋ねた。
「水死体が上がったようだ。男らしいけど、よく見る気にはなれなくてね。あまり、気持ちのいいものじゃないね」田岡がしかめっ面で答えた。
「悦ちゃん、どうかしたの青い顔をして」白井が横たわる悦子に気付いた。
「溺れかけたんだけど、どうやらあの死体を発見したのが原因じゃないかな」という青山の意見に誰もが納得した。
 竹内は黙って傍観していた。ひとまず、悦子が無事でホッとしたが、水死体のことを耳にすると心が少し騒ぎだした。本性の好奇心、探偵気質がみるみる大きくなりだした。
「まあ、悦ちゃんは無事だったら、ひとまず安心ね。あの騒ぎじゃ海に入る気にもなれないし、どうしましょ?」と渡辺裕予が皆にきいた。
「しばらく、山田さんは休ませておきましょう。あの騒ぎのこともあるので、僕らもこのままここにいたほうがいいのじゃないのかな。もしかしたら、警察がくるかもしれませんしね」その佐藤の提案に皆賛同し、悦子をパラソルの下に運んで、他の者は後片付けをしながらその辺をウロウロしていた。
 古井が竹内たちのところへ来た。
「竹内さん、あれ見に行かない」と人だかりの方に顎をしゃくった。
 竹内も正直言えば興味があったがあからさまに見に行く行動にも出れない。
「ああ、そうだね・・・」と曖昧な返事をしたが、土田と伊藤は死体など見たくもないので、「いいよ」と逃げ腰で去っていった。
 竹内と古井はまだ散る様子もない人だかりに近づいた。水死体だというの物好きな人間が多い。二人はその隙間を縫って前に出た。死体は既に監視員たちにより青いカバーをかけられていたが、カバーが小さいため体の一部が見えた。どうやらスーツを着た男のようだが、顔が見えないので年齢的なものなどは分からない。ただ、竹内は一つ気になるころがあった。それは死体の手だ。 
黒い手袋をしていたのだ。水に濡れているのでハッキリとは分からないが毛糸のようだ。この暑 い夏なのになぜ?この死体の死因は分からないが、自殺なら自ら手袋をするなどという行為はお かしいし、他殺としても犯人が被せたとしたらもっとおかしい気がする。ここからは右手しか見えないが、たぶん左手もそうなのだろう。
 その時、二人の制服を着た警官が人垣をかき分け内側に入ってきた。一人が野次馬は下がるよ両手を上に上げ人々を押し戻そうとした。もう一人の警官は死体の傍らに立っている監視員と話をしてから、カーバーを摘んで死体の顔をおがんだ。丁度体がうつ伏せで顔だけが右側に向いていたので、竹内にもその顔を見ることが出来た。素人で、なおかつ水死体だから、竹内の判断では明確なことは言えないが、三十から四十の男と思われた。古井もそれを見たため気分を悪くし、竹内に「戻ろう」と催促したので、竹内もそれに従い、人込みを抜けようとした。パトカーのサイレンが大きく鳴り響き、制服の警官やスーツ姿の刑事が大挙押し寄せてきた。走りにくい砂浜を警官たちが現場に駆け寄った。その後をのんびり歩く年輩の刑事が竹内の目に入り、近づいた。
「杉浦さんじゃないですか?」
「おや、あんたは・・・そう竹内さんじゃないですか。どうしたんです?こんなところに」
「ええ、会社の仲間と海水浴に。そういう杉浦さんは、ああそういえば常滑署でしたね」
「水死体が上がったっていう通報があったもんでね、それじゃ、また後で、まだ、この辺にいるんでしょ」
「ええ」
「竹内さん、知り合い?」古井が尋ねた。
「ああ、近所の人なんだ」
 竹内の住む所は昔からの住民が多いので町内会や児童会など地域性の連体はしっかりしていた。その中には消防団というのもあり、竹内も最近、その団員になる年齢に達したので、必然的に入る羽目となった。杉浦も同じ町内の住人で、彼は消防団の副団長の任を担っていた。彼が、警察関係の人間とはきいていたが、常滑署の刑事とは意外だった。
