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知多半島殺人事件 〜南吉の涙〜


第七章  狐の正体

         1

 パズルのピースが一枚剥がれた。正しいと思っていたピースが微妙に違っていて剥がれたのだ。一枚が剥がれるとパズル全体は、ばらばらと崩れ始め複数の断片しか残らない完成したはずのパズルはいつしか元の状態に戻ってしまった。何を間違えたのだろう。小さなミスは大きなミスにつながる。そしてそれは取り返しの付かない事のような気がしてきた。
 お盆も終わり夏の賑わいも終焉を迎えようとしていた。まだ、残暑の暑い日は続くが秋の気配は少しずつ近づいていた。竹内の小さな疑念は日に日に大きくなっていった。最初は心の片隅に何か小さなしこりがあったのが、癌細胞のようにみるみる肥大してきた。
 むろん、最初は何の疑惑はなかった。事件は内田の復讐ということで竹内は納得していたし、それ以上に事件の結末に動揺していた。事件後はいつもの通り、早く事件のことを忘れるため、テレビや新聞の報道は避け、事件のことも考えないようにしていた。しかし、次第に気持ちも平静を取り戻し、世間の騒ぎも治まったころ、何となく疑念が湧きだしたのだ。当初、何かおかしいと考え始めたのだが、何がおかしいのか具体的な物が何もなかった。ただ、何となくおかしいなという極小さな疑問だった。
 そして、ある日気づいた。おかしいのは何もおかしくないことだということに。あの事件の結末は何も疑問なく処理された。それがおかしいのだ。事件は綺麗さっぱりに終わった。それ以上に話が出来すぎている気さえしてきた。そう、出来すぎているのだ。何もかも滞りなく終わった気がする。真犯人は自害し、事件の全貌はハッキリしないまま片づけられた。それで、刑事的には事件は終わった。誰もそれ以上の追求をしていない。
 竹内は居酒屋でトリオの仲間と飲んでいた時の土田の「見立て殺人」の説明を思い出した。
———見立て殺人には大きく分けて二種類の目的が考えられます。一つは復讐の強調です。・・・・・・もう一つの目的は今の説明した復讐の強調を逆手にとったパターンです。
 そうだ、今回の事件は「見立て殺人」であることは間違いない。そして、竹内はずっと復讐の強調として行われたと思い込んでいた。しかし、見立てにはもう一つの目的があったのだ。
———「復讐に見せかけたカモフラージュ」
 このパターンが今回の事件に当てはまらないだろうか。ここでもう一度竹内は土田の説明を思い出した。
———最初犯人と思われた人物は行方不明になるか、もしくは自殺に見せ掛け真犯人に殺されてしまうパターンがほとんどです。
 そう、まさにこの定義に今回の事件は当てはまっている。内田は自ら命を絶った。しかし、これが本当に自殺なのか断言できるものがない。睡眠薬を飲んだことは間違いない。警察の見解は薬でもうろうとしているうちに入水したというものだった。しかし、これでさえ誰か別の人間が薬入りのジュースを飲ませ、海に投げ込んだと考えられなくもない。
 竹内は考えすぎかなと再考した。内田が真犯人でなかったら誰が犯人なのか?三人の男を殺し、内田を犯人に見せかけて何か得を得る人物がいるのだろうか。彼らが死ぬことで遺産とかかが入るのだろうか?
 竹内は荒唐無稽な推理小説のような考えに苦笑しだしたが、ふと、また忘れていたことを思い出した。
 第一の犠牲者・古川に掛かった電話だ。あれは犯人つまり内田からの呼び出しと考えられている。しかし、古川は電話口で「懐かしいな・・・」と言っていた。果たして、内田からの電話で「懐かしいな・・・」などというだろうか?相手は自分の責任で死なせてしまった人物の兄である。そんな人物から電話が掛かってきて、「懐かしいな」などという懐旧の言葉を発するだろうか?逆に過去を忘れるために二度と会いたくない人物のはずだ。それ以上に、もっと恐れ、そんな人物からの突然の電話なら驚愕するはずだ。しかも、呼ばれるままに出掛けた。むろん、殺されるなどとは思っていないだろうが、そう易々と会いに行くのだろうか?どうも釈然としない。 坂の場合もおかしい。坂は自分の罪を告白する手紙を内田に送った。そして、古川が殺されたにも関わらず、内田に再会し自ら第二の犠牲者になった。警察は殺されることを覚悟で、贖罪のつもりで内田に会ったと結論付けたが、果たしてそうなのだろうか。古川が殺された時点で恐怖に取りつかれれば内田に会おうなどとは思わない気がする。坂は過去にも恐怖のため真実を明かさなかったのだ。そのような性格を持つ人物が同じ行動に出ないと言い切れるか?
 もう一つ、竹内はある疑念に捕らわれた。事件との出会いだ。竹内は今までも多くの事件に関わってきたが、どの事件も発端はトリオの人間が巻き込まれたり、自分がその場にいあわせたことが事件に巻き込まれる要因だった。さて、今回はどうだろう?確かに自分が海水浴場にいたため、最初の死体に巡り合った。これは単なる偶然で事件が竹内を呼び寄せただけと思えばそれまでだ。しかし、こうも事件に巡り合うだろうか?特に今回は事件の発端以外、トリオの人間とは全く関係がない。いわば世間であちこちに起きている事件の一つでしかない。世の中毎日事件や事故が起こっているが、それに巻き込まれたり目撃したりするのは至極稀だ。ほとんどの人たちは刑事に尋問されたり、警察にご厄介になることはまず滅多にありえない。竹内はすでに何度も警察や事件と関わってきた。それでさえ、珍しいのにまたしても事件に首を突っ込む羽目に陥った。その偶然性、確率の良さがどうも腑に落ちない。かと言って事件に出くわしたのが、必然、何かの意図があって成り立ったとも考えられない。竹内が事件に関わってどうなるのか?内田や三人の犠牲者たちとも竹内は何の接点もない。
 そう、結局は単なる偶然で自分の好奇心のために事件ののめり込んだと考えたほうが自然な気がする。でも、何か引っ掛かるのだ。何か・・・・・・。
 こうして竹内の疑念はますます大きくなっていった。一度疑念の網に捕らわれると竹内は自分が納得できるまで、譲歩できなかった。疑問な点は解決しなければ気が済まなかった。