 竹内と古井が戻ると皆片付けをしていた。悦子も気分が回復したようで、手伝いをしている。竹内たちもそれに追随し、運び役を買った。海水浴場でバーベキューを催した以上、後片付けはきちんとやるのが常識だ。なまもの、缶類などに分けてゴミを集め持ち帰る物もあれば、ちゃっかり海の家のゴミボックスに入れていく物もある。一通り片付けが済むとシャワーを浴び、着替えに入った。まだ午後の陽射しは強いが、そろそろ帰る人も目立ちだし、先ほどの事件のせいで海に入る人も疎らになってきた。その間に先ほどの遺体は運ばれたようで救急車とパトカーのサイレンが聞こえ遠くに消えていった。
 海の家で横たわったり、少しお腹がすいた者はラーメンなどを食べていた。そこに、杉浦刑事と部下らしい人物がやって来た。杉浦は竹内を見つけると近づいてきた。
「竹内さん、ここにいたんですか?」海の家のへりに座っている竹内の横に杉浦も座った。
「事件の方は片づきましたか?」
「ええ、一応検死ということで署の方に運びましたが」
「自殺か、それとも他殺か分かりました?」
「まあ、ハッキリしたことは検死報告をまたなければいけませんが、殴られた痕があるのでたぶん、他殺でしょう」
「そうですね、ちらっとしか見てませんが死体の状況から見ても溺れて水を飲んだ様子はなし、殴打にもきっと生活反応があるでしょう」
「竹内さん、結構詳しい物の見方が出来ますな、専門用語も出てきますし」杉浦は少々不審な目付きをした。
「いえ、推理小説などが好きなもんで、つい」と竹内は照れ笑いをした。
「それで、何か用です、聞き込みとか何かですか?」
「ええ、一応、聞き込みでもと思っていますが、漂流していた遺体ですから、現場がこことは断定できませんですし、時間的にも十二時間ぐらいは経っているのでここで聞き込んでも仕方がないんですけどね。ただ、監視員の他に発見者はいないかと思っているんですけど」
「ああ、第一発見者ですか」竹内は教えようか教えまいか迷ったが、相手が刑事では仕方がないので話すことにした。
「・・・あの、たぶん、第一発見者はうちの会社の女性だと思いますよ」
「本当ですか。それは奇遇ですな」
「でも、今の杉浦さんのお話のように単に死体を見ただけで、何も事件に関わるようなことはないと思いますよ。それに、彼女も水死体なんか見たものだから、相当のショックを受けたようで、元々そういうものには弱い女性なんです。今やっと気分がよくなったところなんであまりぶり返させるようなことは避けて欲しいんですけど」 「そうですか。竹内さんの仰ることは充分分かります。でも、念のためお話だけでも」
「はい、あそこに座っている女性です」竹内は悦子を指さした。「真野さん!」とまず、祐子を呼んだ。祐子が畳を這ってくると、
「こちら刑事さんなんですけど、あの事件のことで山田さんに話をききたいそうです。山田さんは大丈夫ですか?」
「ええ、今のところは随分落ちついたから大丈夫よ」
「じゃ、この刑事さんの話、一緒に聞いてあげてください。山田さんのことは説明しましたから、充分配慮してくれるとは思いますが」
「分かったわ」祐子が承諾すると、杉浦も「お手数掛けます」と言って、座敷に部下と上がり、三人で悦子のところへ行った。
 日もだいぶ西である海岸に近寄ってきた。時間は五時ぐらいだが、日の入りにはまだ時間があり、雲に隠れた太陽であってもあたりは明るい。海はすっかり泳ぐ人もいなくなり。さっきまでの賑わしさとは対照的に人けのない寂しさが漂い始めた。満杯だった海の家の駐車場も半分以上が空きになった。夏の海は海水浴だけではない。夜になれば夜になったでそれなりの楽しみがある。竹内たちもその予定があり、まだ、帰路につくつもりはなかった。
 砂浜では佐藤がバイクを繰り出し、スピンしながら遊んでいる。佐藤のバイクは小型だがオフロード用なので砂など目ではなかった。物好きな酒井がバイクを借りて乗ろうとしたが、スポーツが得意な人間でもいきなりバイクに乗るのは難しく、エンストばかりして、うまく操縦できない。その代わり、運動が苦手でもバイクに何年も乗っている土田や前沢が試してみると、それなりに動かすことが出来る。まあ、土田は背が低いため足が付きにくく苦労はしているが。最後に伊藤が乗った。こういうことには長けている伊藤は巧みにバイクを転がし、天性の力を見せつけた。
 杉浦刑事が悦子との話を終え戻ってきた。悦子は気丈に話をしたようで平静を維持している。「どうでした?」竹内が靴を履く杉浦に尋ねた。
「まあ、単に発見しただけとういところですかね。遺体がどこから流れてきたかは気が付いていないし、すぐに失神してしまったようですから、細かいことは何も」
「そうですか」
「それでは、署に戻りますよ。また、竹内さんには話を聞くかもしれませんのよろしく。来週、消防団の集まりがあったと思うんで、また、その時にでも」
 杉浦刑事はその場を去り、覆面のパトカーで帰っていった。
「そろそろ、行こうか。ここにいてもしょうがないんで、サ店でも行って時間でもつぶそう」と藤井が提案した。
「山田さんは大丈夫なんですか」と松浦が尋ねると、祐子が「悦ちゃんは大丈夫よ。いつまでもそう落ち込んでいるほどヤワじゃないって本人は言っているけど」と説明し、悦子もいつもの笑顔を取り戻していた。

         2

 一行は各々の車に分乗し出発した。先頭の車に導かれるまま目についた喫茶店に入った「アンダルシア」という一階が駐車場で二階がフロアーになっているところに入った。二十五人ほどは十分に入れる広さで、適当に席に分かれ、アイスコーヒーやジュースなどを頼んだ。
 竹内は土田や伊藤などのいつものメンバーのところに座った。
「こんなところに寄って、まだ、どこか行くの?」竹内は土田に尋ねた。
「ああ、夜は恒例の花火大会だよ。豪勢に沢山用意してあるから」と土田は答えた。
 いい歳こいて花火もなんだなと思ったが、夏の夜はやはり花火というのが定番なのかと呆れ半分に竹内は思った。しかし、周りの人には迷惑にならないのだろうか。たぶん、人けのないところでやるのだろうが、自分も海の近くに住んでいるので堤防で花火や爆竹をやられるとうるさくていい迷惑だといつも頭にきていたので、ふと心配になっていた。
 アイスコーヒーが配られ、だれもががやがやと雑談していたが、竹内はいまいち上の空だった。どうしてもあの死体のことが気になってしょうがない。竹内の悪い癖だが、考えだすときりがないのだ。あれが、単なる水難事故ならそれほど深く考えることもないのだが、服を来た他殺体となると話が違ってくる。そして、何よりも手袋をしていたというのが、最も気になるのだ。杉浦は気付いていないのか、気付いてもたいしたこととは考えていないのか、竹内との対話でも言及しなかったが、竹内にはあれが何かの重大な意味があるような気がして仕方がなった。
———手袋!この暑い時に手袋などするだろうか。あんな毛糸のような黒い手袋を。車の運転手などはよく白い手袋をするが、それとは全く違うものだ。犯人が指紋を隠すのに手袋をするのなら分かるが、被害者がとは?それとも、あの人物が何かをしようとして逆に殺されたので、そのまま手袋をしていたのだろうか。今度杉浦さんに会ったらきいてみよう。
 そんな物思いに耽っているを感知したのか、土田が声を掛けてきた。
「竹内さん、悪い癖だよ。また、事件に首でも突っ込もうと思っているんでしょ」
 図星のことを言われ竹内は戸惑った。「いや、そのね、ちょっと・・・気になって」
「でもさ、今度はトリオとは関係が全くないんだからさ。そりゃ発見者は山田さんかもしれないけど、それ以上にうちとは関わりがないんだからさ、いい加減にしたら」
「ああ、そうだな」と言いつつも、土田がいつも事件を運んでくる張本人だと思い、少し義憤を感じた。だが、土田の言うことも正論だ。何も自分の周りと関係ない事にまでタッチする必要はない。それこそ、本当に探偵になってしまう。でも、気になってしょうがない。あの手袋が・・・・・・。