 竹内はいつも通り出向先に出勤した。しかし、仕事の最中でも事件の疑問に縛られたままで手の動きがおろそかになっていた。
———もし、今までの自分の考えが間違っていたなら・・・・・・。それは取り返しの付かない一大事だ。だが、真実は何か見つけなければいけない。真実を・・・。

 杉浦刑事はのんびりしていた。知多半島殺人事件も片づき、捜査本部も解散して、あとは事件の残務的な事務処理を行うだけだった。杉浦は事件も無事解決し正直言ってホッとしていた。当初何も手掛かりがない時は目処もたたず、事件の長期化を懸念していたが、竹内の助言により見事解決できたことは竹内様様だった。いくら筒井から武勇伝を聞いたところで心の内では完全に信用していなかった。そりゃ、素人だ。自分のように何十年もこの道を歩んできた人間とは違うという虚栄心があったのは否めない。しかし、竹内の力は想像を遙に越える能力で、ただのサラリーマンにしておくのはもったいないと思えるくらいだった。
 「見立て殺人」などと複雑な事件を解決できるとは、しかも連続殺人を。まあ、内の若い者にもっとしっかりしてもらわねばと自分の事は棚に上げて思わずに入られない。
 その時、電話が鳴った。「杉浦刑事お電話です」
「はい、はい」と言って電話を転送してもらうと陽気に受話器を取った。
「もしもし、杉浦です」
———あっ、竹内ですけど。どうも。
「ああ、竹内さん、お久し振りです。事件の後始末があったんで、消防団の集いにもでれず、まだお礼もしてませんでしたな。それで、今日は何です?」
———あの、ですね。事件のことでちょっとききたいことがあって。
「事件って『知多半島連続殺人事件』のことですか?一応解決しましたけど、まだ何かあるのですか?」杉浦は一人で眉をしかめた。
———ええ、そうです。確認したいということと言うか、分からないことがあるので、自分自身納得しないと、何か私の中で解決していないような気がするんで」
「はあー」杉浦は相手の意図がつかめず気の抜けた返事をしてしまったが、名探偵の考えだから自分の思考の範囲ではないと解釈した。
「それで、何です」
———こんなことをきくと失礼かもしれませんが、新聞等に出ていなかったので、どうかなと思って。三人の被害者が亡くなったとこでどなたか得をするということはなかったのですか?
「ああ、なるほど。保険金のこととかを仰っているのですね。もちろん、そのへんのことは一応調べていますよ。坂氏は生命保険が奥さんに、古川氏や高山氏も保険に入っていたのでこちらのほうは御両親が受け取り人ということになっていますが。むろん、家族に対し怪しい点はありせんでしたよ。どの方もアリバイはハッキリしていますし、当然つるむなんてことはありませんでした」警察はやることはやっているのだと、杉浦は少々威厳を込めて言った。
———そうですか、そうですよね。あの内田氏に宛てられた坂氏の手紙ですけど、日付などはどうなのですか?
「それですか、実はあの手紙封筒が見つからなかったんですよ。多分、内田が捨ててしまったと思うのですけどね。ですから、日付とか投稿場所はわかりません。でも、手紙は筆跡鑑定の結果坂氏のものであることは間違いありませんから」
———そうですか・・・・・・。
 受話器が沈黙したので杉浦は言葉を促した。「他に何かありますか?」
———ええ、もう一つ。古川氏の遺体ですけど、死因である殴打の痕以外に何か体に残っていませんでしたか?傷とか擦った痕とか?
「傷・・・?そういえば検視報告の中にありましたな。足首に擦過傷、つまり紐状のもので擦れた痕があるとか」
———本当ですか?それには生活反応があったのですか?
「生活反応?生活反応のはありませんでしたよ。つまり、死後付いたものと判断できますな。漂流中、何かに引っ掛かっていたんじゃないですかね」
———そうですか?ありがとうございました。
「これで、納得されましたか。竹内さんは細かいですな」
———いえ、それではまた。
 杉浦は電話を切って少し考えた。竹内は何をそんなに気にしているのだろう。一抹の不安を覚えずにはいられなかった。