 一時間も喫茶店で時間をつぶしているとあたりはすっかり真っ暗になった。一行は喫茶店を出るとさっきの海岸方面まで戻り、小野浦海水浴場を通り過ぎると野間崎灯台のところまで進んだ。大正十三年に点灯されたわりと古い灯台だが、観光用に中に入ることは出来ない。近くにある空き地に車を止めた。夏といっても夜になれば海岸ということもあって結構涼しい。海風がわずかに流れ、心地よさが薄い洋服を通して体に染み渡ってきた。灯台の明かりが、一定の間隔で回っている。その光が暗い海の奥まで届き、遠くの一点を一瞬だけ照らしだし、その瞬間に波のうねりが見えた。二十キロはあるだろうが、伊勢湾を挟んだ対岸の明かりがきらめく。ここからだと、三重県の四日市や鈴鹿あたりになるのだろうか。コンビナートの明かりは文明が消滅するまで消えないがのごとく煌々と灯っている。時たま、動く明かりが見える。舟やタンカーの明かりなのだろう、伊勢湾の根元、名古屋港は意外と知られていないが貿易港としてはかなりの規模があるのだ。神戸・横浜に次ぐ第三位である。この海にもしかしたら、もっと明るい光が灯るかもしれない。中部国際空港だ。まだ、まだ先の話だが、そうなるとこのあたり、知多半島周辺も一気に変わっていくのだろう。
 皆、車から荷物を取り出すと道路を渡って海岸に降りた。この付近は珍しく砂浜ではなく岩場になっていた。懐中電灯を持った者を先頭にゆっくり降りていく。既に、周りではあちこちで花火の音や、一瞬の光の芸術が始まっている。暗い海の存在は波の音のみしかない。規則的に打ち寄せる波の「バシャン」という音が響くだけだ。
 皆が、下に着くと一斉に花火大会が始まった。人数が多いだけあって花火の量も膨大だ。おもちゃ屋で売っているようなセット物が山積みのようにあり、次々と開封された。線香花火のような質素なものから、ドラゴンや連発、ロケットや煙幕まである。ただ、トリオの花火大会はそれでは済まない。佐藤寿晃の持参した花火はそんじょそこらの代物とはわけがちがう。本場中国で作られた超過激な花火なのだ。佐藤はその花火の秘密のルート(それほどの密輸品ではないが)を知っており、夏や冬のスキーの時にでも買いに行くのであった。はっきり言って日本では違法な花火なのだが、それ故に、その花火の醍醐味は素晴らしい。隣のグループが派手に花火を打ち上げていると、「こちらもかましたれ!」と藤井の一言でその花火に点火された。「ドーン」とものすごい音がこだまし、鮮やかな大輪を咲かせた。並みの花火とは違う。夏のお祭りで催されるような花火大会の打ち上げ花火ほどの規模があり、周りの人が驚いているであろうことに、佐藤とトリオの面々は優越感に浸った。続いて「蜂の巣」と呼ばれる花火に点火された。蜂の巣のような形をしたそれは火が付くと一斉に火花を散らす。中国の旧正月に行われる爆竹の連打のように凄まじい轟音が響き、海とは反対側の山に反射し音の余韻を残させた。そんな派手な雷鳴の中でも地道に小規模な花火に火をつける女の子もいて、人それぞれに花火を楽しんだ。男たちは空き缶を探してきてはその上で回転花火を廻し、本当は手で持っていけない花火を握って海に連撃する。
 花火はみるみる消化され、残ったカスの山が積み重なった。辺りには火薬の匂いと霧のような煙が漂う。あれだけあった花火はすべてなくなり、夏の一大イベントは終わった。
 誰もが「すっきりした」と満足げな表情を言葉に表すと、「じゃ、帰ろうか」という声と共にぞろぞろ陸に上がりだした。まだ、あちこっちで花火の爆音は響いている。学生などの若い連中は夏の夜も好き放題だが、サラリーマンはそういうわけにはいかない。時刻は九時になろうとしている。
「それじゃ、今日はお疲れさま」と美香が仕切ると、「じゃ、また」、「さよなら」、「おやすみ」とそれぞれが別れの挨拶を交わし、帰りの車の手配を相談してから、分乗した。北へそのまま国道を走る車や南下してから知多半島道路で帰るものなどバラバラに散っていった。
 竹内は榊原と神谷を送ることになり、行きと同じ枡田も乗せて出発した。神谷は武豊、榊原はその武豊に接する半田に住んでいた。夜も遅いので道は十分に空いている。途中、伊藤や土田たちのバイクにパッシングと共に追い抜かれ、こちらも挨拶のクラクションをならした。女の子たちは疲れた様子で言葉数も少なく、半分寝ているようだった。竹内は適当に枡田と会話をし車を進めた。常滑に入ってから武豊方面の県道に入り、神谷を降ろして、続いて、国道沿いで榊原を降ろした。その後、再び半島を横断し、大野に向かった。
「トリオの人たちは楽しいですね」竹内は枡田に声を掛けた。
「そうだろ。個性豊かで飽きないよね」
「また、何か企画しているんですかね」
「この間は北軽井沢まで行って、別荘に泊まったから、今度はキャンプでも行くんじゃなの」
「ふーん、いろいろ考えていますね。お互いに忙しいのに、よくやりますよ」
「佐藤君や青山さんは好きだからね。でも、いいじゃないの、僕らも楽しめるから」
「そうですね」
 車は枡田の家に到着した。彼を降ろし、やっと家路に着くことができる。竹内は一人になり、また考えだした。今日は実に楽しい一日であった。しかし、思わぬ出来事もあった。そう、謎の水死体。また、そのことを考え始めるとどうしてなのだろうという好奇心がふつふつと湧きだした。
———手袋とは?何の意味があるのだろう?

            3

 翌日の新聞には昨日の水死体のことが三面記事に載っていた。思ったほどの大きさの記事ではない。身元はその日に判明した。遺体の所持品に名刺があり、すぐに照会がなされた。被害者は古川俊之、二十八歳、住居は碧南市で、油ヶ淵近くに住んでいた。職業は自宅近くで不動産業を自ら営んでいた。親の事業をそのまま引き継いだ形で、若いながらも一応は社長として経営を運営していた。死因は右側頭部強打によるショック死、水はほとんど飲んでおらず、殴打時にほぼ即死と推測された。その後海に投げ捨てられたものと判断できる。殺害現場及び死体遺棄現場は現在のところ不明。小野浦海岸まで流れ着いた場合の潮の流れを逆算すれば投棄場所はある程度推測できる。死亡推定時間は検視時からみて約二十時間で、前後二時間の誤差はある。よって、殺害時刻は前日の午後五時から九時の間となる。
 被害者の足取りだが、遺体発見の前日、金曜日の午後四時までは確認された。その日もいつも通り不動産屋を営業、四時までは事務所で仕事や客との対応に追われていた。四時をすぎたころ出かけてくると、従業員の女性にひと言言って外出、それ以降の足取りはすぐに分からなかった。どこへ行くかはその従業員に言わなかった。彼女の方も普段から古川が出かけてもあまり気にはしていない。不動産関係なので外出は多く一々きいてはいられない。それでも、戻る時間の予定ぐらいは確認しておくのだが、その日は遅くなるので先に帰っていいと言い残していた。古川の車は二日後、碧南駅近くのパーキングで見つかった。碧南駅から彼の事務所まで車で十分ほど、ここまで車で来て電車で出かけたか、あるいは誰かと待ち合わせたか。だが、駅周辺の聞き込みによっても古川の姿を目撃したという有力な証言は得られなかった。二日後衣浦トンネルを古川らしき人物が通過したという証言が得られた。衣浦トンネルは碧南市と半田市とを結び衣浦湾の海底を進む有料の海底トンネルだ。料金所の職員が古川の車と彼の顔を記憶していた。時刻は四時半。このことから古川は車で知多半島方面に向かったことがはっきりしたが、そこからの足取りは不明である。また、彼が知多半島に出かけたのに車が碧南にあったのが大きな謎となった。駐車所は無人の設備で、古川の所持品から、また、車からもチケットは発見されなかった。いつ、車を入れたのか、そして、誰が?本人なのかそれとも・・・・・・。
 古川はまだ独身で、まだ存命の両親とは別居、新築したばかりの一戸建てに一人で住んでいた。動機の点では今のところ全く不明だ。金品を奪われた形跡はなく、物取りや通り魔的な犯行とは思えず、怨恨の線が濃かった。女性関係は現在特定の女はおらず、客の接待も兼ねたスナックなどの女とたまにゴルフをする程度で、深い関係の人物は出てこなかった。不動産ということで土地に絡むトラブルがありそうだが、古川はそれほど利益に執着するタイプではなく、ほどほどにアパートやマンションの賃貸、中古の一戸建てを売買していたので、大きな問題はなかった。むろん、賃貸契約上のトラブルや、地元の暴力団との関連も全くなかった。そういった女関係・仕事関係の上で動機らしきものは見つからなかった。