         2

 吉田真紀はお盆休暇も終わって、普段どおり出社し、いつものように与えられた仕事をこなしていた。今は渡辺の指導の元、前の仕事の書類を整理していた。次の仕事は九月からK塾へ行くことに決まっており、それまでの場繋ぎだった。今日は月曜日なので社内も人が多い。六階のことはよく分からないが、七階は青山や森、榊原、「滋賀グループ」と呼ばれている面々も山田以外は全員いた。珍しいことに、三課の白井や古井、田岡など普段滅多にいない人たちもいて部長たち管理職がいなくなるとなんとなくざわめきが心地よく広まっていた。
 真紀自身、気持ちの方はかなり落ちついた。事件直後は平静を装うと思っても心が揺らいで仕方がなかった。誰にも相談できず、一人で気丈に振る舞ったつもりだが、周りの女性たちには逆にそれが妙にうつり、心配事でもあるのと尋ねられ適当に答えるのには窮していた。そんな時、 竹内が訪ねてきた。竹内に会えば心の垣根は一気に崩れるような気がして、避けたかったが、心の奥では会いたいと思っていたのだ。自分の気持ちを理解してくれるのは竹内しかいないような思いだった。むろん、事実を知っているのは竹内だけという前提はあるが、それ以上に竹内の人間性に信頼を置いていたからだ。竹内が現れた時はもうどうしようもなかった。抑制していた悲しみのたがははずれ、素直な自分に戻っていた。
 それはそれでよかった。人間涙を我慢しすぎてはいけない。人は心を持つ生き物だ。時には喜び、時には怒り、時には悲しむ。その感情があるからこそ人間は人間らしく生きれるのだ。涙は恥ではない。様々な感情が心の中に充満し、それ以上包み込めないときに涙は溢れるのだ。涙を我慢すれば心が許容量を越え暴発するかもしれない。そうすれば人間としての理性を失い、精神の乱れが心身共に蝕んでいってしまう。
 真紀もあの時、竹内の胸の中で泣いたことは結果的には良かったと思える。彼女の悲しみの脹らみは限界に達していた。いくら、耐え忍んでも彼女も女性である。精神の均衡も極限に近かった。竹内が現れたことで、その思いを、唯一理解してくれる人物に解き放たれたことが彼女の重荷を取り払ってくれた。その後、新入社員ということで短い夏休みでしかなかったが、気持ちの整理は十分に出来た。いつまでも過去に縛られてはいけないのだ。
 だが、そんな時に、再び竹内が現れた。単にたまたま寄ったという感じではなく明らかに自分を訪ねてきたことが分かった。
———何のだろう?まだ、何かあるのかしら?
 この間のこともあって会うのは恥ずかしい気がしたし、まだ、何か事をぶり返すようなつもりなのかと、多少の不信感を募らせた。
 真紀はマシン室にいた。真野がワープロを打っているし、土田と佐藤寿晃と加藤共生はマウスを使ったマシンで作業している。白井と田岡も相談しながらマシンを操作し、時折古井がのぞきこんでいた。森は相変わらず妙な顔つきでディスプレイとにらめっこをしている。真紀は白井たちの反対側、普段誰も使わない、旧型のマシンを操作していた。ふと気配を感じ顔を上げると竹内がマシン室の入口できょろきょろしていた。真紀を見つけると竹内は静かに近づき、隣の空いている席に座った。
「吉田さん、どうも。元気になった」竹内は軽い感じで言葉を交わした。
「ええ、もう大丈夫です。先日はすいませんでした。見苦しいところを見せたりして」
「ああ、いんだよ。別に悪い気はしないし」と竹内は唇で微笑んだ。
「それで、今日は何か?」
「・・・・・・、ちょっとね・・・。吉田さんには折角気持ちが落ちついたところなのに申し訳ないんだけど、もう少し、事件の事でききたいんだよ」竹内は言いづらそうに尋ねた。
「事件のことですか?でも、一応事件は片づいたのでは?」
「そうなんだけど、一つ気になることがあってね。ちょっと確認したいんだ」
「はい、何でしょうか」真紀不安げな様子を見せた。
「亡くなった三人だけど、吉田さん全く記憶がないの?」
「あの方たちですか?ええ、ほとんど覚えていません。ただ、いつも仲間通しで遊んでいた中学生の人は記憶にあるので、もしかしたらその人たちだったかもしれませんね。母もやんちゃな男の子がいるとか言ってましたから。名前も新聞を見てそんなんだったような気がします」
「そう・・・。そのグループだったけど三人だけだったかな?」
「三人?亡くなった方々じゃないのですか・・・?ああ・・・そういえば今言った仲良し中学グループは四人だったような気がします。そう四人です。もう一人いましたね」
「そうかい、もう一人いたのか」竹内は喜んだのか周りにも聞こえそうな大きな声を発し、他の人たちの視線を浴びてしまった。
「ありがとう」
「あの・・・」真紀は何のことかきこうとしたが、竹内は一目散に出ていってしまった。
 真紀の心には再び不安に似た感情の目が出ようとしていた。

 竹内はスカイラインを走らせた。出向先から常滑署に電話を掛けたあと、いてもたってもいられなくなり、まず、社に戻って真紀を訪ねた。そして、重大な証言を得られたのだ。
 古川たちは三人組ではなく四人組だった。この新たな証言は事件の方向性を全く変えるものだった。内田が弟の復讐のため、十五年前岩滑のいた人物を次々に殺していった。しかし、なぜか三人まで殺して四人目の犠牲者出なかった。このことは何を意味しているのか?内田が三人だけ殺害して四人目は諦めたと考えるのはどうも復讐という面から考えて合点がいかない。四人目の男は十五年前の小学生致死事件に関わっていなかっただけなのか。むろん、関わっていたとして自ら名乗り出るはずもない。わざわざ十五年前の汚点をさらけ出す人間などいないからだ。しかも、関係者は全部死んでいる。それ以前に警察は十五年前の事件に関わったのは三人だけと決めつけているようだ。他にいたのかなど毛頭考えていない。少々情けないように思えたが、あの複雑な事件を解決できただけで満足、いやそれ以上手が回らなかったのかもしれない。
 しかし、新たな事実をこのままうもらせておく気にはなれなった。何か裏がある気がしてならなかったのだ。
 竹内は車をいつも家に帰る道順で走らせた。旧国道二四七号線に入り、東海市から知多市へ向かった。目的地は先日訪ねた中野元巡査の家だった。
 中野は在宅していた。チャイムを鳴らすと中野本人が玄関に現れた。
「突然、失礼します」
「あなたはこの間常滑署の刑事さんと一緒にお見えになった方ですね。お名前は・・・」記憶を辿ろうという顔つきをした。
「竹内です」
「竹内さんですか、それで今日は、お上がりになりますか?」
「いええ、ここで結構です。実は先日のお話の件なのですが、殺された三人の方は仲間同士だというのははっきりしたのですけど、彼らは三人でなく四人だということはないですかね」
「さあ、前も言ったようにあの人たちのことは名前ぐらいしか覚えていないので、四人いたかどうか・・・」
「そうですか」竹内は失望したような顔をした。
「なんなら当時の中学校の先生を私知っているんですけど、その人を訪ねてみるかね」
「そうですか、できたらお願いします」
 中野は奥に引っ込み、しばらくしてからメモを持って手渡した。
「こちらの方を訪ねるといいですよ。阿久比の方ですんで佐布里池を通って行けば早いでしょう。予め、私の方から連絡を入れときますんで」
「ありがとう、ございます」竹内は心を込めて礼を言った。
「竹内さん、あんた警察の人間じゃないんでしょ。何でそう事件に興味ももたれるんす?」
「いや・・・その」
「まあ、いいさね。あんた刑事より刑事らしい目を、いや人間らしい目をしとりますな。お気をつけて」
 竹内はもう一度お辞儀をして辞した。