 唯一の手掛かりは古川が出かける寸前にあった電話だ。女性従業員の話によると、電話は社長自ら出たため相手の判別は出来なかった。古川は電話を取り、二言三言話すと、妙に深刻な表情になり声を潜め何かの打合せをしているようだった。その中で従業員が聞いた言葉は「懐かしいな・・・」という会話だけで、あとは全く分からなかった。警察はこのことに注目し、電話の相手が容疑者、もしくは重要参考人と見て、捜索を開始した。古川はこの人物に呼び出され、何らかの事件に巻き込まれたものと見ている。が、男女の性別も年齢も分からない状態では雲をつかむような話であった。
 以上が事件発生翌日からの新聞、ニュースによる事件の概要だ。こうして事件は暗礁に乗り上げた形で、一週間を迎えようとしていた。

                          海水浴から一週間が経った土曜日、竹内は朝寝坊をして十時ごろ起きた。この一週間あの事件の事がいつもあたまに引っ掛かり、毎日新聞やテレビのニュースを気にしていたが、いつものように行動には出なかった。トリオの人が関わっているでもなく、誰かに頼まれたのでもないので、事件に首を突っ込むことは出来なかった。それにやるべき仕事が一応あるし、真に切迫した状態でもないので手を出す必要もない。それでも、ふと事件のことが脳裏をよぎると、手袋の意味を探そうといろいろ模索したが、何も回答は得られなかった。
 その日は、消防団の寄合があった。寄合と言っても、消火器具の点検や、防犯に対する意見交換、夏の町内行事の打合せなど、大した用事はなく、最終的にはもっぱら、酒の飲み会に落ちついてしまうのだ。竹内も、その人柄からすぐに他の団員と打ち解け、好き勝手にやっている状態 だった。こんな時に火事がおきたらどうするのかと、思われるだろうが、結構な田舎なので一年に二三度、しかもボヤがある程度で、入団してから竹内自身出動したことはない。一度火事はあったが、その日は仕事で遅くなったので後から報告を聞いただけだった。
 今日もそんな寄合で、竹内は器具の点検をしがてら暇を持て余していた。消防団の制服を着ると祭りや出初式のようだ。神社にある大木の木陰でアイソトニック系の清涼飲料を飲んでいた。今日も暑い日だった。すでに三十度は越し、木陰にいても汗は出てくる。周りは蝉の合唱でうるさいなとぼやいてもしょうがない状況だった。夏休みの子供たちが虫取り網を持ってうろついている。
 竹内の隣に缶ビールを飲みながら男が座った。
「今日は、竹内さん。暑いですね」
「ああ、杉浦さん、どうも。あれ、今日お仕事はどうしたんです?あの事件はまだ解決していなくて忙しいんじゃないですか?」
 先日のスーツ姿とは違い、消防団の制服を着ると妙におじんくさく見える。年齢はもうすぐ四十に届こうかというぐらいで、目尻や額に皺が寄りはじめていた。刑事ドラマに出てきそうな老練なデカになる器だ。
「確かに事件は終わってませんけど、手掛かりが全くなくてね。署にいても、外に出てもにっちもさっちもいかない状況で。まあ、一週間働きづめなんで今日は休んだんですよ。元々非番の日だったんでね」杉浦は一口ビールを飲んだ。
「そうですか、それは大変ですね。事件のことは新聞などで読みました。あれ以上の進展はなかったのですか?」
「ええ」
「あっ、これはすいません。部外者の人間には話せない話ですね」
「いえいえ、本当に報道されたとおりで、あれ以上のものはなにもありません。それに、竹内さんなら、詳しい話をお聞かせしても構わないと思っていますよ」 「えっ」竹内は驚いて杉浦を見据えた。
「竹内さん、何でも探偵みたいなことをしているそうですね。竹内さんのお勤め先で起こった事件など、本当は竹内さんが解決したそうじゃないですか」
「はっ、どうして・・・、どうして御存知なのです?」竹内は心から驚いた。自分の活躍が警察内に伝わっているのかと複雑な思いに駆られた。
「いえね、筒井警部補からうかがったんです」
「筒井警部補?筒井警部補を御存知なのですか?」これまた意外な人物が登場してきた。
「ええ、まだ、私が大府署の方にいたころ筒井警部補が部下として同じ課にいたのですよ。筒井警部補は大学出のエリートで今では私を追い越し、すでに警部補、もうすぐ警部になるという噂もありますが、私はいまだに部長刑事。まあ、よくて警部補止まりでしょうね。それはさておき、先日愛知県警でばったり会いましてね、その時何気なく竹内さんのことを筒井警部補が口にしたんです。それで、私も竹内さんを知っていると言ったら、いろいろ話してくれましたよ」
「そうだったんですか、何か奇遇ですね」
「ええ、不思議な縁かもしれませんね。私もあのコンピュータ会社の事件は知っています。竹内さんがあそこの社員だったということにも驚きましたが、実はあの事件を解決したのはあなただったなんて、驚くより恐ろしいくらいですよ。偽装心中事件のことなど最初信じられませんでしたよ。警察にいても直接関わっていないと断片的なものしか分からないのでね。いや、恐れ入りました。竹内さんが警察の人間だったら、未解決な事件など存在しないかもしれませんな」
「そ、それはちょっと大げさですよ。あれらの事件もたまたま運がいいというか偶然の重なりで真相が分かっただけで、私は大したことはしていません。本質的には筒井警部補が解決したのですから」
「まあ、そう謙遜しないで下さい。筒井警部補もそういう竹内さんに惚れていましたから」
「はは・・・」竹内は照れるのみであった。
「それでですね、今度の事件も御協力願えませんかね」
「えっ、あの水死体の事件にですか?いや、それは困りますよ。私はただの素人ですから」
「そこを何とかお願いしますよ。捜査本部も手掛かりがなくて捜査が手詰まりなんです。だから、何かお知恵を御享受願えればと。私も古株で叩き上げの刑事と自負していましたが、年を取ると共に頭の方は鈍くなりましてね。事件の糸口も見えてこないんですよ。もちろん、捜査陣は地道に捜査を続けていますが、今の若い者や科学捜査というのはどうもいまいちで、そこで竹内さんのような方に発想の転換みたいな意見を聞きたいんですわ」
「しかし、いいのですか?私のような門外漢に頼ったりして」
「いいんですよ別に。もちろん他の刑事たちと話をしろとはいいません。刑事の中には素人に何ができるかと買いかぶった奴も多いので、それではかえって竹内さんに迷惑がかかりますから。私はそんなことは気にしませんよ。よい意見なら取り入れたほうが進歩的だと思っていますし、事件が解決すればその過程なんてどうでもいいのですよ」
 杉浦部長刑事は歳のわりには堅物の男でない。彼が言ったように警察は存外素人の意見など取り入れようとしない。タレ込みなどは情報として受け入れるだけで、それ以上の意見を求めることなど皆無だ。正直な話、推理小説の探偵みたいに警察に信頼を得ている人物でもなければ、素人がのこのこ警察に行って意見を述べても軽くあしらわれるだけだ。その点、杉浦は柔軟だ。例え筒井から話を聞いているとはいえ、ただのサラリーマンの意見を取り入れようなどとは稀な存在なのかもしれない。竹内はそんな杉浦の人間性が好きになった。そして、あの事件に手を付けることが出来るという喜びが徐々に芽生え、自分の好奇心の渇望を満たせる気がした。
「わかりました。そこまで仰るなら、多少なりとも協力したいと思います。ただ、あくまで素人ですので、間違っているかもしれませんし、たいしたことはできないかもしれませんが」
「そうですか。御協力願えるなら本望ですよ。ありがとうございます。じゃ、早速ですが何か知りたいことはありますか」
「そうですね・・・。捜査の状況はさっきも仰ったように報道の通りなのですね」
「ええ、だいたいそうです。あれ以上の進展はまったくありません。身元は判明しましたが、真犯人はもちろん、動機や殺害現場は以前不明です。遺体投棄場所は現在捜索中です。足取りも、知多半島に行ったことは分かりましたが、車が碧南にある理由も不明という全くお手上げ状態です」
「車の走行距離からどの辺まで行ったか分からなかったのですか?」