 佐布里池を通って、東浦町に抜ける県道に入った。中野のくれた案内図に従い、住宅地の小道を進んだ。目的の家はすぐに見つかった。まだ新しい一戸建てのお洒落な家だ。中島和子は元教師で今はのんびりと家で過ごしていた。十五年前の事件当時は半田中学校に新任教師として来たばかりであった。中野から連絡があったと見え竹内の訪問には快く迎えてくれた。
「突然お邪魔して申し訳ありません。中野さんから御紹介にあずかったもので」
「はい、先程お電話ありました。何でも昔の中学校のことをお知りになりたいそうで。どうぞお上がりください」
 中島は竹内を応接室に案内し、奥から冷たい飲み物を持ってきた。
「どうも、すいません。あのですね、先日知多半島の各地で起こった殺人事件は御存知ですよね」
「はい」中島は少し目を細めた。
「その被害者たちの方は御存知ですよね」
「はい、彼らのことは良く知っています。私が初めて担当したクラスですからよく覚えています。最初はあまり気にしていませんでしたが、坂氏が亡くなられた時はっと気づいたんです。それで、もう驚きました。しかも、過去にあんなことがあったなんて。彼らそんなことをするような子ではなかったんですけど。残念です。私にもう少し生徒を見る目があったら、何とか相談に乗ってやれたかもしれないのに。いまさら悔やんでもしかたありませんが、彼らも永い間苦しんでいた と思うと・・・・・・」中島という教師は実に生徒思いの先生に竹内は見えた。悲しそうな表情が竹内に痛いほど伝わった。
「それでですね、亡くなった三人ですが、いつも三人でしたか?誰か他にも仲間がいませんでしたか?」
「三人?そう・・・そうですね。彼らは三人でなく確か四人だったような気がしますわ。三人のことはよく覚えていますがもう一人は誰でしたかしら・・・。ちょっと待って下さい。当時のアルバムを持ってきますから」
 中島は別の部屋に行きしばらくしてから大きなアルバムを抱えて戻ってきた。フエルアルバムのようで随分多くの台紙が挟まっている。テーブルの上に置いてページをめくった。
「この写真かな。一年二組。そう、これですね」
 台紙には教師だけの写真と、生徒が並んでいる大きな写真が二枚張ってあり、反対側の台紙には写真と対応した名前の紙が張ってあった。確かに殺された三人が写っている。竹内も被害者たちの顔をハッキリと覚えているわけではないので、現在と比べようもないが中島は次々と指を指し示した。そして・・・。
「ああ、この子ですわ、もう一人の仲間というのは」
 竹内は中島が指差す顔写真を見た。
———おや?どっかでみたな。
 竹内は写真に対応している名前の一覧を見た。その時だ、すべての謎、からくりが分かった。こいつが狐だったのだ。だが、それと同時竹内はとんでもないミスを犯したことに気づいた。
———シマッタ。彼女が、吉田さんが危ない。
 竹内は「どうもありがとうございました。これで失礼します」と礼を述べ、中島の返事もきかず、慌てて家を出た。
———何ということだ、俺はすっかり騙されていた。そして、取り返しの付かないことを・・・・・・。

         3

 五時半になり、真紀はいつものようにすぐタイムカードを押した。前の仕事の残務的な処理なので残業するほどの仕事ではないからだ。まあ、定時に帰るのは残業をしていく人に申し訳ない気はしていたが、仕事は仕事とわりきるしかない。四十分になったころ「お先に失礼しますと」と言って先に事務所を出て、ちょうど来たエレベーターに乗った。
 もう一人そのすぐ後事務所を出た者がいた。しかし、誰も気にする人などいなかった。

 竹内は車に飛び乗り、一路名古屋を目指した。県道を戻って阿久比インターから知多半島道路に入った。すぐさま自動車電話を取り、会社に電話した。この時ほど自動車電話を買ってよかったと思った日はない。
「もしもし、竹内ですけど」
———お疲れさまです。
「えっと、どなた?」
———森ですけど。
「森君か・・・」森が相手では話が見えてこないので誰かに代わってもらうことにした。
「誰かいるかい側に」
———はい、真野さんとかがいますけど。
「じゃ、真野さんに代わってくれ」
———真野ですけど。お疲れさま。竹内さんさっき来たと思ったらまたどっかいっちゃって何してるの?
「ええ、いろいろ。あの吉田さん帰りましたか?」
———ええ、さっき帰ったわよ。定時ですぐに。
「ちっ、遅かったか、どうしよう」
———なあーに、何か約束していたの?
「いえ、そんなんじゃないんですけど、あの、もう一人・・・・・・」
 竹内はもう一人の人物の所在について尋ねた。
———・・・ええ、もう、帰られたわよ。
 しまったどころではない。最悪の結果になろうとしている。竹内は慌てた。
「真野さん、吉田さんの帰る道、道順は分かりますか?」
———真紀ちゃんの家、そうね、裕予ちゃんなら家が近くだからよく知っていると思うわ。今替わるから。
 すぐに渡辺が電話口に出た。
———竹内君、どうしたの真紀ちゃんの家なんかきいて。怪しいわね。
「今は、そんなことを言っている場合じゃないんです。一大事なんですから。確か、彼女、海部郡の方ですよね」
———はい、はい海部郡の七宝町よ。で、真紀ちゃんの帰る道順ね。こっから歩いて駅まで行って、地下鉄で中村公園まで乗って、そこから名鉄バスで七宝町の役場の方まで行くはずよ。確か『秋竹西橋』っていうバス停で降りて少し歩いていくはずよ。
「そうですか。分かりました」
———竹内君どうするの?
「何とか、彼女に追いつくよにしますから、じゃどうも」
 竹内は電話を切って、運転をしながら地図を見た。ここから七宝町に行くにはこのまま知多半島道路を突っ走り、名古屋高速に入って、東名阪自動車道に入る手前で降りるしかない。とにかく急ぐのみだった。

 真紀は地下鉄に乗っていた。いつもの通りこの時間はラッシュアワーでそれなりに込み入っている。夕刊を広げて読んでいるおやじや疲れたサラリーマン、はしゃいでいる学生などで地下鉄の騒音ほど騒がしい。真紀は釣り革につかまり無意識のままぼんやりしていた。ある人物が彼女を視界の中に捕らえているのにも気がつかず。

 スカイラインは知多半島道路を突っ走っていた。制限速度など無視し、できるだけ前に進んだ。大府市の案内が目に入ったころ、竹内は思いついて自動車電話を取った。うる覚えの常滑署の番号を押し、杉浦刑事を呼び出してもらった。
「杉浦さん、竹内です。実は緊急事態ですので御協力をお願いしたいのですが」
———はっ、どうされたんです。随分慌てているようですね?
「ええ、今ある女性が狙われている、命の危険が迫っているんです。ですから、彼女を保護するために緊急手配をお願いしたいんです」
———しかし、どうしてですか?何があったのです?
「実は知多半島連続殺人事件の真犯人が分かったんです」
———ちょっ、ちょっと待って下さい。どういうことなんです、あの事件は・・・。
「今は説明している暇がないので簡単にいいますが、あの事件は裏で糸を引いている人物がいたんです。まったく事件に登場していないのですが、三人や内田氏を殺害したのもその人物なのです。私たち、私はすっかり騙されていたのです」
———何のことやらさっぱりですな。
「とにかく、緊急にお願いします。その真犯人は彼女を狙っていますから、彼女を保護すると同時に逮捕もしてください」
———わ、分かりました。で、誰を。
「吉田真紀、住所は・・・」竹内は彼女の住所や帰りの道順、特徴などを説明した。杉浦は曖昧模糊のまま電話を切った。
 車は知多半島道路から名古屋高速に入った。

 真紀の乗った地下鉄は中村公園に到着し、彼女は駅からバスステーションのある地上に出た。バス乗り場には既に長蛇の列ができ、真紀も最後尾に並んだ。彼女の後ろにも次々と人が並び列から人が溢れんばかりだった。ちょうどバスが来て、人々が乗り込みだした。バスはぎゅうぎゅう詰めの状態で身動きできない。慣れっことはいっても、暑い夏の夕方にすしづめでは堪らない。冷房も効いているのかどうか分からないほどだ。そういうわけで彼女は周りを見る余裕など全く なかった。

 竹内は名古屋高速を飛ばした。料金所を越え星崎から直線になってからは百キロを突破しエンジンをうならせている。
 竹内は憤っていた。真犯人に騙されたというといことではなく自分自身に対してだ。今まで事件に関わって自分の力を過信してしていた。おごりたかぶり、いい気になって事件に関与したのが最悪の結果を生もうとしていた。真犯人は竹内を利用したのだ。今までの成果を知った犯人は竹内を利用することで事件の方向を偏らせた。そして事件は真犯人の思惑どおりに事が運んだのだ。竹内はダシに使われた。見事に嵌められた、術中にはまったのだ。
 いまさら、その事に気づいても遅かった。事件の真意を見抜けなかった自分が情けない。すべて最初から、小野浦海岸へ海水浴に行くときから計画は始まっていたのだ。その後、偶然もありながら、事件は犯人のおもむくままに進んだのだ。そして、事件は真犯人の意図する結末を迎えた。
 竹内は小さな疑惑から事件の裏を見つけようとした。それはそれでよかったのだが、そのために思わぬ事態が発生した。五人目の犠牲者が出ようとしている。犯人の魔手は吉田真紀にも及んでいるのだ。
 道は鶴舞の手前で大きくカーブする。直前にオービスがあり、車のレーダー探知機がピコピコ鳴っているのが、気にはしていられない。タイヤを軋ませながら遠心力に負けないぎりぎりのラインで急カーブを曲がった。山王で再びカーブを曲がり、名古屋駅の手前で最後のカーブに乗った。しばらく行くと後方からパッシングしてくるライトに気づいた。単灯のライトなのでバイクだろう。なんだ飛ばし屋かと思っていると、そのバイクはパッシングを続けながら猛スピードで竹内の車の横に付いた。振り向くとライダーはスーツのズボンにカッターシャツを着て、ネクタイまでしていた。ヘルメット越しに見える顔は伊藤賢司だった。伊藤はこっちを向くと左手を指して止まるよう指示した。竹内は目前にあった非常停止地帯に車を止めた。伊藤もその後バイクを止めた。
 竹内は車を降りて駆け寄った。「どうしたんだ、伊藤君、今急いでいるんだけど」
 ヘルメットを脱いで伊藤は答えた。「真野さんたちから話をきいたんだ、竹内さんが急いでいるって。竹内さんが海部郡の方へ行くって言うんで、皆で話し合ったんだけどあっちの方は今の時間渋滞がひどいから、バイクの方がいいんじゃないかってことになったんだ。そんで、ツッチーが残業で帰りが遅くなるんでバイクを持ってきていたから、それを使おうということになったんだ。まあ、とにかく急いでよ。車は俺が乗っていくから」
「そうか、ありがとう。皆にも礼を言っといてくれ」
 竹内はそういうとヘルメットを受け取り、バイクに跨がった。竹内は一応二輪の免許を持っていたが、随分乗っていないので少々乗り慣れなかった。しかし、今はそんなことを言っている場合じゃない。昔の感を頼りにバイクを飛ばした。真西へ向かう高速には夕日の黄昏がせまり、ヘルメットのバイザー越しに眩しかった。

 真紀の乗ったバスはいつもの通り渋滞にはまっていた。名古屋市の中村区から海部郡の大治町に入るのだが、その間には庄内川と新川があるため橋の渋滞が著しい。とくにこのバスが通る大正橋・大治橋は車線が片側一車線のためなおさらだった。毎度のことなので乗っている人たちはどうということはないが、一人だけいらいらしている人物がいた。
 時間の流れは三人にとって三者三様だった。

 竹内が乗ったバイクは千音寺出口から出ようとしていた。予想どおり、東名阪と合流するこの地点は料金所渋滞が始まっており、車はのろのろ運転していた。バイクの竹内はそれを尻目に道路の脇をすり抜けていった。伊藤たちの考えは正解で、竹内は彼らに感謝していた。
 千音寺から北上してすぐに大治町に入った。この辺も車線は多いものの渋滞は慢性的だった。しばらく走って津島方面に向かう県道に曲がった。ここも相変わらずの渋滞だ。車の脇を突っ走るが、道幅が狭いためすり抜けるのもままならなく、歩道を通ることも稀ではなかった。時折バスの横を通るが、びっしり人が乗っていては真紀がいるかも確認できない。どのバスに乗っているかは分かるはずもなく、行き違いを避けるため、まず真紀の家に向かいそこから逆に道を辿るつもりだった。バス停には警察も控えているはずだ、彼女を保護できると希望的な観測をするのみだった。

 真紀のバスはいつも降りる「秋竹西橋」に着いた。しかし、彼女は降りなかった。今日は雑誌を買うため本屋に寄るつもりだったので、次のバス停まで乗って行くことにしたのだ。真紀はバス停に警官がいるのに気づいた。降りていく女性一人一人に質問しているようだった。何かあるのかなと思いながらも自分とは関係ないという意識で見つめていた。

 竹内はやっとのこと真紀が利用するバス停まで来た。そこには警官が二人立ち、バスを待っている様子だった。竹内はバイクを止め警官に近づいた。
「あの、吉田さんは見つかりましたか?」
「はあ、まだですけど、ちょっとあなた、何でそのことを知っているのですか?」
「いえ、まだならいいんです」と竹内は呼び止められているのも無視しバイクに飛び乗った。
「おい、待て・・・」
 ひとまず真紀の家に行くしかない。警官が真紀を確保していないのならまだ彼女はバスだと思えるが、竹内には何となく胸騒ぎがしていた。

 真紀は次のバス停「安松」で降りた。十人ほどが降り、各方向に散らばっていく。役場があるのでここらへんが七宝町の中心である。名鉄津島線にも「七宝」という駅があるが、七宝町の北の端で美和町や甚目寺町の境にあり、こことはかけ離れている。小学校の脇は通り、銀行のそばにある本屋に入った。目的の雑誌を見つけすぐに店を出た。すでに辺りは真っ暗になり電灯の明かりだけが等間隔に照らしている。人の気配は疎らになり、いつしか真紀は一人っきりで闇夜の田舎道を進んだ。

 真紀の住所をきいたものの字があるような田舎ではどこがどこなのかさっぱり分からないし、夜とあっては方向もままならず、人に尋ねたくても誰もいない状態だった。ゆっくりバイクを走らせ周りを覗いたすると前方に赤色灯のランプが見えた。パトカーだろうか、たぶんあそこが真紀の家なのだろう。竹内は一目散にバイクを進ませ、その家に乗り入れた。暗がりではっきりしないが門構えのある大きな家だ。敷地も広く、家より庭のほうが大きいくらいだ。
 警官が竹内に気づき寄ってきた。
「何でしょう?」
「こちらは吉田さんのお宅ですよね。吉田さんは帰られましたか」
「いえ、まだですけど、あなたは?」
「私は竹内といいます。吉田さんを探すよう依頼したのは私です。そうですか、まだですか。バス停にもまだ着いていないのですよね」
「ええ、今連絡したところバスに乗っていないと」
「分かりました。私はこのままバス停に戻ります。あとはよろしく」
「ちょっと・・・あなた・・・」
 竹内は妙に不安だった。どこかで手違いがあったような気がして、いてもたってもいられなかった。

 真紀は暗い道を家路に急いでいた。いつも通る慣れた道だが、今日はやけに違和感を感じた。夏も終わり、田んぼには秋の虫の音が響きだしている。蛙の声もまだ聞こえた。砂利を踏む自分の足音が聞こえていたが、そのリズムとは違う音が微かに聞こえた気がした。
 真紀はふと足を止めた。何も不穏な音は聞こえない。気のせいかと思い再び少し急ぎ足で歩き始めた。すると背後に足音の気配が感じられた。やはり誰かいる。この辺でもときたま痴漢が出没することがあるので、真紀は怖くなって駆けだした。しかし、後ろの足音は速度を増し一気に彼女との距離を縮めた。真紀が叫ぼうかと思った時、背後の人物は彼女に襲いかかって、口を押さえた。
「静かにしろ!」その男は低い声で恫喝した。真紀はその顔を見ようとしたが光の加減でよく見えない。しかし、どこか聞き覚えのある人物だった。
「吉田さんは知りすぎている。いや、覚えていたことがまずかったんだ。君が岩滑にいたとは驚きだよ。しかし、昔の事まで覚えているとはね。運の悪い人だ。気の毒だが、このまま・・・」 その時、爆音とともに一筋の閃光が射した。エンジン音が消えると大きな声が響いた。
「田岡!もうやめろ。お前の正体は分かっているぞ」
「ちっ、竹内めこんなところにまで来やがって」田岡は真紀を突き放し、走り始めた。
 竹内はすかさず動き出し、田岡の前に出てくい止めた。怒り心頭の形相で田岡は竹内をどけようと右手を振り上げたが、竹内はそれをかわし田岡の腕をつかんで羽交い締めにした。
 騒々しいサイレンを鳴らしながらパトカーが現場に現れ警官が駆けだしてきた。竹内は「彼を確保しておいて下さい。殺人と殺人未遂の容疑です」と言って田岡を引き渡すと、すぐに真紀のところ駆け寄った。
「大丈夫かい、吉田さん」竹内は倒れている真紀を抱き抱えた。
「はい、大丈夫です。でも、どうして田岡さんが私を襲ったのですか?」
「田岡が知多半島連続殺人の真犯人なんだよ」息を弾ませながら答えた。
「えっ、本当なんですか・・・」真紀は信じられないという表情で言った。「じゃ、内田さんは・・・」
「そう、内田さんは犯人じゃない。しかも、多分田岡に殺されたのだと思う」
「そ、そんな・・・、どうして、どうしてなんですか?」真紀は狂ったように尋ねた。
「詳しいことは分からないが、田岡は岩滑の事件に関与していたんだ。そして、十五年前の事件を隠すために同級生を殺害し、内田さんに罪を着せようとしたんだ」
「なんて、恐ろしいことを。でも、なぜ私まで」
「それは僕に責任がある。今日を君を訪ねたとき殺された三人に仲間はいたかとう質問をしたね。それを田岡がきいていて君が四人目の存在をほのめかしたから、奴は君が自分のことを思い出すかもしれないと先手を打ったのさ」
「そう・・・そうなんですか」真紀はつぶやくように小声でいった。
 救急車のサイレンが聞こえ、赤色灯をつけた車が近づいてきた。
「僕は騙された、化かされたんだ。狐の正体は奴だったんだ」竹内はホッとした面持ちで独り言を言った。

         4

 田岡真二は東京から名古屋に戻り、久し振りに旧友の坂と再会した。その時、田岡は坂から悩みの告白をされた。十五年前の事件を悔い、被害者の家族や内田に対して謝りたいと。坂は元々気の弱い性格で当時も一番びびっていた。
 蝦名少年を殴ってしまったのは実際には田岡であった。だが、その場にい合わせた古川、坂、高山も直前まで一緒になっていじめていたので、少年が倒れた時には動転してしまった。田岡は何とかその場を取り繕うと、少年を半田池まで運ぶことを提案、仲間たちも恐れおののいていたが不承不承手助けをした。この事は四人の秘密として一生明かさないことを誓い、四人は沈黙を保った。
 内田青年が容疑者になっても四人は黙したままだった。むろん、坂たちは正直に言おうと田岡に提言したが、田岡は頑として聞き入れず、言えば皆少年院だと脅し、事件のことを一切封じ込めた。そして内田青年は死んだ。そのため事件は終結となり、田岡たちも安泰となった。
 しかし、坂はその罪の重さに悩まされつづけた。もちろん、古川や高山も同様で事件の後は性格が変わっていった。そして、皆半田を去り、それぞれの生き方を進んだ。だが、坂はその悪夢にさいなまれ、両親の死後、過去を消そうと自分の経歴も偽るようになった。だが、罪の意識は決して消えない。いつも悪夢を見ていてぐっすり眠ったことなどもなかった。妻もその夫の行動に疑問を持ったが、決して坂は打ち明けようとはしなかった。自分の犯した罪も恐ろしいが、罰せられることも恐ろしかったのだ。
 十五年が経った。殺人の時効が成立すると考えた坂は自分の犯した罪を告白することにした。蝦名少年の両親は行方知れずでどうしようもなかったが、内田青年の兄はまだ岩滑にいることを知った。その時、田岡が訪ねてきたのだ。坂は田岡に打ち明け相談に乗ってもらった。仲間の名は明かさないから、謝罪の手紙を出さしてくれと懇願した。
 田岡は驚いた。いまさらそんなことをされてはいくら名前を明かさないと言っても内田の兄がどういう行動に出るか分からないので坂の行動を見過ごすことは出来なかった。最初は何とか説得しようとしたが、坂は全く譲らず、田岡は説得をあきらめ別の手段に出ることにした。自分を守るために坂を殺害することを決意したのだ。
 ただ、単に殺したのでは友人の線から自分に捜査の手が回るかもしれない。そこで、思いついたのが、坂の告白を逆手に取って、内田が復讐のために坂を殺したと見せかけることだった。その、復讐の意図を明白にするため当時の仲間、古川と高山も殺すことにした。それには、彼らも坂のように軟弱な考えをおこすかもしれないという懸念もあり、田岡は一石二鳥を狙ったのだ。田岡は考え、復讐の強調を際立たせるため新見南吉の童話を模倣した見立て殺人を考えた。こうすれば、内田の犯行だということが明確になると踏んでいた。しかし、警察がこのことに気づかなければ元も子もない。内田の自殺死体が見つかっても知多の事件は未解決のままになってしまう。
 そこで、思いついたのが竹内の存在だった。竹内のことは名古屋に戻ってきて、トリオの連中からいろいろきいていた。なかなかきれる奴だと踏んだ田岡は彼を利用することにした。竹内の目の前で奇妙な殺人を見せればきっと興味を持つだろう。続いて、同じ様な奇妙な事件が続けばもっと興味を持つだろう。そして、その事件の謎に挑み、突き詰めて過去の事件にも突き当たっていくと田岡は推測した。竹内が新見南吉のことを知っているか不明瞭だったが、適当に餌を振 れば食いつくだろうと考えていた。
 小野浦海岸の殺人が計画の始まりだった。田岡は岩滑を出たあと常滑に住んでいた。そのため小型ながらもモーターボートを所有しており、古川を呼び寄せ殺害、ボートに乗せ小野浦海岸の遊泳許可ラインぎりぎりまで運び、重しを付けて静めておいた。その時の紐の痕が死体には残っていた。
 翌日、潮の流れを考えタイミングを見計らって、沖まで泳ぎ、紐を外して死体を流した。白井たちが上がってきたあとシュノーケルを借りて泳ぎにいった時だ。山田にぶつかったのは偶然だったが、案の定竹内は遺体に興味を持った。田岡の思惑どおり餌に食いついたのだ。
 一週間後、第二の殺人を実行した。当初、最初に殺害するのは坂のつもりだったが、その日は坂が出張のため捕まえられなかった。海水浴の日は決まっていたので、急遽古川を殺害することにしたのだった。坂は、古川が殺されたことにおののいていた。むろん、内田がやったと思い込んでいたからだ。次は自分が狙われる。そう思った時、田岡から連絡があり、坂は自ら蟻地獄へと向かっていったのだ。
 竹内は田岡の予想どおり、事件にのめり込み始めていた。飲み会に行った時、わざとその話を振ったのだが、ここで土田と真紀が事件の確信をつくような説明をしてくれ田岡にはラッキーだった。竹内が南吉のことに気づかなければ何気なくほのめかしていくつもりだったのだが、そんな面倒なことをしなくても事は順調に進んでいった。
 続いて、第三の殺人、高山も二つの殺人には驚き、恐怖していた。田岡は自分も狙われている振りをして高山を呼びつけ犯行に及んだのだ。
 そして、最後の仕上げだ。警察の捜査状況はつかめなかったが、竹内の動向に注意を促し、絶好の機会を狙って内田の殺害を施した。まず、内田の家に行き、昔の知り合いだと言って近づいた。内田は田岡のことを全く知らず、戸惑ったが十五年前の真実を知っている人物に合わせると言ったら、のこのこと付いてきたのだ。田岡は内田が出掛ける準備をしている間に坂の手紙と、高山の血が付着した服をこっそり隠すことを忘れてはいなかった。
 師崎の近くまで、内田の車で行き、途中で買ったジュースに薬を混ぜ眠らせた。その後、海まで運んで溺死させたのだ。高山の靴を車に隠し、師崎港に置いてその場を去った。
 真紀の存在は以外であった。彼女が新見南吉のことに詳しいとは田岡にとってはありがたかった。危険を犯し新見南吉のことを示唆しなくても彼女のおかげで竹内が作戦に乗ってくれた。実際、竹内が南吉のことに気づかなくてもいつか誰かが気づくと田岡は考えていた。しかし、死因をバラバラにし、連続でないように見せ掛けつつ、連続のようにも思わせるという殺人のタイミングを考えると適度に南吉の謎を解いてもらうほうが好都合であった。
 計画の実行はすべて終わった。あとは竹内と警察が自分の想定した通りに動き、考えてくれればいいのだ。そして、その通りになった。田岡は歓喜した。完全犯罪というものこういものだと。田岡は自分の存在が全く露呈していないことに満足だった。バカな警察と、探偵能力をひけらかしている竹内をまんまと手玉に取ったことが面白くてしょうがなかった。
 だが、竹内は只者ではなかった。どうして、四人目の存在に気づいたか田岡には分からなかった。しかし、奴は気づいたのだ。そして、真紀に四人目の存在を確認してきた。彼女が岩滑にし かも十五年前にいたとは驚きだった。彼女は四人目の存在を思い出した。例え、幼くてももしかしたら当時のことを自分のことを覚えているかもしれないという不安が募ってきた。悪芽は早いうちに摘んでおいたほうがいい。田岡は早速実行に移った。彼女の後をつけ、機会を見計らって殺る腹積もりだった。しかし、それが結局裏目に出てしまったのだ。

 八月も終わり残暑も厳しいが秋の気配はもうそこまできていた。秋雨前線が延びてきて、秋の長雨になろうとしている。竹内は近くの神社で行われる秋祭りの準備のため消防団の集いに参加した。その席に杉浦もいた。休憩時間二人は神社の祠でビールを片手に話していた。
「今回のこと本当に申し訳ありません。僕が余計なことを言ったばかりに事件を誤認させてしまって。まかり間違えばとんでもないことになってかもしれないことになったかもと思うと」竹内は恐縮の極みで言った。
「いえ、竹内さんが謝られることはありませんよ。元々、私の方が無理に協力を要請したんですから。それに、竹内さんがいなければ事件は本当に解決しませんでしたよ」
「はあ?」
「もし、竹内さんが事件に関わらなかったとしたらどうなります。どのみち新見南吉の謎は竹内さんが解かなくても誰かが気づいたはずです。むろん、竹内さんほど早くはありませんが。中野巡査も言ってたでしょ、岩滑の住んでいれば南吉の事ぐらい気づくって。だから、そのうちあの事件の装飾は『新見南吉』だということは捜査陣の耳に入るはずです。もし、入らなくても田岡自身がタレコミという形で電話を入れるつもりだったそうです。そうなった場合結果的には事件は同じ形で終結するはずです。内田氏の自殺遺体が見つかり、手紙が発見され、過去の因縁で三人の男たちを復讐したという、田岡の思うどおりの筋書きで運んだはずです。刑事である私が言うのも変ですが、警察は証拠さえそろえばそれで事件を解決してしまいます。我々は田岡の餌に食いつき、見事踊らされることになっていたはずです」
 竹内は黙って杉浦の話をきいた。
「しかし、竹内さんはその裏の裏に気づいた。恥ずかしながら我々は気づいていなかった、見落としていたことに気づいたんですよ。そして田岡の企みを見事に看破した。田岡はあなたを見くびっていたんですな。ただの素人と軽く見ていたのがあいつの失態でしたよ。いや、ほんと、あたまが下がりますよ」
「そう言ってもらうと、私も心が休まりますよ。しかし、今回のことは反省するべきことが多いですよ。自分に幾分かの自惚れがあったのは否めません。事件の謎を解くことに熱中しすぎその真実を見抜けなかったのは私のミスです。今後はこういうことは抑えないとね」
「いやいや、あなたの力は素晴らしいものです。ただのサラリーマンにしておくのは本当にもったいない。いまさら、刑事は無理でも探偵みたいな仕事をすれば結構ためになる気がしますが」「杉浦さんまでそんなことを言わないでくださいよ」
「はあ?ちなみに、竹内さんはどこで田岡の犯行と気づいたのですか?」
「田岡の存在は最後まで気づきませんでした。そうでなければ吉田さんの危機は免れたはずですから。ただ、四人目の存在は気になっていたんです。もちらん、最初は考えもしませんでしたが、真紀さんの内田青年に対する思い、彼は絶対に犯罪を犯していないという思いに私も感化されたんです。ですから、内田青年の兄もあんなことをするはずはない、そう思ったからですよ」
「そういうことですか。刑事はよく先入観をもってはいけないと言われますが、あなたは違うのですな。先入観というより信念といった方がいいかもしれませんが」
「いえいえ、ところで田岡の方は自白したんですか?」
「ええ、案外素直に吐きましたよ。吉田さんを狙ったのは間違いないのですから。自白させるのはわけないですよ」そういう面は老練の刑事らしい。
「でも、状況証拠ばかりで立件はできるのですか?」
「田岡のボートから古川氏の毛髪と指紋が見つかりました。これで物的証拠は完璧です」
「そうですか・・・」竹内は少し虚ろな目をした。加害者とて事件が終われば一人の人間と竹内は思ってしまうからだ。
「そうそう、吉田さんからもいろいろ話はききました。彼女何度も辛い目にあいながら気丈に話してくれましたよ。見た目とは違ってしっかりした子ですな。・・・竹内さんとはお似合いじゃないんですか」杉浦はニヤリと笑ってみせた。
「よしてくださいよ、杉浦さん」
「おや、雨ですな中に入りましょうか?」
「ええ、そうですね」
 どんよりとした雲からぱらぱらと雨が降ってきた。その雨を竹内は顔で受け止めた。竹内はその雨が南吉の涙のような気がした。その理由は竹内と真紀にしか分からないだろう。

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