「ええ、ガソリンを入れてからの走行距離は分かりますが、どこでガソリンを入れたかは分からないんですよ。伝票がなくてね。ああいう商売をしているなら伝票はとっておくはずなのですけどね。いきつけのスタンドを探し、聞いてみたんですけど事件の一週間ぐらい前に給油したらしく、それでは通常の燃費から考えても、事件以前の車での移動を考慮してもうまく符合しないんです。ですから、そのスタンド以外で給油したと考えるのが妥当で、それが見つからないと走行距離から行った場所を判断できないんです。目下、知多半島からその周辺のスタンドをくまなく当たっているのですが、まだ、情報はありません」
「そうですか」
「でも、さすが、竹内さんですね。車の走行距離に注目するなんて。普通の素人では思いつきもしないですよ」
「そっ、そうですか。ははは・・・」竹内はまた照れて笑った。
「犯人象も浮いてこないのですか?」
「ええ、明確には。ただ、被害者が出かける前に掛かってきた電話で事務所の従業員が耳にした言葉に『懐かしい』と言うのが有りますから古い付き合いのあった人物に呼ばれたものと推定してますが。そのへんも調査中です」
「なるほど」
「他には何か?」
「そうですね。このことはあまり新聞などでも触れられていませんでしたけど」
「何です?」
「手袋ですよ。手袋」
「手袋?手袋って、ああ、遺体の両手にはめてあった手袋のことですか。あれが何か」
「いえ、このくそ暑い夏なのになぜ手袋していたのかということですよ」
「確かにそうです。捜査会議でもそのことは話に持ち上がりました。おかしいと誰もが思ったのですが、その回答は得られませんでしたね」杉浦は腕組みをしてもう一度考えた。
「犯罪と手袋の関係と言えば本来指紋ですよね。犯罪の証拠になりうる指紋を消すために手袋をする。そうすると、この場合、被害者である古川氏が本当は誰かを殺害しようと企て逆に殺され、死体を遺棄されたと考えられないこともありません。それならば、手袋の謎も解けます」
「そんな意見は会議でも出ましたが、結論には至りませんでした」
「あれは毛糸の手袋ですか」
「そうです。毛糸です」
「そうすると、今の説はピンときませんね。殺人を犯そうとする時、毛糸の手袋をしますかね。普通なら軍手かもっとピシッとした革の手袋を使うと思いますけど。まあ、それしかなかったらしょうがありませんが。ああ、手袋は古川氏本人の物と断定されたのですか?」
「それははっきりしません。一人暮らしなので彼のものか知る人はいませんね。しかも、今は夏ですから、見る機会もありませんし」
「そうですよね。古川氏が逆に殺されたとしても、車のことを考えると違うような気がします。殺されかかった犯人が車を移動するのは殺害現場や投棄場所の特定を妨げるために行うかもしれませんが、何もわざわざ碧南まで戻す必要はないと思います。それ以上に、車を戻すということ自体が計画的な要素を含んでいると思われるんですけどね」
「それは分かります」
「そうなると、手袋の意味がますます分からなくなる。どう考えても犯人がはめたとしか考えようがないですね」
「結局その事は捜査会議でも謎のままで、大した意味はないのではという見方が大半で私も少し頭から離れていましたよ。竹内さんがそこに意味があるというならやはり何かあるのかもしれませんね。気が付く観点が鋭いですな。私のほうが恥ずかしくなります」
「いえいえ、私の方こそでしゃばったようで。でも、僕はそこに事件の重要な鍵があると思うのですけどね」
「手袋ですか。分かりました。その点ももう少し掘り下げてみることにしますよ。いやー、参考になります。また、何か気付きましたらよろしくお願いします」
 そう言うと杉浦刑事は立ち上がり、ビールのお代わりを取りに向かった。竹内も立ち上がってその言葉に答えた。
「いえ、こちらこそ」
 竹内の「こちらこそ」にどれだけの意味があるか杉浦が気付くはずもなかった。

第三章へ     目次へ     HPへ戻る


このページは GeoCities です 無料ホームページ をどうぞ

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください